第一章 テセウスの罪状 第一幕 「祈りはいつか届くはず」 Ⅱ
厨房はもう、祈りの声に満ちていた。
炉の前では炉の神への祈り。
汚れた道具を前に、水の神への祈り。
食器棚を見て、風の神への祈り。
中央でくりかえされるのは、さっきフィーディも唱えていた祈りの言葉だ。
奴隷のみなさんを見渡して、別格できれいな装束をまとう母が「今日もしっかり祈りなさい」と声を張る。
「祈れば、どんなことも起こるのよ。神はすべての人に平等なんだから」
いつものことだ。イブたちには目もくれない。母は奴隷の監督を——己の役割をまっとうしているだけだ。娘だからという理由で、それを邪魔することは許されない。
「料理は手が足りてるし、私たちは蜂蜜水を作りましょう」
「分かりました! 水汲みはお任せください!」
水鉢をひっつかみ、フィーディはそそくさと廊下に行ってしまう。これも、蜂蜜水を作るならいつものことだ。
その「いつものこと」にイブが目を伏せてしまうのも。
けれど、いつまでも下を向いているなど。せめて蜂蜜の準備が終わっていなければ、フィーディに顔向けできない。
取り出す器は三つ。イブの他に母と、姉の分。父の分は別の厨房で、専属の奴隷が用意しているはずだ。
それでも一度じゃ運べないから、三回にわけて運ぶのだけれど。
手前のひとつを両手で運ぶイブを、何枚もの皿が追い越していく。風が、すべて運んでいるのだ。
排水溝のほうでは、どこからともなく湧き出た水が道具をぬぐっている。
炉の火はつけられて、鍋から湯が煮える音が漏れ聞こえる。
音もなく、風がイブの頬をなでる。
「きゃっ!」
器を落とそうとしなかったことは褒められるべきだろうか。けれど結局、器はイブの手から去っていく。
伸ばした手の指先は、届かなかった。
別の手がさらったからだ。
残り二つの器も、炉と排水溝の前にいる二人の元へそれぞれ漂っていく。
「借りますねー」
一応といった口調で断りを入れてくるのは、さっき風の神に祈りを捧げていた女性だ。酒を注ぎ、高らかに器を掲げる。
「我が祈りは果たされました。神よ、お力添えに心より御礼申し上げます。感謝の証として、貴方のために捧げましょう」
逆さになる器から、酒は何の変哲もなく流れ落ちた。残り二人も、めいめいのタイミングで同じように神へ酒を捧げていく。そして、ばらばらにイブの手元へ押しつけた。
「もう使っていいですよー」
「じゃ、仕事がありますので」
「失礼しまぁす」
強いにおいが鼻を刺す。足取りも頭の中も、どこか狂ってしまいそうだ。ふらついたら、器を落としてしまうだろう。ただでさえ中に残った酒がこぼれて、器どうしを濡らしているのだから。
それでも、どうにか手近な机に並べて息をつく。
これでは、とても蜂蜜水など作れない。器を洗わなければ、酒の香りにまみれてしまう。
まだフィーディは戻ってない。
排水溝に目を向ける。
「クローネ」
さっき排水溝で洗い物をして——イブに器を返した張本人の名だ。あえて大きめな声で呼ぶイブに、さすがの彼女も顔だけ向ける。
「何ですか」
返事は冷たい。
当然だ。呼び止めたのはイブなのだから。
奴隷に指示を与えられるのは女主人のみ。つまりこの屋敷なら、イブの母親のみとなる。
けれど、イブは花嫁修業としてここにいる。
静かに、イブは手を握りしめた。ここで何もできずして、何のための花嫁修業か。
「器を、洗ってほしくて」
絞り出したお願いに、けれどクローネは冷ややかにイブを眺める。
「そうですか。では他の者にお申しつけを」
どこまでも無感情な返事。
「で、でも洗い物って今日はクローネの仕事でしょ? それに、器を使ったのは」
「神へ感謝を示したのです」
クローネは最後まで言わせない。
「それとも、あなたの指示は神への礼節より尊いとでも?」
「そんなことはっ」
そんなことはない。
けれど、そんな話をしているのでもない。
言葉がまとまらないイブに、誰も助け船を出そうとしない。それどころか、せわしなく動き始めた。
代表するように、クローネは小さく鼻を鳴らす。
「お互い様でしょう。暇な者がやればいいのですよ。私どもは、主よりお仕事を任されておりますので」
取り付く島もない。しかも理不尽な理由ならともかく、クローネの言い分は理にかなっているのだから。反論など、誰ができようか。
いつもの言葉が口をついて出る。
「ごめんなさ」
「だったら」
耳になじむ、第三の声。
「私がやりますよ。ちょうど水を汲んできたとこなので」
「フィーディ!」
