姉として・・・
充実した勉強時間と楽しい団らんはあっという間に過ぎ去り、時計の針はすでに18時を回っていた。
ふとリビングの窓の外を見ると、すっかり夕闇が濃くなり、夜の帳が下りて街灯の明かりが灯り始めている。
「あ……もうこんな時間! 大変、長居しすぎちゃいました」
セシルが慌ててノートや筆記用具を鞄にまとめ、立ち上がった。
「イザベルさん、クロードさん、今日は本当にありがとうございました! お邪魔しました」
玄関へ向かおうとするセシルを、イザベルが慌てて制止した。
「待って、セシルちゃん! こんなに真っ暗になったのに、女の子が一人で夜道を歩くなんて絶対に危ないわ。私が車で家の近くまで送っていくから、ちょっと待ってて!」
「えっ、でも……イザベルさんにご迷惑をおかけするわけには……!」
恐縮するセシルに対し、イザベルは「迷惑なんてちっとも思ってないわよ。大事なお客さんなんだから、安全に送り届けるのは大人の役目よ」と優しく微笑んだ。
一方で、アンドレはスマートフォンの画面で電車の時刻表を確認しながら、真っ青になっていた。
(……まずい。もうこの時間じゃ、最寄り駅へ走って電車に乗っても到底間に合わない……!)
リセ(ルイ・ル=グラン高等学校・リヨン分校)の学生寮には厳しい規則がある。外出届を提出している日であっても、遅くとも「19時」までに寮の門をくぐって点呼を受けなければ、重大な規則違反となってしまうのだ。
今からセシルを車で見送り、自分が駅に向かったとしても、19時までに寮へ帰り着くのは物理的に不可能だった。
「どうしよう……門限の19時に絶対に間に合わない……」
頭を抱えて焦るアンドレの様子を見たイザベルは、すぐに事態を察して凛とした表情になった。
「アンドレ、あんたの学生寮の電話番号を教えなさい」
「えっ!? で、でも……!」
「いいから早く!」
イザベルは弟から番号を聞き出すと、迷うことなくスマートフォンから寮の事務室へと発信した。
数回の呼び出し音の後、電話が繋がった。
「もしもし、夜分遅くに失礼いたします。ルイ・ル=グラン高等学校リヨン分校・学生寮の事務室でしょうか? 私、1年のアンドレ・ランベールの姉で、イザベル・モローと申します。いつも弟が大変お世話になっております」
イザベルは落ち着いた、礼儀正しくもしっかりとした大人の口調で話し始めた。
「実は今、アンドレが私の自宅に遊びに来ているのですが、夢中になって勉強をしていたため、今の時間から寮に戻ろうとするとどうしても19時の門限を過ぎてしまうのです。もちろん寮の規則を守ることは大変重要だと理解しておりますが、夜道における弟の安全確保を最優先に考え、今夜は実姉である私が責任を持って自宅で面倒を見たいと思います。アンドレは明日の午後に責任を持って寮へ戻しますので、どうかご許可いただけないでしょうか」
電話口の事務員は、即答できずに少し悩んでいる様子だった。
それもそのはず、学生寮の緊急連絡先や保護者欄に登録されているのはベルギーにいる二人の「母親」であり、「イザベル」の名前は公式な保護者名簿には記載されていなかったからだ。
しかし、電話越しに伝わってくるイザベルの誠実かつ毅然とした態度、そして何より「夜間の生徒の安全確保」という最も優先されるべき観点から、事務員も最終的に彼女の申し出を了承したようだった。
「……はい、ご配慮いただき本当にありがとうございます。それでは、失礼いたします」
通話を終えたイザベルがふぅと小さく息を吐いた。
だが、隣でやり取りを聞いていたアンドレは、まだ冷や汗を流していた。
「ね、姉ちゃん……本当に大丈夫なのか……? 母親の許可書もないのに、俺、無断外泊扱いになってペナルティ食らったりしないよな……!?」
学生寮において「無断外泊」は門限破り以上の重罪であり、反省文や停学処分の対象にもなりかねない。規則を重んじるアンドレが心配そうに眉を寄せると、イザベルがぽんと弟の肩を叩いた。
「心配いらないわよ。事務員さんも安全のためならって納得してくれたわ。ただね――今日は寮の舎監の先生たちが全員お休みだから、詳しい事情は月曜日に自分から寮担当の先生にしっかり説明するように、とのことよ」
「そっか……来週、先生にちゃんと話せばいいんだな」
アンドレは胸を撫で下ろし、ようやく張り詰めていた肩の力を抜いた。
こうして、アンドレは今夜、思いがけず姉の家で一晩を過ごすことになったのだった。
