違う数え方、同じ言葉
翌朝、学生寮の重い扉を開けたアンドレの足取りは、いつになく軽やかだった。学校へは歩いてたったの5分。いつもなら「誰かに会ったらどうしよう」と縮こまっていた通学路も、今朝は違っていた。昨日声をかけてくれたセシルに、自分から「おはよう」と挨拶をしたかったのだ。
教室の扉を開け、席について間もなく、プラチナブロンドのポニーテールを揺らしながらセシルが入ってきた。
目が合った瞬間、アンドレは息を吸い込み、少し緊張しながらも声をかけた。
「……おはよう、セシル」
「あ、アンドレ! おはよう!」
セシルは青い瞳を輝かせ、花が咲くような笑顔を返してくれた。そのままアンドレの机の前に駆け寄ってくる。
「ねえ、昨日のノートのコツ、どうだった? 少しは役に立った?」
「うん、すごく分かりやすかったよ。論述の書き出しとか、接続詞の使い方のコツが掴めた気がする」
「よかったぁ! 私もね、昨日アンドレに教えてもらった解き方を家に帰ってからもう一回復習したんだけど、全部解けるようになってたの! お父さんもお母さんも、数学が大の苦手な私がスラスラ解いてるのを見て、ものすごくびっくりしてたよ」
セシルはいたずらっぽく笑い、それから少し眉を下げて手を合わせた。
「私、本当に数学と理科が壊滅的だから……また教えてくれると嬉しいな」
「もちろん。……僕の方こそ、フランス語や歴史・地理の記述、また教えてほしい」
「やった、決まりね!」
二人は顔を見合わせて小さく笑い合った。
昼休み、二人は中庭のベンチで一緒に昼食をとることにした。
セシルがサンドイッチを頬張りながら、ふとアンドレの横顔を覗き込んできた。
「そういえば、アンドレってどこから来たの? 学生寮にいるってことは、結構遠くからリヨンに来たのかなって思ってたんだけど……ブルターニュ? それともアルザスの方?」
フランス国内の地方名を当てるセシルに、アンドレは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「いや……フランスじゃなくて、ベルギーのワロン地方の生まれなんだ」
「えっ、ベルギー!? そうだったんだ!」
セシルは驚いたように目を丸くしたが、嫌な顔一つしなかった。アンドレは自分のベルギー訛りを思い出し、少し口ごもる。
「……だから、僕のフランス語、イントネーションとか変じゃないかなって、ずっと気にしてて……」
するとセシルは、真剣な青い瞳でアンドレをまっすぐに見つめた。
「全然おかしくないよ。アンドレの言葉、伝えたいことがちゃんと伝わってくるもん。それにね、訛りがあったって、相手に何かを一生懸命伝えようとすることの何がおかしいの? 違う国から来て、その国の言葉を一から必死に覚えて話している人だってたくさんいるじゃない。アンドレは国こそ違うけれど、同じフランス語を話しているんだから、そんなに思い詰めて苦労を感じる必要なんてないよ」
セシルの言葉には、ただの慰めではない芯の通った温かさと重みがあった。
昨日、リヨンの姉イザベルがメッセージで言ってくれた「堂々としていればいい」という言葉が、セシルの真っ直ぐな瞳と重なる。
(姉ちゃんが言ってたこと、本当だったんだ……)
胸の奥をずっと締め付けていた重荷が、ふわりと消えていくような感覚だった。アンドレは深く息を吐き、心から安堵の笑みを浮かべた。学校という場所が、昨日までよりもずっと温かく感じられた。
放課後、夕暮れ時の教室で、二人は並んで勉強会をしていた。
心の壁が解けたアンドレは、いつの間にか取り繕うのをやめ、生まれ故郷のワロン訛りのフランス語で、飾らない「素」の口調で話していた。
「――だからさ、ここの計算は先に因数分解した方が早いんだよ。……あ、70(セプタント)を掛ける前に、こっちを整理して……」
「ん? セプタント……? あ、70(ソワサント・ディス)のこと!?」
「あ……っ!」
思わずベルギー式の数え方が口から飛び出し、アンドレは慌てて口を押さえた。だが、セシルはからかうどころか、目を輝かせている。
「ベルギーって、70を『セプタント(septante)』って言うの!? じゃあ、80や90は?」
「ええと……80は地域によって『ユイタント(huitante)』とも言うけど、俺のところは80は『キャトルヴァン』かな。でも90は『ノナント(nonante)』って言うんだ。……フランスの『60+10(soixante-dix)』とか『4×20+10(quatre-vingt-dix)』より、十進法として合理的だと思わない?」
口調が「俺」に戻り、少し熱っぽく語るアンドレに、セシルは「確かに!」と大きく頷いた。
「すっごく合理的! 4×20だなんて、なんでフランスはわざわざ計算させるんだろうね」
「だろ? ……でもさ、俺、コレージュ(中学校)からリヨンに住んでるんだけど、フランスに来た初日にこの数え方のせいでクラスのみんなに笑われたことがあってさ。そのあと先生がフォローしてくれたんだけど、それ以来ずっとコンプレックスだったんだ。……だから、セシルにそう言ってもらえると、すごく嬉しいよ」
「えーっ、笑う人たちの方が変だよ! 違う文化の合理的な言葉を知らないだけじゃない」
セシルはぷくっと頬を膨らませて怒ってみせたあと、すぐに悪戯っぽく微笑んだ。アンドレもつられて笑ってしまった。
気がつけば、窓の外はすっかり茜色に染まり、下校を告げる鐘が校内に鳴り響いた。
「あ、もうこんな時間! 楽しすぎてあっという間だったね」
セシルが名残惜しそうにペンを筆箱にしまい、立ち上がった。
「アンドレ、今日もいっぱい教えてくれてありがとう! 明日もまた一緒に勉強しようね」
「うん。俺も、フランス語の添削ありがとう。すごく助かった」
教室のドアの前で、セシルが振り返って手を振る。
「それじゃあ、また明日! 寮まで気をつけて帰ってね、アンドレ!」
「セシルも、気をつけて帰ってね。また明日」
夕暮れの廊下を去っていくセシルの背中を見送りながら、アンドレは自分の胸に手を当てた。
昨日までの怯えや憂鬱は、もうどこにもなかった。明日学校に来るのが、生まれて初めて楽しみだと感じていた。




