第一章 テセウスの罪状 第二幕 豊穣の女神を讃える日 Ⅰ
「神殿に行ったときに聞いたんですけど」
香り高い部屋の中、フィーディがぼやいた。飛び回る羽虫を片手で払いながら。
「今じゃどの花嫁も、香水で済ませてるみたいですよ。おかげで香が余ってるって、どの神殿でも愚痴ってました」
「それは」
布が完成してからかなり経った。今じゃ花嫁衣装はできあがって、あとは香りをつけるだけ。特にさっき染み込ませたのは、豊穣の神の香だ。今日は豊穣の神の祭りだから。
甘酸っぱく深い香りが、少し動くだけで立ち上る。あとはベールを被るだけだ。まだ婚姻の日ではないけれど、それはそれとして今日は一番いい服でいなければならない。
静かにイブから、フィーディは視線をはずした。まだ熱があるはずの香炉をつつき、面倒そうに質問をなげてくる。
「イブ様もそうすればいいのに。なんでこんな面倒なこと、毎度なさるんです?」
声の調子でイブには分かる。
別に、イブを責めているわけじゃない。誰かを悪く言うとき、フィーディの口調は少しだけ荒くなる。
だから、イブの口に微笑みが浮かぶ。
「香の煙と香りをもって、神とのつながりを作るためよ」
伝統の意味ならイブも理解している。
小窓の部屋で香を焚く。
煙と香りに、祈りの声を乗せていく。
それらは小窓で引き絞られ、天へと至る。
そうやって神々に祈りを捧げるのだ。「私はここにいます」と知っていただくために。神々の慈悲を賜れるなら、知らない男性に嫁いでも怖い事なんてない。
そのはずだ。
「祈り続ければ、いつかきっと届くから」
「この十数年、ずっと祈ってもまだ届かないのにですか」
フィーディの静かな声が響く。
「まだ悪魔の方が信じられますよ。だって、契約するだけで」
「フィーディ、それ以上はっ」
部屋にいるのは二人だけ。遠く賑やかな声が聞こえはするものの、それだって壁の向こうから。この朝日の届かない部屋には、足音だって近づかない。
だから、禁忌にふれても気づかれはしない。
気づかれはしないだけだ。
フィーディの喉元が危なく光る。
天秤の刻印——裁きの神殿の秘術だ。
手をのばすイブを片手で制して、フィーディは苦し紛れに笑い飛ばす。
「地元に伝わる……、昔話ですよ、ただの……っ」
こめかみには汗。香の火で部屋も暑くなってはいるけれど、きっとそのせいじゃない。
それでも、刻印の光は薄まっていく。フィーディの肩から力が抜ける、それがイブの目にも分かる。
「大丈夫?」
光の消えた喉元へ伸びるイブの手を、フィーディはやわらかく握る。
「平気ですって。私は軍事集落の出身ですよ、こんなの痛みにすらなりません」
「……それなら、いいけど」
……イブが謝るところじゃない。
あれを刻んだのは裁きの神殿だ。
主に逆らってはならない。
危険な思想を広めてはならない。
だから奴隷には一律で刻印を。神官がいなくとも、その場で確実に裁けるように。
この地に伝わる信仰で——他の信仰も文化も、すべからく殺していく呪い。
イブひとりの業ではない。
だから、ここで謝ってしまえば。
フィーディの声が、視線が、また冷たくなる。
手をおろすイブの横を、フィーディは素通りしていく。そうやって、机の上に置かれた金の聖杯を指先でつついた。
「にしても、よかったですね水が減って。あの巫女見習い、なみなみと注ぎやがってましたから。しかも祈って出す水を」
皮肉めいた口調に、イブも少し前のことを思い出す。
特別な聖杯には聖水を。それも、それぞれの神殿で汲まれたものを。
だというのに、運ばれた聖杯は空だった。運んできた巫女見習いが、水の神に祈るまで。神殿の者が祈れば聖水でも、あの人の装束は豊穣の神の——
フィーディが手を叩いた。
「さ、そろそろ行きましょう。豊穣道中に遅れちゃいます」
「そうね。それに、私も早く行きたいわ」
イブの脳裏に、去年の記憶がよみがえる。
たくさんの人がいた。
捧げものを運ぶ少女たちを眺める人たち。
道端で歌う吟遊詩人。
即興の演奏。
居合わせた踊り子が舞って、歓声が上がる。
花を売る子ども。
ここぞとばかりに出された露店で、いろいろな物が売られていた。あのときに買った平べったい杯は、まだ大切にとってある。
あのときだけは、ただの女の子でいられた気がする。
とはいえ、今年は「選ばれた乙女」として「参加」する側だ。今までみたいに楽しめるわけではないけれど、それでもあのにぎわいを思い出すと心が熱くなる。
屋敷の廊下は冷たい石造りだ。それでも羽虫がは花嫁衣装に群がってくるのが、ベールごしでも分かる。羽音がするのだ。今さら聞き間違えはしない。
聖杯を運ぶのが、今日のイブが果たすべき使命だ。とても大切な、世界にひとつだけの聖杯。片手でぞんざいに運ぶことなど、あってはならない。
けど大丈夫。虫ならフィーディが追い払ってくれている。今だって手を叩く音で、羽虫たちを威嚇して。