「アンドレ……本当に大丈夫なの? 私のせいで長居しちゃったから……もし月曜日に学校で重い罰を受けたりしたら……」
セシルは青ざめた顔で両手を胸の前で握りしめ、申し訳なさと不安で瞳を潤ませていた。
本当はアンドレ自身も内心では心臓が縮み上がるほど緊張していた。ルイ・ル=グランの厳格な校風を知っているだけに、無断外泊や規則違反と見なされた時の処分の重さはよく分かっている。だが、自分を気遣って今にも泣き出しそうなセシルの顔を見た瞬間、そんな不安は胸の奥へと押し込められた。
アンドレはふっと表情を和らげ、努めて落ち着いた笑顔を作って見せた。
「心配いらないよ、セシル。君のせいなんかじゃ絶対にないから。寮の事務員さんも事情を聞いてちゃんと納得してくれたし、俺から月曜日に先生へ筋道立てて説明すれば分かってもらえるさ。だから、セシルがそんな顔をして気に病むことなんて何一つないんだ」
「そうよ、セシルちゃん。何も心配することはないわ」
コートを羽織りながら、イザベルが優しく温かな声でセシルに語りかけた。
「もしアンドレが真っ暗な夜道を焦って走って、電車や駅の途中で事故やトラブルに巻き込まれたりしたら……それこそ私たち家族にとっても、学校にとっても取り返しのつかない一大事になるわ。規則を守ることは確かに大切だけど、それ以上に大切なのは自分の命と安全を守ることよ。それは絶対に間違っていないわ」
大人としての揺るぎない言葉に、セシルはほっと息を吐き、少しずつ強張っていた表情を緩めて小さく頷いた。
「……はい。ありがとうございます、イザベルさん」
「よし! それじゃあアンドレ、次はベルギーの母さんにもちゃんと事情を話しておくから、少し待っててね」
イザベルはそう言って、再びスマートフォンを耳に当てた。
ベルギーの実家へ発信したコール音が止まり、母親が電話に出た瞬間、イザベルの口調はすっかり飾らない故郷のワロン訛りへと切り替わった。
「あ、母さん? ウチや、イザベルやけど。……うん、みんな元気しとるよ。実はな、今アンドレがウチに遊びに来とるんやけど、夢中で勉強しとったら暗くなってしもてな。今から寮に戻っても門限の19時に到底間に合わんのよ。寮の事務員さんにはウチから電話して、今夜はウチで泊めるって話はつけたんやけど……万が一学校から実家に確認の電話が入ったら困るやろ? せやから母さんからもちゃんと話を通しといてほしいんよ。……うん、うん。そうなんよ。月曜に本人が先生に説明する手はずになっとるから。……おおきに、母さん。父さんにもよろしく言うといてな」
電話を終えたイザベルがスマートフォンをポケットにしまい、リビングの二人に振り返った。
「はい、これで完璧! 父さんも母さんも事情をしっかり分かってくれたわ。『危ない思いをするくらいなら、イザベルの家に泊めてもらいなさい』ってさ」
「ふぅ……よかった」アンドレも安堵の息を漏らす。
イザベルは車の鍵を指先で回しながら、明るく声を張り上げた。
「さあ、それじゃあ行くよ、二人とも!」
「……えっ!? お、俺も行くんか!?」
思わず気が緩んで故郷のワロン訛りをぽろりと零したアンドレに、イザベルは腰に手を当てて、同じく軽快なワロン訛りで言い返した。
「当たり前やろ! 大事な女の子を車に乗せるんやから、男の手でちゃんとエスコートせなアカンやろ! セシルちゃんを家の近くで降ろすまで、あんたも一緒に付いてくるんよ!」
「う、うん……わかったよ」
姉の勢いに押されつつも、セシルを最後まで見届けられることにどこかホッとしたアンドレは、大人しく自分の上着を羽織った。
リビングでは、クロードがエマを抱き上げながら三人を見送っていた。
「二人とも、勉強本当にお疲れ様。イザベル、夜道だから運転にはくれぐれも気をつけてね」
「セシルおねえちゃん、またあそぼうね! バイバーイ!」
エマが小さな手をいっぱいに振ると、セシルも満面の笑みで振り返った。
「エマちゃん、クロードさん、今日は本当にありがとうございました! また遊ぼうね!」
カチャリと静かに玄関のドアが開き、三人はひんやりとした夜の澄んだ空気の中へと歩み出していった。
これは私の伝えたかったことの一つです。我々人間が生活していくためには法律やルールは守らなければなりません。しかし、必ずしもそうではありません。
最近のニュースで災害発生のニュースを聞きますが、命を守ることはルールを守る以上に大切なことだと私は思います。
皆さんはどう思いましたか?




