第一章 テセウスの罪状 第二幕 豊穣の女神を讃える日 Ⅲ
結局、雨が止んだのは夕刻になりかけた頃だった。
道端にはほとんど誰もいない。露天商の店ですら跡形もなく、ただ静けさが広がっているだけだ。にぎわっていた証拠なんて、片隅に落ちている花びらくらいなものだろう。それだって、踏み潰されて色褪せている。
夕風にそよぐベールの下、イブの目は伏せられるしかなかった。それでも、せめて水たまりを踏み抜かないように。泥を、わずかでも散らせないように。
きっと、今の世界は涙が出るほど美しい。
雨上がりの道を、一日のうちでもっとも強く輝く太陽が照らすのだから。
あちこちに残る水滴は光の粒。
見上げれば、夕焼けに染まる空。
そんな世界を、イブが見ることは許されない。
ただひっそりと、止まりかける足を動かすだけだ。
なぜ。
それだけがイブの頭をめぐる。
朝はたしかに晴れていた。神の祭典がある日は、太陽神の神殿にいる神官が晴れを祈願する。それが習わしで、当然今日だって。
なら、届かなかった? ——————それはない。だって、神官の祈りすら届かないなどあるものか。
なら、太陽神が————もっとない。だって、祈ったから雨は上がった。
なら、神官が祈らなかった? ——これもない。だって、朝は晴れていた。それに神官は、神にお仕えなさる立場の者だ。敬神の心がないなんて、そんなの。
だからめぐりめぐって、イブの頭は当然の因果に行き当ってしまう。
朝から中身が減ったはずの聖杯が、今はとても重い。
もう充分奪われたはずの体温を、聖杯はいまだに奪っていく。おかげでイブの指先は、ほとんど感覚がない。
そのせい、だろうか。
神殿の荘厳さに、イブはなにも感じない。ただの背景としてしか、目に映らない。
それは神殿に入っても、祭壇の前に立っても同じことだった。
神官の高らかな祈りさえ、ただの音だ。その辺で繰り広げられる世間話を、誰が意味のあるものだと心に留めようか。
それなのに、体だけは勝手に動く。
ちょうどいいタイミングで、ちょうどいい量の「聖水」を、ちょうどいい場所へ垂れ流す。祭壇の正面だ。
役割は果たした。せめて、せめてこれ以上は。
あとずさったイブの足まで水は届きかけ、けれどギリギリ届かない。
下がるイブと入れ替わりに、金角の牛が引き立てられる。
神官の祈りの中、コティスが籠の麦を捧げる。
小瓶の聖水を牛にかける。
首も体も横にふる牛を見ようともせず、神官はただ「祈り」を「捧げる」。
「今、この獣はみずから魂を捧げることを選びました。その尊き心を、聖なる炎にのせてここに捧げましょう。穢れなき魂を、聖なる煙にのせて貴方に捧げましょう。大麦が感謝ならこの贄は祈り。どうか、この大地に豊穣の女神たる貴方の愛を今一度——」
牛は、今もすべてを横にふっている。
淡い黄色の光景に、イブはそっと目を閉じる。
誰が、みずから望んで死ぬというのだろう。
あんなに重かった聖杯は、今となっては驚くほど軽い。聖水が入っていたのが嘘みたい——というか、きっと厳密には——本当に、嘘みたいだ。
いつの間にか、牛は炎に包まれていた。熱風が、イブのベールを大胆に持ち上げた。
「あ」
醜い、そうイブには見えた。祈りで生まれた炎が、今はなぜかとても醜い。
美しい、そうイブは感じた。生きたまま炎に焼かれ、それでももがく牛の姿が——きっと花嫁衣装より美しく感じられて仕方ない。
醜い、そうイブには思えた。臭さと黒さをはらんで昇る煙が、どうしようもなく醜く思えてしまう。
生贄の牛はじっくりと、けれど確実に焼肉へ変わっていく。
煙のにおいがゆっくりと変わって、イブも空腹を感じずにはいられない。こんな匂い、今まで嗅いだことがないのに。
他の少女たちも、喉を鳴らしたりお腹を鳴らせたり。
無理もない。
朝なんてパンとスープくらいしか食べないだろう。なのにずっと歩き続けて、もう夜になっている。
こうなれば、立場も身分も関係ない。
風の神に祈る声。牛の丸焼きが、ほどよく切られて盛りつけられていく。
「さ、遠慮なく!」
テーブルに並ぶ肉の皿に、神官たちが押し寄せていく。
「うわ、眼福……いつぶりだ?」
「ここまで多いのは一年ぶりか? 赤身の肉なんて、こんな時でもないと食べられないからなー」
今にもありつかんとする神官を、別の神官が「それをおっしゃるなら」とたしなめている始末だ。
「聖女様や巫女様優先でしょう。彼女たちは日ごろ、お肉なんて食べられないのですから……さ、豊穣の乙女の皆様」
女の子だって、いつまでも遠慮しているわけじゃない。我先にと押しかけていく。さすがに聖女優先らしいが、平民代表の少女さえイブを突き飛ばし割り込んでいく。
かと思えばコティスは離れた場所で、ずいぶん楽しそうだ。
「コティス様、好きなだけお食べください! なんなら俺のぶんも差し上げますよ」
山盛りの皿を差し出す神官に、別の神官が「おいこら」と指をさす。
