第一章 テセウスの罪状 第二幕 豊穣の女神を讃える日 Ⅱ
結局、神殿の前にたどり着くまでの道に民衆はいなかった。
シトラスと月桂樹の木に挟まれた入口へ、豊穣の少女たちがまばらに入っていく。その何人かは、イブを冷ややかに流し見て。
フィーディが立ち止まる。
「私はここまで、ですよね」
「ええ」
答えて、イブは目を伏せる。
「……もっと盛り上がっていればよかったのだけれど」
イブはいい。言い方は悪いが、儀式が時間を奪ってくれる。
けど、フィーディはどうなる。今日だけはイブを忘れられるにしても、楽しめることなんてあるのか。
果たして、フィーディはイブの肩に手を置いた。とてもやわらかく、痛みも衝撃も与えずに。
「だったら道中を追いかけていいです? 邪魔は入りそうにないですし」
いつもどおりの声だった。
だからこそ、イブの目は見開かれる。
「え、ええ。問題はないはずよ」
奴隷に刑法は通用しない。少しの罪で極刑になった奴隷の話なら、それだけで一日尽きるだろう。
けれど、罪とされる行為はすべて法典による。
イブの頭はどこまでも冷静に法典をめくって、けれど心はなぜか熱い。こんなにも静かなのに、あの華やかな光景を見たときのように。
黄色いベールの向こうで、きっとフィーディは笑ったのだろう。
「分かりました! じゃあ出発、楽しみにしてますね!」
そうまで期待されたら。
踏みとどまってなど、いられない。
「ありがとう」
集合場所は太陽神の神殿、もっといえばその祭壇だ。いったん神殿の中に入って、専用の出口から出た先。この地でいちばん陽光が差す場所に。
もう多くの少女たちが並んでいた。
銀の聖杯を持つ聖女とか。
籠を持つ選ばれた巫女とか。
日傘をさしかける巫女や巫女見習い、それに選ばれた少女とか。
イブも、あの中に入らなければならない。それも先頭に立つコティスの横だ。金の聖杯、「聖水」入りの特別な聖杯を運ぶ者として。
ベールを被っていてよかったかもしれない。聖杯の金色が、まぶしく光を反射しているだろうから。
けれど、その輝きに冷たい視線が突き刺さる。
「金の聖杯……じゃああの子が?」
「今年は聖女コティスの妹って聞いたけど」
「その子、たしか敬神の心がない子でしょ? 神官が噂してたわ」
「なんでそんなのが選ばれたのよ」
「どうせ神官長の娘だからでしょ」
「ふさわしいと思ってるのかしらね」
「どんな顔してんのかしら」
「やめなさいって。今まで表の場に出てこなかったのは、どうせそういうことなんだから」
「コティス様はとても美しいのにね」
————そんなの、イブがいちばんよく分かっている。
どれだけ祈っても、神に届いたことはない。
今日たったひとりだけの栄誉を与えられたのも、「仮にも神官長の娘が、神事でなにもしたことがないなんて外聞が悪い」から。
もっとふさわしい人なら、いくらだっている。
豊穣道中を率いるうちの一人、なんて誰もが憧れるポジションだ。イブなんかが立っていい場所じゃない。少なくとも、この場にいる全員がそう思っている。イブだって今すぐ豊穣の神の聖女に聖杯をわたして、あの部屋へ逃げたい。
けれど許されないことだから、だから大人しく立つべき場所に並ぶ。先頭に立つコティスの、斜めうしろだ。
結局、祭りが始まるまでコティスとは目も合わなかった。
ベールごしだから、とかではなく顔すら向けられない。ただ、そこにいるだけだ。
少し暖かくなった世界に神官の声が響く。
「——恵みの太陽、そのぬくもりを、輝きを、すべてをつかさどりし神よ。御力によりて我らは糧を得ました。生きられる熱を得ました。明るさを得ました。何物にも代えがたいお恵みにより、こうして幸せを享受しています——」
祈りの声を聞きながらイブは太陽神へと想いをはせる。
いないわけがない。
たとえば大雨の日。神官の三日三晩かけての祈りに、太陽神はお答えになったと聞く。
たとえば神事の日。今だって太陽が昇って、隠れることもない。
太陽神が愛してくださるから、イブたちは恵みと楽しみを享受できるのだ。
こうしている間にも世界は温まって、聖杯の冷たさもやわらいでいく。大通りのほうでも、ちらほらと人が見えはじめているらしい。
