姉の勘と3歳児の「歴史・地理」の勉強
理系科目の復習が一段落し、次は文系科目であるフランス語と歴史・地理の勉強へ移ることになった。ここからは、セシルがアンドレに教える番だ。
「エマちゃん、次は私が先生になってアンドレおじちゃんに教える番だよ」
セシルが優しく声をかけると、エマは目を輝かせて両手を叩いた。
「わあ! つぎはセシルおねえちゃんがせんせいだ!」
すっかりセシルに懐いたエマの愛らしい反応に、セシルも思わず胸をくすぐられる。両親と兄に囲まれて大切に育てられ、ずっと「末っ子」だったセシルにとって、こうして自分を慕ってくれる小さな女の子のお姉さん役になるのは、どこか誇らしくて新鮮な体験だった。
セシルはノートを開き、フランス語の読解と歴史・地理の要点を丁寧に解説し始めた。
「アンドレ、この文章の解釈なんだけどね。文脈全体のリズムを捉えると……」
真剣な表情でペンを走らせるセシルの横顔。プラチナブロンドの柔らかな髪がポニーテールに揺れ、真剣な青い瞳が美しく輝いている。アンドレはふと息を呑み、思わずその横顔に見とれてしまった。
(……っ、だめだ、集中しないと!)
我に返ったアンドレは、机の上に並ぶぬいぐるみたちに一瞬視線を彷徨わせたあと、慌てて手元のノートへと目を落とした。
だが、そんな弟の一瞬の動揺を、隣で紅茶を淹れていたイザベルが見逃すはずもなかった。
(……あらあら、あの子たちもしかして――)
イザベルの心に確信が灯る。先ほど玄関先で「お義姉さん」とからかった際、セシルが赤くなりながらも「今はイザベルさんで」と絶妙に返したこと。そして今、勉強机を挟んでお互いを意識し合っている瑞々しい表情。それは姉としての直感であり、大人の女性としての鋭い勘でもあった。二人は完全に両想いなのだ。
(もうアンドレったら、ちゃんと聞いてないとダメじゃない。せっかくセシルちゃんが一所懸命教えてくれているのに)
イザベルはくすりと笑みをこぼしながら、セシルに温かい声をかけた。
「セシルちゃん、いつもアンドレに勉強を教えてくれてありがとうね。この子、理系は得意なんだけど、フランス語の表現や文章の読み取りが昔から苦手で……成績がずっと心配だったのよ」
「そんなことありません! アンドレは表現自体はとても正確で語彙も豊富なんです。ただ、担当の先生もおっしゃっていたんですが、少し文章の捉え方が堅苦しくなりがちなところがあって……。もっと柔軟に感情を乗せて考えられるようになれば、絶対に高得点が取れます」
セシルは真っ直ぐな瞳でイザベルに向き直り、真剣な表情で言葉を重ねた。
「だって、お昼前にエマちゃんに絵本を読んであげていた時のアンドレ、すっごく感情がこもっていて分かりやすかったですから!」
「……っ! セシル、ありがとう……」
家族以外の誰かが、学校でこれほど自分を真摯に見て、理解してくれている――。その温かさに打たれたアンドレは、耳まで真っ赤にしながらお礼を言った。
イザベルは、弟の学校生活での一面をしっかりと見守り、誰よりも信じてくれているこの純真な少女を見つめ、(この子がいつか、本当に私の『義妹』になってくれたら素敵ね……)と、あたたかい未来に想いを馳せるのだった。
その頃、リビングのテーブルの端では、クロードとイザベルが大きな地図を広げてエマに自分たちのルーツを教えていた。
「エマ、ここがエマとパパが生まれたフランスだよ。そしてここが今みんなで住んでいるリヨン。アンドレおじちゃんやセシルお姉ちゃんの学校も、エマの幼稚園もここにあるんだ」
「じゃあ、ママとおじちゃんが生まれたところはどこ?」
エマが不思議そうに尋ねると、イザベルが地図の北側、ベルギーのワロン地方を指先でトントンと叩いた。
「ママとアンドレおじちゃんは、このベルギーのワロンっていう場所で生まれたの。緑がいっぱいで自然が豊かでね、焼き立ての甘いワッフルや、世界一美味しいチョコレートがたくさんある素敵なところよ」
「わぁ……! エマ、いってみたい!」