「抜け駆けすんな! コティス様はみんなのコティス様だろっ」
「そーだそーだっ」
どう見ても神官じゃない人たちも、コティスのもとに肉やら葡萄酒やらを運んでいる。
身分も立場も関係ない。今日だけは、聖女だってふつうの女の子なんだ。その事実に、イブは聖杯を近くへ置いた。
歩いていた子たちには、もうお皿は行きわたっている。
あちこちで交流の声。
少し離れて言い争い。
けれど、どれもイブの耳には遠い。代わりに焼けた肉の、積まれたパンの、いろんな果実の香りが鼻に飛び込んでくる。
知らなかったのは肉の香りだけで、他はイブにとって珍しくもない。それでも、視界の狭まるイブにとっては道しるべだ。
ようやくたどり着いたテーブルの、残り少ない肉に手を伸ばして
「あなたにはもったいないんじゃない?」
かっさらわれた。
巫女だ。
動きを失うイブに、巫女は言い放つ。
「知ってるのよ。あなたが神を信じてない、不敬の徒だって」
「そんな、こと」
堂々とできればよかったのだろう。
けれどイブの口からは、弱った声しか出てこない。
だから、巫女の責める声は強くなる。
「そんなことあるでしょ。今日の雨だって、きっと神々のお怒りを買ったのよ!」
あちこちから視線が突き刺さって、けれど誰も動こうとしない。少なくとも、イブが分かる範囲では。
別の巫女に皿を託し、巫女はじっとりとイブに詰め寄る。
「ふさわしいのは我らが聖女……、豊穣の女神の聖女ただ一人なのに……っ」
——ああ、と。
働かなくなってきた頭に納得が落ちる。
この人は、豊穣の女神の——
もともと悪い視界だ。しかもひどい空腹が、考えることすら邪魔をする。だから、新しい人影に気づくのが遅れた。
「いいのよイラ、私のために怒らなくて」
イブには覚えのない声だ。でもきっと、「いちばんふさわしいはずだった人」なんだろう。
だって、と聖女は声を落とす。
「家畜に何を言っても無駄だもの」
吐き捨てる声は重い。なのに、どこか聞こえよがしだ。
「子を産んで、血をつなげるしか能のない家畜。選ばれたのだって、どうせ箔をつけるためだわ。神官の結婚相手が、ただの家畜じゃ格好がつかないもの」
そう言ってイブの顔を、ベールごしに両手で包み込む。肉に滴っていた脂のにおいが、より強くイブの鼻にまとわりついて離れない。
「私は優しいから、一回くらい許してあげる。雨なら私たちの祈りで上がったものね」
言葉とは裏腹に、手を離す時は放るようだ。おかげでイブの足までもつれかけてしまう。揺れる視界、濁ったベールの向こうで聖女は肉の皿へと手をのばす。そして持ち上げた皿を
「私は優しいから」
ひっくり返した。
イブの目の前で。
「一皿くらい許してあげる。さあ、お食べなさい……脂の一滴まで、残さずね」
「……あ、イブ様」
外は暗くて、目の前の人ですら顔が分からない。けれど声だけで彼女が誰なのか分かる。
「フィーディ……」
それだけ言うので精一杯だ。
倒れかけるイブを、フィーディは本当に優しく抱き留める。
「大丈夫……じゃないですよね。ちょっと失礼しますよ」
言うが早いか、イブの体が宙に浮く——抱かれているのだ。体格差などない、同い年の女の子に。
「イブ様軽いですねー、ちゃんと食べてます?」
口だけじゃない。ずんずん歩いてゆっくりと縁石に座らせてくれるあたり、本当にそう思っていそうだ。
口すら動かす気力のないイブとは大違いである。代わりに腹の虫だけは威勢がいい。
沈黙。
「……食べ物、もらってきますね。大丈夫、すぐ戻ります」
「……まさか本当にすぐ帰ってきてくれるなんて」
ささやかだけど肉。
たくさんのパン。
いろいろな果実。
なん切れものチーズ。
温かいスープ。
甘い香りの蜂蜜水。
おまけに大きな布と、辺りを照らす小さな光たち。
おかげで縁石から、広げた布の上に引っ越しだ。食べ物を置いても余裕があるから、フィーディと二人でくつろげる。
スープを飲みこむイブの横で、フィーディは小さな光を見つめていた。
……光といえば。
「ねぇ」
小さな一声。それでもフィーディは「なんでしょう?」と返してくれる。もうそれだけでいいようで、けれどイブは問わなければならない。
「もしかして、どなたか手伝ってくださったとか? ほら、この布とか光とか」
フィーディには悪いけれど、これが彼女一人によるものだとはどうしても思えない。イブですらこんな布は見たことがないし、それにこの光。太陽神か月神に祈ったのだろうが、イブもフィーディも祈りなんて。
恩人の名を待つイブに、フィーディはベールの向こうから視線を合わせてくる。
「あ……はい。親切な神官の方が。でもお礼を申し上げるのは難しいかと……」
フィーディが指さすのは豊穣の女神の神殿だ。にぎわう声がこんな場所まで届いてくる。
「あちらに入っていかれましたから。あ、でもご用があるなら私が! 御顔は存じ上げておりますしっ」




