夜の街を走る真紅の車
玄関を出ると、ひんやりとした夜の空気が火照った頬を心地よく冷やした。
家の敷地内の駐車場には2台の車が並んでいる。1台はクロードが通勤やエマの送り迎えに使っている落ち着いたセダン。そしてもう1台が、艶やかな真紅のボディ(エリクサー・レッド)が街灯に美しく映えるイザベルの愛車――プジョー308 GTだった。
「さあ、乗りなさい」
イザベルに促され、アンドレは姉に言われた通りスッと前に出ると、助手席のドアノブを引いてセシルを促した。
「どうぞ、セシル」
「あ……ありがとう、アンドレ」
少し照れくさそうに微笑みながらセシルが助手席に乗り込むと、アンドレはドアを静かに閉め、自分は後部座席へと乗り込んだ。
エンジンが静かに目覚め、車内が暖房の心地よい温もりに包まれる。
シートベルトを締めたセシルが、運転席のイザベルに向かって小さく頭を下げた。
「イザベルさん、わざわざ車で送っていただいて本当にすみません……」
ハンドルを握るイザベルはバックミラー越しに優しく微笑み、ウインカーを出した。
「気にしないで。私も親だからよく分かるのよ。こんな真っ暗な夜道を年頃の女の子が一人で歩いて帰るなんて、ご家族からしたら心配でたまらないはずだもの。送るのが当然よ」
「ありがとうございます……。それじゃあ、私の家の近くにある『フルヴィエール通りのサン・ジャン噴水広場』のあたりで降ろしていただけますか? そこからなら明るい大通り沿いで、すぐ家に着きますので」
「了解、噴水広場ね。任せて」
プジョーは滑らかに夜のリヨンの街へと走り出した。
後部座席から、アンドレがセシルの背中に向けて穏やかな声をかける。
「セシル、今日は一日中勉強に付き合ってくれて本当にありがとう。フランス語の読解も、歴史や地理のややこしい年号や気候の要点も、すごく頭に入ったよ。助かった」
セシルも助手席から振り返り、嬉しそうに目を細めた。
「お礼を言うのはこっちだよ。苦手だった数学の関数も理科の計算も、アンドレが噛み砕いて教えてくれたからすっごく分かりやすかったもん。それに……エマちゃんが本当に可愛くて、すっごく癒やされたな」
前を向いて運転しながら、イザベルがくすりと笑った。
「エマ、すっかりセシルちゃんに懐いていたわねぇ」
「はい! 私、兄しかいない末っ子だったので……なんだか急に可愛い妹ができたみたいで、すごく嬉しかったです」
セシルが素直な気持ちを口にすると、イザベルも「まあ、そうだったの」と嬉しそうに頷いた。
ふとイザベルがバックミラーのアンドレに視線を移し、少し真面目な声で釘を刺した。
「ところでアンドレ。月曜日は登校したら、すぐに担当の先生へ自分から説明しに行くのよ。『姉の家で一緒に勉強していて遅くなったこと』『夜道が危険だからと、姉の判断で家に泊まることになったこと』を、包み隠さず正直に話しなさいね」
「うん、分かってるよ、姉ちゃん。ちゃんと最初から全部正直に話すよ」
アンドレが素直に頷くのを見て、イザベルは表情を和らげ、今度は助手席のセシルに問いかけた。
「ねえ、セシルちゃん。学校でのアンドレって、普段はどんな感じなの?」
突然の質問にアンドレがギクッとして身を固くしたが、セシルは迷うことなく、自分が隣で見てきたアンドレの姿をまっすぐな言葉で紡ぎ始めた。
「入学したばかりの最初の頃のアンドレは、いつも一人で机に座っていて、誰とも話さなかったんです。でもある日、私が数学の授業で難しい問題が全然解けなくて困っていた時、ふと見たらアンドレがすらすらと解いていて……思い切って『ここ教えてくれない?』って声をかけたのがきっかけでした」
セシルは懐かしそうに微笑みながら続ける。
「それからは、私や他のクラスメイトたちともよく輪になって話すようになりました。アンドレって、すごく真面目すぎてたまに不器用なところもありますけど……誰かが困っているのを見過ごせない、本当に優しくて頼りになる人なんです」
セシルの飾らない言葉を聞きながら、イザベルの脳裏には、数か月前にアンドレから届いたメールの文面が蘇っていた。
『ベルギー訛りのフランス語のせいで、クラスのみんなに笑われないか心配でうまく話せない』――そう塞ぎ込んでいた弟が、ある日突然、弾んだ文面で送ってきたのだ。
『数学を教えてあげたのをきっかけに、セシルっていう女の子と仲良くなったんだ』と。
(ああ……あの時アンドレの心を救ってくれたのは、やっぱりこの子だったのね)
「でも、寮生活でのアンドレの様子は、私には全然分からなくて……」
セシルが少し困ったように言うと、後部座席のアンドレが小さく肩をすくめて補足した。
「そりゃそうだよ。うちの高校の学生寮、規律がめちゃくちゃ厳しいからね。もし寮の建物の中に異性を連れ込んだりしたら、即刻退学処分になるくらいだ。建物の中では男女で話すことすらタブー視されているような空気だし……だから寮じゃなくて、姉ちゃんの家で勉強しようって話になったんだ」
それを聞いたイザベルは、「当然よ」と大きく頷いた。
(※実はイザベルはアンドレの学生寮を訪れたことがないため、男子寮と女子寮は別々の建物に分かれているのだと思い込んでいた。実際には同じ建物内で厳重に区画分けされているだけなのだが、彼女の頭の中では男子禁制・女子禁制の要塞のようなイメージだった)
「もしそんな軽率な真似をしたら、私が首根っこを掴んででもベルギーの実家に強制送還するか、私の家に連れ戻すわよ! ……でも、それくらい規律が厳しい場所だからこそ、セシルちゃんも安心してアンドレを頼れるのよね」
イザベルは心底安心したように息をついた。
そして、アンドレの長所を誇らしげに語るセシルの横顔を横目でちらりと見つめ、イザベルは確信を深めて心の中でほくそ笑んでいた。
(ふふ……やっぱりこの子、完全にアンドレのことが大好きなのね)
助手席のドアを開けさせたり、こうして一緒に車に乗せたりしたのも、弟に紳士としてのエスコートを叩き込むための姉心からの指導だったが、二人の純粋で温かな空気感を見ていると、姉としての口元がどうしても緩んでしまうイザベルだった。
イザベルは学生時代はベルギーの実家から通っていたため、学生寮での生活がどんなものかは知らないため、こんなイメージがついているのです。