鋭く乾いた音はテセウスの鼓膜も叩いて、けれど聖水が波立つこともしない。フィーディの立てる音にびくつくなど、ありえないことだ。むしろ、近づいてくる多くの足音のほうが。
足音の群れがすぐ横に並ぶ。
「あら? イブだったのね」
ねっとりとした声が絡みつく。今のイブとお揃いの香がふわり、広がった。
彼女が誰であるか、など。淡く黄色い視界でも、イブには分かってしまう。
「……お姉様」
聖杯を落とさなかったことだけは褒められてもいい——のだろうか。あの集団にそんな優しい人は——
自然と足が止まるイブに、コティスも足を止める。その手には籠。中の大麦は穫れたてで、小瓶の中は聖水のはずだ。着ているのは聖女の正装で、けれど今回の香は豊穣の神の香。軽そうな荷物から離した片手を、コティスはわずかに頬へ当てる。
「生贄かなにかだと思ったわよ。羽虫に群がられて、のっそりとしか歩めないなんて」
嗤いを含む声に、コティスのうしろでも嘲笑う声が止まらない。白い壁に反射して、人数より多くすら感じられるから不思議だ。紛れて冷たい声が重なるが、どれもイブを蔑んでいることだけは伝わる。
そんな一人にコティスは籠をあずけたらしい。擦れる音がイブの耳まで届くのと、ベールの向こうでそういう動きのシルエット。
「その様子じゃ、祈りは聞き届けられなかったみたいね。ちょっとそのまま止まってなさい」
苛立ち紛れの声に、進み出たのはフィーディだ。
「テセウス様には指一本ふれさせませんよ」
どんな顔なのか、など。イブに見えるはずもない。分かるのは声の力強さと、うしろ姿の輪郭が頼りあることくらいだ。
「構いやしないわ、それで充分だもの」
流して、コティスは指を組む。シルエットだけでも、その動きすら艶めかしい。
息を吸い込む、慣れた音がした。
「あぁ、目に見えぬ偉大なる力よ」
響くのは祈りだ。
「遥かなる空を、大地を見守る者よ。すべての生命を慈しみ、お恵みを与えてくださる神、豊穣の女神よ」
最近フィーディが、繰り返しくりかえし奏上している祈りの言葉。それを、コティスは高らかに紡いでいく。
「あぁ、大いなる自然の守護者たちよ。我が祈り、我が願い、そして我が捧ぐ感謝の念を受け取り給え。この地を満たす香煙とともに、我が言葉を天へ、そして地の底へと届けたまえ。相容れぬ小さきものを我らの世界から遠ざけ、ただ平穏を、ただ豊かな実りを、この場所に残したまえ。そのご加護が、どうか絶え間なきように」
イブだって聞き慣れている。それどころか初めから終わりまで暗唱し、パピルスに書くこともできるくらいだ。
けれど。
虫が去っていくのがイブにも分かる。羽音が遠ざかるのだ。
フィーディができなかったこと、というのは仕方ない。故郷を滅ぼした国の神など、まだ信じられるような心境じゃないのだろう。
だから、みじめさだけがイブの胸を刺す。この聖女の妹でありながら、ひとつの祈りも届いたことがないなんて。
きっと、イブが目を伏せたことなどコティスは知らないだろう。ベールの向こうで預けた籠を回収する動きに、誰かを気にかける感じはない。むしろ、「勘違いしないで」と言い放つ。
「神聖な儀式に、穢らわしい羽虫なんて不似合いなだけよ。しかも元凶が妹だなんて、聖女の称号に傷がつくもの」
強く鋭い言葉。一秒たりとも近くにいたくない、そんなふうに踵を返していく。つきしたがう人たちごと、すぐに見えなくなるほどだ。
けれど、それがイブには不思議と心地いい。
だって、期待せずに済んだのだから。
やんわりとフィーディが下がる。
「——穢らわしい、ですか」
怒りじゃない。
疑問でもない。
納得というのも違う。
「あれで『純潔の女神の聖女』とか、あの人のほうが穢れてそうですけど」
聞き慣れた響き。
冷笑、とか。
嘲笑、とか。
そういう類のものだ。
まさか、彼女の口から聖女相手に出るとはイブも思わなかったけれど。
門の外へ出て、最初にイブが感じたのは違和感だった。
「人が……いない……?」
立ち尽くすイブに、傍でフィーディも足を止める。
「? いるじゃないですか。あそことか、そことか」
指さす先には、銀の聖杯を運ぶ聖女。
日傘を持った、花嫁衣装の少女。
他にも思い思いに着飾った少女たちが、何かしら手にして歩いていた。たしかに、「人がいない」と言えば嘘になる。
逆にいえば、そういう子たちしかいない。
「あの子たちは豊穣道中に選ばれた子たちよ。けど、いつもならもっと——」
もっと、にぎわっているのに。
街が息をひそめるなんて、この日に限ってあり得ない。
聖杯の冷たさが、イブの手から熱を奪っていく。冬の朝だからか、太陽はあるのに暖かさは弱い。寒さすら感じさせる風にベールが持ち上がり、道端の花がふるえるのが見えた。摘み取られることはなくとも、どこか儚い。
「だったら急ぎましょう、イブ様」
フィーディの声も固い。
「集合場所は太陽神の神殿ですよね。行けば何か分かるかも」