「エマはまだ覚えていないかもしれないけれど、フランスにもベルギーにも、おじいちゃんとおばあちゃんがいるんだよ」
クロードが優しく教えると、エマは身を乗り出した。
「おじいちゃんとおばあちゃんって、どんなひと?」
「パパのお父さんとお母さんはね、パパとママが結婚した時、飛び跳ねるくらい喜んでくれたんだ。エマが生まれた時には、ママに車をプレゼントしてくれたんだよ」
「あかい車!」
エマがパッと手を挙げた。幼稚園の送り迎えでいつも乗っている、大好きな車だ。
「そう、エマを乗せて安全に送り迎えができるようにって選んでくれたんだよ」
イザベルも懐かしそうに微笑んで言葉を継いだ。
「ママの方のおじいちゃんとおばあちゃんも、エマが生まれた時は本当に大喜びだったわ。特におじいちゃんなんて涙を流してね。それにね、アンドレおじちゃんもすごかったのよ。エマが産まれたって聞いた時、早く会いたくて学校を早退しようとして、先生に必死で止められたんだから!」
「ちょ、姉ちゃん! なんで今その話をするんだよ……!」
アンドレがいたたまれずに顔を覆う。
「ふふ、その後、病院から学校に連絡が入って先生から『無事に生まれたぞ』って教えてもらったんでしょ? 懐かしいわねぇ。毎日学校から帰ってきたら、ずっとエマの子守をしてくれていたのよ」
アンドレは恥ずかしそうにセシルへ視線を向け、「……あの時は、居ても立っても居られなくて」と小声で言い訳をした。
だがセシルは、目を細めて心の底から優しい笑みを浮かべた。
「すごく素敵だと思うよ。お姉さん想いで、面倒見がよくて……家族をそこまで大切にできるアンドレは、本当に立派だよ」
「……ありがと」
セシルに真っ直ぐ褒められ、アンドレはさらに頬を染めて視線を伏せた。イザベルはその様子を実に嬉しそうに見守っている。
クロードがエマの頭を撫でながら言った。
「それにね、おじいちゃんとおばあちゃんの他にも、パパにはお兄さんがいるんだ。今度みんなで会いに行こうね」
こうしてエマは、家族の歴史と地理のつながりを身近に学んでいった。
「それじゃあ次は、大好きな動物さんたちが生まれた場所を勉強しようか!」
エマにそう声をかけると、彼女は嬉しそうに胸を張った。
「エマね、どうぶつのなかでライオンさんがいちばんすき!」
「へぇ、ライオンさんが一番なんだ! どうして?」とセシルが尋ねると、エマは自分の頭の周りに手を広げてみせた。
「かみの毛がふさふさで、パパやママみたいにかっこいいから! それに、ママのあかい車にもライオンさんがいるんだよ!」
セシルがきょとんとすると、イザベルが笑って種明かしをした。
「ふふ、プジョーのエンブレムのことよ。ライオンのマークがついているの」
「あ、なるほど! プジョーのマークですね!」セシルも納得して手を打った。
ここからは、アンドレとセシルも高校の資料集を開いて本格的にサポートに入った。セシルが歴史・地理の資料集で気候や地形を、アンドレが理科の資料集で動物の分類や生態を解説していく。
世界地図のシートの上に、エマの8匹のぬいぐるみたちを生まれた場所に置いていく。
まずは広大なアフリカのサバンナ地域。そこにキリンとゾウのぬいぐるみを配置した。
「キリンさんはアフリカの草原、サバンナに住んでいるんだ。長い首を使って、アカシアっていう木の高い葉っぱを食べるんだよ。あ、エマちゃんが大好きなライオンさんも、このサバンナで暮らしているんだ」
セシルが気候区分を示しながら教えると、アンドレが理科の資料集を開いた。
「ゾウさんはアフリカゾウだね。実はゾウの赤ちゃんは、生まれたばかりの時は鼻を上手に使えないんだよ。手足を動かすみたいに、毎日練習して少しずつ使えるようになるんだ。ほら、見てごらん」
アンドレがスマートフォンで赤ちゃんゾウの動画を見せる。不器用に鼻を振り回しながら草を掴もうとする愛らしい姿に、エマは「かわいい! エマがスプーンをつかうれんしゅうとおんなじだ!」と大はしゃぎした。アンドレはさらに、ゾウの群れはお母さんを中心としたメスたちがみんなで子どもを協力して育てるのだと優しく教えた。