などと思い巡らせているうちに、神官は祈り終えていた。入れ替わって前に立つのは、豊穣の女神の神殿に仕える筆頭神官だ。連れているのはいちばん上等な牡牛で、ツノは金に塗られている。
率いる歩みにしたがい、大通りへ。
このまま大通りを歩き、数々の神殿をめぐるのだ。
大地の神の神殿。
狩猟の女神の神殿。
水の神の神殿。
天の神の神殿。
そして、豊穣の女神の神殿。
歩みに、風に、ベールがおどるから道の様子なら分かる。
祭壇から見えたとおり、まばらに人が出てきたころだ。
歌い始める吟遊詩人。
始まった演奏は、去年とどこか違っている。
踊り子の舞に、人々の足が止まりはじめた。
花籠を持った子どもが、家から飛び出してくる。
露店を組み立て始める商人たち。
そして、彼らを躱しながら追いかけてくるフィーディ。
よかった、とイブは思う。
きっと、このまま何事もなく終わる。
それぞれの神殿で、それぞれの神官が、それぞれの神に祈りを捧げる。そのうしろでイブたちも、神の恩寵と神への感謝に思いを巡らせる。
とても単純に見えて、大切なこと。
天の神の神殿にたどり着いたときには、太陽はすっかり昇っていた。雲が出てきてはいたけれど、かえって暑すぎない世界になっている。きっと天の神の恩寵だろう。御力の中心は雷だけれど、雷が雲から落とされることくらいイブも知っている。
祈りの声が終わり————イブの指がわずかにふるえた。周りからもざわめき。
外の声は止んでいた。
代わりに、音が降っていた。
そう、ちょうど————
————ちょうど、雨が降るような。
というか、「ような」じゃない。
室内でも響く雨の音なら、ここにいる全員が夏に経験済みだ。終わらないこの音は、あのときの長雨の。
薄暗い神殿の中、神官も聖女も巫女も顔を見合せていた。驚きと、それ以上に切羽詰まった恐れの声が渦を巻く。
無理もない。こんなこと、一度もなかった。
うしろの方で、誰かが声をふるわせた。
「これじゃ、服が濡れちゃう……」
きっと平民の子だろう。
聖女や巫女、巫女見習いは装束の予備がある。神殿に行けば、数枚は備えがあるはずなのだ。
けれど、平民の子はそうじゃない。
しかも上等な服で参加するのが決まりだから、ほとんどの子は花嫁衣装で参加する。あの、糸から自分の手でつくる衣装で。
不安の声の中、イブの隣で息を吸う音が聞こえた。
「ああ、恵みの太陽、そのぬくもりを、輝きを、すべてをつかさどりし神よ」
太陽神への祈りの言葉だ。
コティスの凛とした声に、暗い声が途切れていく。
籠は手放せない。それでもコティスは、太陽を請う祈りを声高く捧げていく。あのねっとりとした響きはどこにもない。
「今、我らの世界は閉ざされ、貴方のお姿すら拝見できません。ですが我らは敬神の徒、声ある限り祈りを捧げ、命ある限り心を捧げます」
ひとり、またひとり。聖女の祈りに祈りを重ねていく。
「我らの声は、信心は、厚き雲を越え貴方に届くでしょう。どうか閉ざされた世界を破り、我らにお恵みを! 今一度その輝きを、温もりを、どうかお恵みください」
「冷たき涙の雨は大地を浸し、緑の芽を腐らせ、我らの希望を泥へと変えてゆきます。天を仰ぐ我らの瞳に映るのは、ただただ昏き混沌の帳のみ。ですが神よ、我らは絶望の淵にあっても、貴方の絶対なる黄金の光を疑いません。この震える肉体も、枯れ果てんとする大地も、すべては貴方のぬくもりを、あの眩き御顔を拝するその瞬間のためにあります」
祈りの声は、いつしか大合唱になっていた。雨音なんて聞こえない。
イブも口を開きかけ————
————もしも、届かなかったら。
冷たい過去が頭をよぎる。
今まで、一度だって祈りが届いたことはなかった。だから神官長の娘なのに、神殿に仕えることを許されない。
そんな者が、仮に祈りに加わったとして。
「届いてくれ、我らの血を吐くような叫びよ、厚き雲のその彼方へ」
届く、なんて。
無責任に言えるのだろうか。
うなだれるイブを置いて、祈りは結句に入っていく。
「どうかその偉大なる御手を伸ばし、暗雲を裂き、この凍える世界を照らし出してください。貴方の光なくして、我らに明日はありません。お救いください、我ら敬神の徒を。今一度、あの眩き恩寵を、この地に……!」




