勉強の合間の休憩
ピピピッ、ピピピッ――。
静かなリビングに、キッチンからオーブンの焼き上がりを知らせる軽快な電子音が鳴り響いた。
ふわりと漂ってきたのは、香ばしく焼き上がったケーキの甘い匂いだ。
「はーい、お待たせ! ちょうどケーキが焼き上がったわよ」
ミトンをつけたイザベルが、熱々のパウンドケーキを取り出しながら笑顔でリビングに声をかけた。
「勉強はここらでいったん休憩にしましょ。集中した後は糖分を補給して、しっかり頭を休めないとね!」
イザベルは手際よくケーキを人数分に切り分け、さらに玄関先でセシルから受け取ったあの焼き菓子も綺麗なお皿に並べてテーブルへと運んできた。ポットからは淹れたての紅茶の良い香りが立ち上っている。
「わあ……! イザベルさんの手作りケーキ、すごく美味しそうです!」
セシルが目を輝かせると、エマも「ケーキ! おかし!」と両手を上げて大はしゃぎした。
「さあ、まずはセシルちゃんが持ってきてくれたお菓子からいただきましょうか」
クロードとイザベルが焼き菓子を口に運ぶ。
サクッとした軽やかな歯ざわりのあと、口の中でほろほろと優しくほどけ、上品なバターとバニラの風味がふわりと広がった。
「……! これは美味しいね。甘さがとても控えめで、口どけが驚くほど滑らかだ。重たくなくていくらでも食べられそうだよ」
クロードが感心したように目を細めると、イザベルも頬に手を当てて深く頷いた。
「本当ね! 口の中にすっと溶けていくから、喉に詰まる心配も全くないわ。小さな子どもでも安心して食べられるように、ものすごく丁寧に計算されて作られているのがよく分かるわね……素晴らしい腕前だわ!」
エマも小さな手で大切そうにお菓子をつまみ、「おいしー! おくちでとけちゃう!」と満面の笑顔を咲かせている。
絶賛の嵐に、セシルは嬉しそうに胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます! 作ってくれた方にも、そう伝えておきますね」
セシルは誇らしげに微笑んだ。
――まさか自分が大絶賛しているこの絶品のお菓子が、1年前に知り合った大切な友人の手によるものだとは、この時のイザベルは夢にも思っていなかったのである。
美味しいお菓子とお茶で一息つき、和やかな空気が満ちたところで、イザベルが「あ、ちょっと待っててね」と立ち上がり、リビングからパタパタと小走りで出ていった。
数分後、彼女が両手で抱えるようにして戻ってきたのは――革張りの分厚く年季の入った大きなアルバムだった。
それを見た瞬間、アンドレの顔色が一変した。
「ちょっ……! 姉ちゃん、それまさか……! な、何持ってきたんや!?」
驚きのあまり、アンドレの口から完全にベルギーのワロン訛りが飛び出す。
イザベルは悪戯っぽく片目をウインクしてみせた。
「ふふふ〜ん♪ 弟のお友達が遊びに来たら、小さい頃の秘蔵写真を見せるのがお約束でしょ〜?」
「お約束なわけあるか! やめろって、恥ずかしい……!」
必死に止めようと手を伸ばすアンドレをひらりとかわし、イザベルはセシルの隣にどっかりと腰を下ろしてアルバムを広げた。
「ほらセシルちゃん、見て! これがアンドレの小さい頃よ!」
アルバムには、ベルギーのワロン地方の美しい自然を背景に、幼い頃のアンドレとイザベルが写った写真が何枚も収められていた。
まだよちよち歩きのアンドレが芝生の上で転んで泣きそうな顔をしている写真や、少し大きくなったアンドレがイザベルの後ろを一生懸命追いかけている写真、二人並んで泥だらけになって笑っている写真――。
「わあ……! アンドレ、小さい頃から目がくりくりしていて、すごく可愛い……!」
写真を見つめるセシルの表情がふわりと緩む。アンドレが幼い頃から大好きなお姉ちゃんの後をくっついて、ずっと一緒に遊んでいたことが写真の一枚一枚から痛いほど伝わってきた。
(なんだか……小さい頃のお兄ちゃんと私みたいだな)
セシルは写真の中の仲睦まじい姉弟の姿に、自分の大好きな兄と過ごした温かい幼少期の思い出をそっと重ね合わせていた。
思い出の写真を見つめるうちに、イザベルの口調にも次第に懐かしい故郷のワロン訛りが混ざり始めていく。
「ほんま、この頃のアンドレは可愛かったんよ〜。幼稚園に行くときも、小学校に上がってからも、通学路ではいっつも私の手をぎゅーっと握って離さへんかったんやから。『お姉ちゃん、置いていかんといて』ってな!」
「だ、誰がそんなこと言ったよ……!」
顔から火が出そうなくらい真っ赤になるアンドレに、イザベルはとどめとばかりに愛おしそうに目を細めて笑った。
「ふふ、覚えてへんの? あんた、自分のこと『デデ』って呼んで甘えてたんやから。なあ、デデ?」
「『デデ』って言うなァァーーッ!!」
幼い頃の恥ずかしい愛称をセシルの前で暴露され、アンドレは頭を抱えて机に突っ伏した。
「頼むからセシルの前でその名前で呼ぶのだけはやめてくれ……! 一生のお願いだから……!」
のたうち回るアンドレと、くすくすと楽しそうに笑うセシル。
その賑やかな光景をソファーから微笑ましく眺めていたクロードが、立ち上がって優しく妻の肩に手を置いた。
「はいはい、イザベル。思い出話はそのまでにしよう」
クロードの穏やかで落ち着いた声に、イザベルが「え〜?」と唇を尖らせる。
「これ以上舞い上がって、二人の勉強の邪魔をしちゃいけないよ。アンドレ君もセシルさんも、まだ復習の続きが残っているんだろう?」
クロードが優しく諭すように声をかけると、アンドレは救われたように顔を上げ、クロードに「義兄さん、ありがとうございます……!」と拝むような視線を送った。
イザベルはいたずらが見つかった子どものような無邪気な笑みを浮かべ、名残惜しそうにアルバムをパタンと閉じた。
「はーい、クロードがそう言うならおしまい! ……でもセシルちゃん、もっとデデの可愛い秘密を知りたくなったら、いつでも私に言ってね?」
「ちょ、姉ちゃん!」
「ふふっ、はい! 楽しみにしています、イザベルさん」
セシルがお茶目に微笑み返し、リビングは再びあたたかな笑い声に包まれた。
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