崩れ落ちていく伝説
イザベルが通話を終えてスマートフォンをテーブルに置くと、リビングで新聞をクロードが顔を上げた。
「アンドレ君、無事に着いたみたいだね。どうだったんだい?」
「ええ。それがね、驚いたことに寮長先生が日曜日のお休みにもかかわらず、わざわざ寮まで駆けつけてロビーで待っていてくださったそうなのよ」
「えっ、寮長先生自ら……? それは驚きだね」
「そうなの。私のあの突発的な電話にも、寮長先生は『夜道での生徒の安全を最優先にした、大人として極めて真っ当な判断だ』って納得してくださって、アンドレにお説教や処分もなかったそうよ。それにね、あの子ったら『外泊の身元引受人は両親じゃないと絶対にダメだ』って勝手に思い込んでいたみたいなの。実際は規則上、成人した兄弟姉妹もちゃんと認められていたのに……本当にあの子の早とちりだったのよ」
イザベルは苦笑いを浮かべた後、少し表情を引き締めて言葉を続けた。
「それでね、寮長先生が私と直接一度お話ししたいとおっしゃっているそうで、明後日の火曜日、私の仕事終わりの17時半に寮で面談することになったの。……私としても、いくら安全のためとはいえ、学校側の事情も考えずに一方的に申し出てしまったことはずっと気になっていたし、何より先生のお休みの日にまで出勤させてご迷惑をおかけしてしまったから、直接頭を下げてお詫びとお礼を伝えに行きたかったのよ」
「なるほどね。分かった、それなら火曜日のエマのお迎えは僕が全部引き受けるよ。定時で退勤して幼稚園へ寄ってくるから、イザベルは安心して先生と話しておいで」
「ありがとう、クロード。本当に助かるわ」
夫の頼もしい申し出に微笑んだイザベルは、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、クロードも高校時代は学生寮で生活していたのよね。やっぱり寮の生活規則って、そんなに厳しかったの?」
クロードは昔を懐かしむように視線を泳がせ、穏やかに頷いた。
「うん、厳しかったね。何十人、何百人という生徒が寝食を共にする集団生活だから、起床や食事、消灯などの時間は徹底して守らなければならなかったよ。一人が時間に遅れるだけで全体のスケジュールに影響が出てしまうからね。でも、あの厳しい寮生活を経験したからこそ、時間を守ることや集団行動の大切さが身に染みてよく分かったよ」
「やっぱりそうよね」と頷いたイザベルは、昨夜の車内での会話を思い出しながら口を開いた。
「アンドレが昨日セシルちゃんをうちに連れてきた理由なんだけど……帰りの車の中で聞いたのよ。あの子が通うルイ・ル=グランの学生寮って、異性を建物に入れたら即刻退学処分になるくらい厳格で、寮の中では男女で会話を交わすことすらタブー視されているような空気らしいの。だから二人で勉強する場所に困って、セシルちゃんに迷惑をかけないように配慮してうちに連れてきたんですって。……あの子なりに彼女を守ろうとして行動したんだと思うと、姉としてはちょっと誇らしいところなんだけどね」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、クロードの表情から笑みが消えた。眉根を寄せ、真剣な眼差しで妻を見つめている。
「……イザベル。すまないが、今アンドレ君が言っていたという寮の規則について、もう一度詳しく言ってくれないかい?」
夫のあまりに怪訝そうな表情に、イザベルは目を瞬かせた。
「えっ……? だから、学生寮は異性を建物に入れることが退学になるほど厳しく禁止されていて、建物の中では男子と女子がおしゃべりすること自体がタブー視されている、って……何かおかしなこと言ったかしら?」
クロードは腕を組み、静かに首を横に振った。
「僕が通っていたリセはアンドレ君の学校とは別のところだけれど……いくら規律を重んじる名門校であっても、そんな極端で不条理なルールは存在しないはずだよ」
「えっ……? どういうこと?」
イザベルは目を丸くした。学生時代に寮生活を経験したことがない彼女は、男女の共同生活について独自のイメージを持っていたのだ。
「だって、男女が寝泊まりする場所なのよ? 男子寮と女子寮は完全に別の建物に分かれていて、男子が女子の棟に一歩でも足を踏み入れたら大問題になるのは当たり前なんじゃないの?」
するとクロードは、優しく、しかし明快にその認識のズレを指摘した。
「イザベル、そもそもフランスのリセの学生寮の多くは、男子寮と女子寮が完全に別々の建物に建っているわけじゃないんだ。同じ一つの大きな建物の中で、フロアや区画ごとに『男子居住エリア』『女子居住エリア』と厳重にセキュリティーを分けて管理しているのが一般的なんだよ」
「えっ……同じ建物の中にあるの!?」
「そうだよ。だから当然、生徒たち全員が使うエントランスロビーや学習用の自習室、食堂といった共有スペースは男女共用になっているはずなんだ。もちろん、異性の個室や居住フロアに無断で侵入すれば重い処罰の対象になるのは当然だけど、共有の自習スペースで男女のクラスメイトが並んで勉強したり、会話を交わしたりすることまで禁止されるなんて、教育機関としてあまりにも不自然だし、そもそもそんなことしたら寮生同士のまともなコミュニケーションすら成り立たないよ」
クロードの合理的な説明に、イザベルは息を呑んだ。
「じゃあ……あの子が言っていた『異性を入れたら退学』とか『男女で話すのもタブー』っていうのは……」
「おそらく、生徒たちの間で噂が極端に誇張されて広まってしまっているか、あるいは規則の一部分が歪んだ形で伝わっている可能性があるね」
クロードの言葉を聞いたイザベルの中で、明後日の面談に対する意識が大きく変わった。
(……アンドレが言っていたあの恐ろしい規則は、本当に学校の正規のルールなのかしら? それとも、あの子たちが何か大きな誤解をしているの……?)
先生への感謝とお詫びを伝えるだけだったはずの火曜日の訪問に、「寮の本当の規則の真相を確かめる」という、もう一つの重要な目的が加わったのだった。
イザベルが抱いていた修道院のようなイメージが崩れ去った瞬間です。
皆さんは学生寮についてどんなイメージを持っていましたか?




