記憶のノック
金曜日の午後は、秋晴れのグラウンドで男女合同の球技(アルティメット/フリスビーを使ったパス競技)の授業が行われていた。
知性派で冷静沈着なマリアにとって、体育は唯一と言っていい苦手科目だった。長距離を走るスタミナや瞬発力にはまるで自信がない。しかし彼女は、持ち前の空間把握能力と周囲を観察する目をフル活用し、相手のパスコースを先読みして的確に味方へ繋ぐことで、見事にチームに貢献していた。
ピピッ――!
鋭いホイッスルの音が響き渡る。
「よし、そこまで! 全員、しっかり日陰に入って水分を補給しろ! 倒れられたら困るからな!」
声を張り上げたのは、体育科のデュポワ先生だ。浅黒く日焼けした精悍な顔立ちの若い男性教師で、少し暑苦しい熱血漢だが、生徒一人ひとりの体力や個性に合わせた無理のない指導を行うため、運動が苦手な生徒からも厚い信頼を寄せられている。
木陰のベンチに腰を下ろし、ボトルに口をつけた四人の間で、さっそくマリアのプレーが話題に上った。
「マリア、さっきのディフェンスすごかったぞ! 相手の視線の先を読んでパスをカットするなんて、まるで作戦通りの動きだったな」(アンドレ)
「本当に! マリアが相手の動きを読んで指示を出してくれたから、私でも迷わずにパスを受け取れたよ」(セシル)
「まったくだぜ! 運動量で勝負できないなら頭脳で勝つ! まさに知能派プレイヤーって感じで、めちゃくちゃカッコよかったぞ!」(ルイ)
三人に褒めちぎられ、マリアは汗を拭いながら小さく肩をすくめた。
「……買い被りすぎよ。私は足が遅くて体力が持たない分、頭を使って最短距離で動いてるだけ。純粋な身体能力じゃ、みんなの足元にも及ばないわ」
マリアが謙遜しながらベンチの脇に目をやると、先生が広げていたバインダーに、先日学年全体で実施された体力測定の集計結果が挟まれているのが見えた。
女子の部の最上段には、ひときわ目立つ太字でこう記されていた。
―――― « 1re : Béatrice Rochefort » 「1位:ベアトリス・ロシュフォール」
「お、それか?」
歩み寄ってきたデュポワ先生が白い歯を見せて笑った。
「そのロシュフォールって生徒は凄まじいぞ。女子の中じゃ圧倒的なトップだ。種目によっちゃ、男子の上位連中にすら割って入る数値を叩き出してるからな」
「女子で学年トップ……しかも男子の上位と並ぶ体力測定の記録なんて、一体どんな猛者なんだ?」(アンドレ)
「うわあ……きっと背が高くて、手足が長くて、ギリシャ彫刻の戦士みたいな筋肉モリモリの女子なんじゃないか!?」(ルイ)
「もう、ルイったら大げさなんだから……! でも、そこまで身体能力が高い女の子なら、きっと幼い頃から何か本格的なスポーツを極めてきた子なのかな」(セシル)
三人がそれぞれ驚き混じりに想像を膨らませる中、マリアだけは全く違う反応を示していた。
(――ロシュフォール……? この名字、どこかで聞いたことがある……だけど、どこで……?)
