教師の決意
時計の針が18時35分を指した頃、アンドレは男子寮のエントランスホールの重い扉をくぐった。門限の19時にはまだ余裕があったが、ジラール先生の言葉を思い出し、早めに戻ってきて正解だったと息を整える。
「おや、ランベール。早い戻りだな」
低い重低音の声がホールの吹き抜けに響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは男子寮の舎監を担当するルフェーヴル先生だった。筋骨隆々のたくましい体躯に、短く刈り込まれて乱れ一つなくまとめられた黒髪。その威圧感と規律に対する妥協のない厳しさから、男子寮生たちの間では恐れと敬意を込めて「鬼教官」という異名で呼ばれている人物だ。
「ルフェーヴル先生、ただいま戻りました」
アンドレが背筋を正して礼儀正しく挨拶すると、鬼教官の異名を持つ男の厳格な目元が、ふっと安堵の色を帯びて緩んだ。
「うむ、時間前に戻ってくれて助かったよ。……実はな、急遽女子寮の舎監であるジラール先生が生徒の個別対応に入ってな。19時の点呼に間に合わない可能性が出てきたんだ」
「ジラール先生がですか?」
「ああ。そこで、私が代理で女子寮の点呼を行うことになった。そのためこちらの都合で申し訳ないが、男子寮の点呼を予定より前倒しして、18時45分から実施することにしたんだ。お前が早めに戻ってきてくれて本当に良かった」
普段の厳しい指導からは想像もつかないほど、ルフェーヴル先生は誠実な口調で予定変更の理由を説明し、生徒であるアンドレに軽く頭を下げて謝罪した。ただ厳しいだけでなく、筋の通った誠実さを持っているからこそ、生徒たちからも深く慕われているのだ。
「いえ、早めに戻ってきてよかったです。すぐに点呼の準備をします」
「うむ、助かる。自室で待機していなさい」
そう言って歩き出したルフェーヴル先生を見送りながら、アンドレはふとエントランスの奥、管理室の隣にある小さな部屋に目を留めた。普段は滅多に使われることのない面談室のドアノブに、白い木製の札が掛けられている。
そこには、はっきりとした太字のフランス語でこう記されていた。
―― « Occupé » (使用中)
(面談室が使われてる……さっきジラール先生が生徒の対応をしてるって言ってたけど、ここで誰かと話してるのかな)
ドアの隙間から漏れる気配の真剣さを感じ取りつつ、アンドレは余計な詮索を胸の内にしまい、自分の部屋へと続く階段を静かに上がっていった。
――アンドレが学生寮に戻ってくる10分前の18時25分、学生寮の面談室ではジラール先生がいた。
生徒の急な相談が入ったことで、19時の女子寮の点呼に間に合わないかもしれないと思い、男子寮担当のルフェーヴル先生に代理をお願いした。
そして18時30分、約束の時間きっかりに面談室の扉がノックされ、「失礼いたします」と礼儀正しい挨拶とともにその女子生徒が入室してきた。促されて向かいの椅子に座ると、彼女の背筋はすっきりと伸びていた。
「それで、確かめたい規則というのは何でしょうか?」
ジラール先生が改まった口調で尋ねると、女子生徒は手元に携えていた学生寮の生活規則が記された薄い冊子を静かに開いた。女子生徒は迷いなく左手の人差し指で特定のページを強く指し示した。
「この規則の真意について、確認させていただきたいのです……」
前置きをして始まった彼女の説明に、ジラール先生は静かに耳を傾けた。条文の言葉を一つひとつ丁寧になぞり、文脈と本来の意図を論理的に解き明かしていく彼女の言葉を、先生は途中で遮ることなく、真摯に受け止めた。
彼女がすべてを話し終えると、面談室に穏やかな静けさが戻った。
ジラール先生は銀縁の眼鏡をそっと直し、深く頷いた。
「――その通りです」
厳しい教師としての仮面を解き、先生の口元にはどこか救われたような柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ここは、長年にわたって生徒たちの間で大きな誤解が定着してしまっていた条項でした。……まさか、その本当の意味に自ら気づいて声を届けてくれる生徒が現れるとは思いませんでした。とても嬉しく思います」
「ありがとうございます……」
頭を下げた女子生徒の声からは、胸につかえていた重い疑問が解け、確信へと変わった安堵の色がにじみ出ていた。
しかし、ジラール先生は表情を引き締め、誠実な声音で言葉を続けた。
「実は、この規則を巡る生徒たちの誤認については、男子寮を担当しているルフェーヴル先生とも『どう改善し、どう正しく伝えるべきか』と以前から話し合っていた問題でした。本来の目的からかけ離れた解釈がひとり歩きし、あなたたちを窮屈にさせていたこと……指導する側の説明不足でもありました。申し訳ありません。そして、勇気を出して指摘してくれて感謝します。あなたが気づいてくれたことで、私たち教員もこの問題から目を背けず、正面から向き合わなければならないと改めて思い知らされました」
先生からの率直な謝罪と感謝の言葉に、女子生徒はしっかりと背筋を正した。
「一つお願いがあります。今あなたが話してくれた内容と見解を、ルフェーヴル先生にも共有してよろしいでしょうか?」
「はい、もちろんです。男子寮でも同じ誤解が続いているのだとしたら、この問題は学校全体できちんと解決しなければならないと思います」
迷いのない、はっきりとした承諾だった。
「ありがとう。では、本日のところはこれで。部屋に戻って体を休めなさい」
「失礼いたしました」
女子生徒は深く一礼し、足取りも軽やかに面談室を後にした。廊下を去っていく規則正しい足音を聞きながら、ジラール先生は机の上の規則集に視線を落とした。
(……生徒たちに、きちんと真実を説明しなければなりませんね)
誤解されたまま縛り付けられていた規則の呪縛を解くため、ジラール先生は静かに決意を固めていた。