続いて、アンデス山脈の高山地帯(南米)にはアルパカを配置。寒冷で乾燥した高地に耐えるために、あのもふもふで上質な毛が生えていることを解説する。
北米やユーラシアの深い森林地帯にはヒグマを置き、冬眠の生態やサケ、木の実を食べる雑食性であることを説明した。
ヨーロッパやアジアの野原にはウサギを配置し、天敵の音をいち早く察知するために長い耳を持っていること。エマのベッドにいたネコは、古代エジプトの時代から人間と暮らし始めた歴史(リビアヤマネコが起源)をセシルが歴史の視点から紐解いた。
そして、南米の熱帯雨林にはヘビ(エマのぬいぐるみはボア・コンストリクター)を置いた。
「ボアは毒を持たない代わりに、とても強い筋肉で獲物をぎゅーっと締め付けるんだよ」
アンドレの解説を聞いたエマが、ふとヘビのぬいぐるみを抱きしめながら不思議そうに質問した。
「ねえアンドレおじちゃん、なんでヘビさんはからだをぐるぐる巻きにしているの?」
「よく気づいたね、エマ」
アンドレはヘビのぬいぐるみを手に取り、綺麗にとぐろを巻いた状態を作って見せた。
「ヘビさんはね、こうやって体をぐるぐる巻きにまとめることで、体から温かい熱が逃げないように『保温』しているんだよ。ヘビは自分で体温を上げられないからね。それに、こうやって小さく丸まっていれば、敵から見つかりにくくなるし、もし敵が来てもバネみたいにパッと飛び出して身を守ることができるんだ」
アンドレがぬいぐるみを縮めたり伸ばしたりして分かりやすく実演すると、エマは感心したように目を輝かせた。
「みんな、それぞれすごいところがあるんだね!」
エマは並んだぬいぐるみたちを順番に見つめ、愛おしそうに声をかけた。
「クマさんはちからもちでかっこいい! ゾウさんはおはなでおみずがのめてえらい! キリンさんはせがたかくてやさしい! アルパカさんはふわふわであたたかい! ネコちゃんはいつもエマをいやしてくれるし、ウサギさんはおみみがよくきこえる! ヘビさんはぐるぐるしてあったまるのがじょうず! それからキツネさんは――あたまがすごくよくて、かしこいんだよね!」
「ふふ、キツネさんが賢いってちゃんと知っていたんだね。えらいぞエマ」
クロードが目を細めて褒めると、エマは嬉しそうに頷いた。
さらにエマは、お昼にアンドレから教わった「キリンの首の骨」のことが気になり、アンドレが開いてくれた理科の資料集の骨格図を指でなぞり始めた。
「キリンさんは……いち、に、さん、し、ご、ろく、なな! ほんとに7つだ! にんげんのホネも……いち、に、さん、し、ご、ろく、なな! パパ、ほんとうにエマたちとおんなじ7つだったよ!」
自分の目で図鑑の骨を数えて確かめられたことが、エマにとって何よりの発見だった。
大好きな動物たちの故郷、気候、食べ物、そして生きるための知恵。
ぬいぐるみをただのおもちゃとしてではなく、ひとつの命として深く知ることができたエマの瞳は、知的好奇心でいっぱいに輝いていた。きっと明日からこの8匹と遊ぶ時は、今まで以上に豊かで楽しい物語が生まれるに違いない。
一連の勉強を見届けていたクロードが、心からの笑みを浮かべて二人に深々と頭を下げた。
「アンドレ君、セシルさん。自分たちの勉強中だったのに、エマの面倒まで見てくれて本当にありがとう。おかげでエマにとって、忘れられない素晴らしい一日になったよ」
「とんでもないです! 私たちもすごく勉強になりましたし、何よりエマちゃんが可愛くて楽しかったです」
セシルが微笑むと、アンドレも頼もしい表情で頷いた。窓の外からは柔らかな午後の光が差し込み、リビングはどこまでも温かな空気に満たされていた。
アンドレとセシルがテスト勉強の内容に合わせて、今の自分にできるテーマを使って勉強内容を合わせているエマちゃんはどうでしたか?