灰色の瞳を凝らし、ロシュフォールの各項目の驚異的な数値をじっと凝視するマリア。その様子を見たデュポワ先生は、体育が苦手なマリアが成績表を見て落ち込んでいるのだと勘違いし、慌てて明るい声でフォローを入れた。
「おいおいルッセ、そんなに深刻な顔で落ち込むな! あそこまでの数値を目指す必要なんてないんだからな。お前はお前のペースでベストを尽くせばそれでいいんだ。体育ってのはな、足が速い奴だけが偉いんじゃない。さっきのお前みたいに、周りと協力してチームを動かす視野の広さだって、立派な体育の才能なんだから胸を張れよ!」
「……あ、ありがとうございます、先生」
先生の温かい励ましに礼を言いつつも、マリアの胸のざわめきは収まらなかった。どうしても、その名字の響きが耳の奥に引っかかっている。
「先生、その……ロシュフォールさんって、どんな生徒なんですか?」
マリアの真剣な問いに、デュポワ先生は腕を組んだ。
「どんな生徒って言われてもな……さっき言った通り、男子と張り合えるくらいスタミナもバネもある。負けず嫌いだが、いつもカラッとしていて明るく、クラスを引っ張るリーダーシップがある奴だな」
「他には、先生から見て何か印象的な特徴はありますか?」
さらに食い下がるマリアに、デュポワ先生は「うーん……」と太い首を捻って頭を悩ませた。しばらく考え込んだ後、思い当たったように指を鳴らす。
「そうだな……歩く時の背筋の伸び方が軍人並みに綺麗だな。姿勢がとにかく良い。それと、いざ試合や競技に入ると、獲物を狙う鷹みたいに目つきがグッと鋭くなる。……だがな、ルッセ、あいつもお前と同じで、周囲の動きを実によく見てるんだよ。高い運動神経と判断力を持っていて、みんなを引っ張る力があるのに、それを鼻にかけるような傲慢さがまるでない。底抜けの明るさで自然と周りを巻き込んでリードしていく……俺から見たロシュフォールは、そんな頼もしい生徒だな」
デュポワ先生はさらに言葉を続けた。
「そういえば、体育だけじゃないぞ。職員室の雑談で他の先生たちが話してるのを聞いたが、主要科目でもかなり優秀な成績を収めてるらしい。ほら、廊下に貼り出されたセコンデの成績優秀者一覧でも、トップ10に名前が入ってただろ」
先生の詳しい人物評を聞き、三人はそれぞれ感嘆の声を漏らした。
「文武両道で、周囲への配慮もできてリーダーシップもあるなんて……本当に非の打ち所がない凄い人なんだな」(アンドレ)
「鷹のような鋭い集中力と、みんなを惹きつける明るさ……まるで物語の主人公みたいで憧れちゃうな」(セシル)
「へえー! 天は二物を与えずって嘘だな! 頭も良くて運動もできて性格もいいなんて、一度お目にかかって拝んでみたいぜ!」(ルイ)
三人が賑やかに盛り上がる横で、マリアはデュポワ先生の言葉を一言も聞き漏らすまいと静かに耳を澄ませていた。
「まあ、この名簿はこの学校のセコンデ(高校一年生)全員の記録を集計しただけのものだからな。ロシュフォールはお前たちとは別のクラスだ。普段の授業じゃ顔を合わせることもないだろうよ」
デュポワ先生がそう言って名簿をパチンと閉じた。
確かに先生の言う通りだ。違うクラスの生徒なら、入学してまだ数ヶ月の自分が個人的な関わりを持つはずがない。
だが――それならなぜ、自分はこの『ロシュフォール』という名字に、これほど強く聞き覚えがあるのだろうか。
(違うクラスの生徒なら、同学年でも顔も知らないはず……なのに、どうして名字だけがこんなに記憶に引っかかるの……? ナポリ? それとも……?)
喉の奥に小さな骨が刺さったような違和感が、マリアの胸の中にくすぶり続ける。いくら記憶の引き出しをひっくり返しても、肝心の答えだけが霧の向こうにあって思い出せなかった。
ピピーッ――!
「よし休憩終わり! 後半戦いくぞ、持ち場につけー!」
デュポワ先生の野太い号令が青空の下に響き渡った。
「行こう、マリア!」
セシルに手を取られ、マリアは小さく息を吐いて思考を打ち切った。
「……ええ、行きましょう」
四人は再び、秋の陽射しが降り注ぐグラウンドへと駆け出していった。




