家族からの励まし
「それじゃあアンドレ、また明日ね!」
放課後の教室で、セシル・サルヴェールはプラチナブロンドのポニーテールを弾ませ、眩しい笑顔で手を振った。実家から通学している彼女は、夕暮れの街へと軽やかに帰っていく。
アンドレは学校から歩いて五分ほどの学生寮に戻り、自室の机に向かっていた。
ノートを開き、今日セシルから教わった文系の表現や論述の構成を眺め直す。整然とした彼女のペンの跡を見るたびに、胸の奥がトクンと落ち着かない音を立てた。まだ信じられないのだ。あんなにも明るく快活で、誰が見ても可愛い女子生徒が、自分なんかに声をかけてくれたことが。
(……それに、あの子は俺の話し方をどう思っているんだろう)
ベルギー訛りを気にして言葉を詰まらせた自分を、彼女は内心どう見ていただろうか。馬鹿にされたわけではないと分かっていても、不安と気恥ずかしさが頭の中をぐるぐると駆け巡る。
その時、机の上のスマートフォンが短く震え、メールの着信音を響かせた。
画面を覗き込むと、差出人は姉のイザベルだった。
『アンドレ、元気にしている? 新学期が始まってしばらく経ったけれど、リセの生活には慣れたかしら。勉強で困っていることはない? 無理に背伸びしすぎてないか心配よ』
姉からのメッセージを読んで、アンドレは思わず小さく苦笑いを浮かべた。
昔から、アンドレはイザベルには頭が上がらない。ベルギーで過ごした幼い頃から、母のようにずっとそばで面倒を見てくれた姉だった。自分のような引っ込み思案とは正反対で、明るく面倒見がよく、誰とでもすぐに打ち解けられる太陽のような人だ。彼女はベルギーの高校を卒業したのち、フランスのリヨンにある会社に就職。現在はフランス人の夫クロードと結婚し、今年で三歳になる娘のエマと温かい家庭を築いている。
アンドレは小学校を卒業するタイミングでベルギーを離れ、リヨンにある姉夫婦の家に身を寄せていた。コレージュ(中学校)の5年生(Cinquième)から編入し、卒業するまでずっと同居していたのだ。エマが生まれたのもその頃だったが、まだ生まれたばかりだったため、三歳になってようやく歩いたりおしゃべりができるようになった今のエマは、当時の同居生活を覚えていないだろう。
そしてリセ(高校)に進学する際、アンドレは学生寮に入ることを選んだ。
理由は、姉一家の新しい生活を邪魔したくなかったからだ。エマも生まれ、これから本格的に家族の時間を過ごしていく姉夫婦に甘え続けるわけにはいかない。「早く自立して、姉ちゃんに幸せな生活を送ってほしい」という、アンドレなりの優しさと決意からの選択だった。
アンドレは少し考えた後、今日あった出来事を素直にメールで打ち込んだ。
理数系は問題ないけれど、フランス語の論述や歴史・地理の表現に酷く困っていたこと。けれど今日、セシルという同級生の女の子が数学の解き方のお礼に、文系科目のコツを教えてくれて、これから仲良くしようと言ってくれたこと。
アンドレは少し考え、指を動かして返信を打った。
『姉ちゃん、連絡ありがとう。寮の生活は落ち着いているよ。実は今日、クラスの女の子が数学の解き方を聞きに来てくれたんだ。その子が文系科目が得意で、俺がフランス語の課題で悩んでいるのに気づいて、お礼に書き方のコツを教えてくれた。セシルっていう明るい子なんだ。……でも、僕の訛りを変に思っていないか、ちょっと心配で』
送信して間もなく、すぐにイザベルから返信が届いた。
『あら! 素敵なクラスメイトじゃない! 数学を教えてあげられたなんて、さすがアンドレね。
それから、訛りのことをまだ気にしているの? 大丈夫よ! あなたの真面目で優しい話し方は、誰にだってちゃんと魅力的に伝わるわ。クロードもね、「アンドレ君のフランス語は丁寧でとても好感が持てるから、堂々としていればいいのに」っていつも言っているのよ。
エマも最近ますますおしゃべりになって、毎日家中を元気に歩き回っているわ。アンドレがうちにいた頃はまだ生まれたばかりで、エマは覚えていないかもしれないけれど……今度お休みの日に遊びに来て、エマと一緒に遊んであげてね!
あ、そうそう。ベルギーの父さんと母さんにも、たまには近況を連絡してあげるのよ!』
姉のからっとした励ましと、クロードやエマの温かい様子に、アンドレの肩からふっと余計な力が抜けた。
イザベルの言いつけ通り、アンドレは続いてベルギーの実家の母親宛てにメールを作成した。
『母さん、元気にしていますか? 父さんも変わりない?
リセの授業は大変だけど、なんとかついていけています。得意な数学で同級生を助けてあげたら、代わりに苦手なフランス語の表現の仕方を教えてもらいました。寮の部屋も快適で、食事もちゃんと取れているから安心してね』
数分後、母から温もりあふれる返信が届いた。
『アンドレ、お便りありがとう。リセでいいお友達ができたみたいで、お父さんと一緒にホッとしています。
慣れない土地での寮生活、緊張することも多いでしょうけれど、焦らずあなたのペースで進みなさいね。私やお父さん、それにイザベルやクロードさんも、みんなあなたの味方だということを絶対に忘れないで。困ったことや不安なことがあったら、一人で抱え込まずにいつでも相談するのよ。体に気をつけて頑張ってね』
スマートフォンの明かりを見つめながら、アンドレは小さく息をついた。
ベルギーの両親、リヨンの姉夫婦、そして今日出会ったセシル。
自分を気にかけてくれる人たちの温もりが、胸の奥に灯火のように広がっていく。
「……よし。明日も、頑張ろう」
アンドレは机に向かい直し、セシルが教えてくれたノートを開いた。明日、もう一度彼女に会ったときは、今日よりも少しだけ胸を張って挨拶ができそうな気がしていた。




