姉弟の秘密
車内の穏やかな会話が続くうちに、エリクサーレッドのプジョー308 GTは滑らかに減速し、街灯に照らされたサン・ジャン噴水広場の脇へと静かに停車した。
車が完全に止まると、イザベルはバックミラー越しにアンドレへ向けてスッと目元で合図を送った。
(ほら、何をぼさっとしてるの。助手席のドアを開けてあげなさい)という無言のプレッシャーである。
アンドレは苦笑いしながら右の後部座席のドアを開けて外に出ると、冷たい夜風の中を足早に回り込み、セシル側の助手席ドアをすっと開けた。
「足元、気をつけてね」
突然の丁寧なエスコートに、セシルは頬をほんのり赤らめて恐縮した。
「あ、ありがとうアンドレ……でも、そこまでしてもらわなくても本当に大丈夫だよ?」
すると運転席からイザベルが身を乗り出し、茶目っ気たっぷりにウインクを飛ばした。
「いいのいいの! 女の子と一緒の時は、男の子はこれくらいスマートに動けないとダメなのよ。それにね、セシルちゃんとこれからもずーっと仲良くしてほしいから、姉ちゃんが今からしっかり仕込んでるの」
「ふふ、イザベルさんったら……ありがとうございます」
アンドレが「忘れ物はない? カバンの中、筆記用具とか全部ある?」と確認し、セシルが車から降りてしっかりと地面に立つまで優しく見守った。
「じゃあ、セシル。また明後日の月曜日に、学校でね」
「うん! アンドレも、月曜日の先生への説明うまくいくといいね。今日は本当にありがとう。イザベルさんも、送っていただいてありがとうございました!」
「気をつけて帰るのよ〜!」
二人は笑顔で手を振り合い、セシルが明るい大通りを歩いて角を曲がるまで、アンドレはその場で見届けた。
「はい、それじゃあアンドレ。次は助手席に乗りなさい!」
車内からイザベルに呼ばれ、アンドレは「はいはい」と頭を掻きながらセシルが座っていた助手席へと乗り込んだ。ドアを閉めると、シートにはまだセシルがいた名残のような、ほんのり甘く爽やかな香りが残っている気がして、アンドレは少し落ち着かない心地になる。
車が再び家へ向けて走り出した直後、イザベルは前方を向いたまま、悪戯っぽい笑みを浮かべて切り出した。
「で――あんた、セシルちゃんのこと好きなんでしょ?」
ドクン、とアンドレの心臓が跳ね上がった。
「……っ!?」
あまりに直球な質問に言葉を失い、喉が引きつる。誤魔化そうと口を開けかけたが、ルームミラー越しにすべてを見透かしたような姉のヘーゼルの瞳とぶつかり、アンドレは大きく肩を落として息を吐き出した。
「……はぁ。やっぱり姉ちゃんには敵わないな……」
観念したアンドレが呟くと、イザベルが得意げに笑う。
「どうして分かったかって顔ね? あんたたちがお昼の後に勉強してた時、あんたが時々、真剣な顔でセシルちゃんの横顔や綺麗なプラチナブロンドのポニーテールを見つめてぼーっとしてたの、キッチンからぜーんぶ丸見えだったのよ!」
「見られてたのかよ……」アンドレは両手で顔を覆った。
少しの沈黙の後、アンドレは前を流れる夜の街並みを見つめながら、ポツリポツリと胸の内を明かし始めた。
「……リセに入学したばかりの頃さ、俺、ずっと一人で壁を作ってたんだ。ベルギー訛りのフランス語をからかわれるんじゃないかって、怖くて誰にも話しかけられなくて。でも、あいつだけはそんな俺の訛りをちっとも気にしないで、まっすぐに話しかけてくれた」
アンドレの脳裏に、教室でセシルと交わしたあの日の記憶が鮮やかに蘇る。
「俺がまだ訛りを気にして言葉を詰まらせてた時、セシルが言ってくれたんだ。『訛りがあっても、一生懸命自分の気持ちを伝えることのどこがおかしいの? 違う国から来て、その国の言葉を一から必死に覚えて話している人だってたくさんいる。アンドレは国は違っても、同じフランス語を話しているんだから、そんなに気にすることなんて何一つないよ』って……」
アンドレは耳まで真っ赤にしながら、小さく呟いた。
「……あんな風に真っ直ぐ言われたの、初めてだった。あの瞬間から……俺、あいつのことがずっと好きなんだ」
弟の純粋で温かい想いに触れ、イザベルの目元が優しく和らいだ。
ふっと息を吸うと、イザベルの口調はすっかり故郷の温かいワロン訛りへと変わっていた。
「そっか……ええ子やねぇ、本当に。……よし! ほんなら、セシルちゃんにもっと好かれたいあんたに、姉ちゃんからとっておきのアドバイスを教えたるわ」
「アドバイス……?」アンドレが顔を上げる。
「ええか、アンドレ。まず一つ目はな、『あの子の前では格好つけずに、自分の弱みや失敗も素直に見せること』や。あんたは真面目で頭がええから、つい何でも一人で完璧にこなそうとしがちやろ? でもな、女の子は頼られるのも嬉しいもんやし、自分の前だけで見せてくれる飾らない素顔にキュンとくるもんやで。
二つ目はな、『どんな小さな変化にもちゃんと気づいて、言葉にして褒めること』。髪型が変わったとか、少し疲れてそうやなとか、新しい文房具を使うてるなとか……そういう些細なことに気づいて『似合ってるね』とか『無理せんといてな』ってサラッと言える男が、一番心を掴むんよ。
そして三つ目は、『あの子の頑張りを、誰よりも一番近くで信じて味方でおること』や。セシルちゃんは努力家やから、テストや将来のことで不安になる日も絶対ある。そんな時に『セシルなら大丈夫や、俺がついてる』ってドンと構えて支えてあげるんや。それができたら百点満点やで!」
頼もしすぎるアドバイスに、アンドレは感心したように目を丸くし、「……なるほど。弱みを見せるのと、小さな変化に気づくのと、味方でいること、か……」と真剣に頭に叩き込んだ。
イザベルは弟の横顔をチラリと見て、満面の笑顔で背中をバシッと叩いた。
「せや! 姉ちゃん、あんたの恋を全力で応援したるからな!」
(――まあ、本当はアドバイスするまでもなく、あの子もあんたにベタ惚れの完全な両想いなんやけどねぇ……ふふ、そこはまだ言わんといたろ!)
姉は心の中でいたずらっぽく呟き、二人のじれったい恋模様を想像して一人ほくそ笑んだ。
やがて車は自宅の敷地へと滑り込み、駐車場に静かに停車した。
シートベルトを外したイザベルは、車内のルームランプの下で人差し指を唇に当て、茶目っ気たっぷりのワロン訛りで囁いた。
「……ええか、アンドレ? この話はクロードにもエマにも絶対に内緒やで。もちろん、ベルギーの父さんと母さんにも言わへんこと。ウチら姉弟二人だけの秘密やからな!」
「あはは、分かってるって。絶対に誰にも言わんから」
アンドレが照れくさそうに笑って頷くと、二人は秘密を共有した共犯者のように微笑み合い、暖かい光が漏れる玄関のドアへと向かった。
皆さんはこの話を見てどう思いましたか?