顔を輝かせるイブに、彼女は片手を軽く上げる。もう片方の手でかつぐ水鉢からは、それでも水はこぼれない。
「ってなわけでクローネさん、ちょっとどいて頂けません?」
にこやかに、フィーディはクローネへと片手を差し出す。肘を軽く曲げて、形のいい力こぶを露出させて。
なにしろ、軽々と水鉢をかつげるのだ。それも、かなり上まで水が入っていそうな。それが何を意味するのか。
「わ、分かったわよっ」
身をひるがえすクローネに手を振って、フィーディはなんでもなさそうに水鉢を床へおろす。その音だけで、水鉢がいかに重いのか分かってしまう。だというのに、当のフィーディは鼻歌でも歌い出しそうだ。
疲れた顔ひとつせず、今度はイブに歩み寄る。
「遅くなってごめんなさい。大丈夫でしたか?」
声の調子はほとんど変わらない。なのに、なんて優しい言葉。
それに比べて、とイブは唇を噛む。言い返せない不甲斐なさで、こんなにも煩わせてしまうなんて。
「ごめんなさい、心配をかけてしまって」
「いいんですよ、それより、この酒くさいの運んじゃいますね」
ぞんざいなことを言いながら、フィーディは手際よく器を回収していく。ひとつめを片手で持って、ふたつめをその腕にのせて、みっつめを
「ちょっと待って! 私も運ぶからっ」
落としたら、フィーディが怒られてしまう。いや、フィーディなら運びきれそうな気もするけれど。というか危なげない未来しか想像できないけれど。でも、万が一ということもある。そうなったら、最悪解雇ということも。
自分なんかのせいで誰かが路頭に迷うなど、あってはならない。まして、それがフィーディだなんて。
イブの思いに気づいたのか、はたまた根負けしたのか。フィーディが、みっつめを持とうとした手でふたつめを持ち直す。
「じゃあ、ひとつだけお願いします」
すべて排水溝近くの台に置いて、ひとつひとつ水をかける。水鉢から、ひしゃくで水をすくうのだ。
フィーディが、面倒そうに息をついた。
「にしても不便ですね、この厨房。なんで排水溝はあるのに、水は出ないんです?」
「それは……祈れば、たとえ空気中からでも湧きあがるから」
今だって、虫を遠ざける祈りは止まっていない。だからこの厨房には、どこにも虫など存在しない。汚れた水も最悪、窓の外へ放り出せるのだから。
「フィーディ、あなたも私に気兼ねしなくていいのよ。……この地では、神の力を借りられない者は軽んじられるから」
そんなこと、イブがいちばん分かっている。
尊厳を踏みにじられるのは、一人だけでいい。
これ以上、フィーディには傷ついてほしくない。
けれどフィーディは、ひしゃくを動かす手を止めない。それどころか、笑い飛ばすだけだ。
「神を敬ってないだけですよ。だってほら」
顎でしゃくるのはクローネたちだ。
道具を洗っていた水が、皿を運ぶ風で飛び散る。
飛び散った水は風にもまれて、わずかに炉の火へと放り出される。
水の乱入に、さすがの炎も小さくなる。
その火を見て、「火が小さい」と注意がとぶ。
音を立てて、フィーディは器を置いた。もう洗い終えたものだ。あとは乾いた布でふけばいい。
「神の力、なんてありがたがってますけど。それで邪魔しあうなら意味ないでしょう。かえって人の力でやるほうが早い、私はそう思うんです」
だから気にしなくても、と。
いつもと変わらない軽さでフィーディは告げる。その軽さが、イブには心地いい。
水滴をぬぐうのも蜂蜜や水を注ぐのも、二人だけでやるから全部手動だ。
蜂蜜色に濁った水面を見つめ、イブはあり得ない未来を願ってしまう。
いっそフィーディと二人だけの——
けれど、イブの願いが叶うことなどないのだ。
それどころか、食事の席にフィーディはいない。テーブルにつくのは母親と姉だけで、他は給仕係の面々のみ。甘い蜂蜜水でさえ、この空気の中では「飲みこみづらい濁った液体」でしかない。
加えて蜂蜜の壺より甘ったるいにおいが、斜め前の席から。料理が並んだテーブルをはさんでいるのに、イブにまで伝わってくる。
さすがの母も、冷ややかな目を隣に向けた。
「コティス」
「何でしょう、お母様」
首をかしげる動きに合わせ、三日月の耳飾りが軽く揺れる。その様子に、母親は長くため息をついた。
「食事の前は香水を控えなさいと言ったでしょう」
「分かってますって。だから少ししかつけなかったんですよ。献上品でしたし、ここまで強い香りだなんて思わなくて」
言い訳する姉の両手首にはブレスレット。しかも右手のものは純金、左手のものは宝石らしい。どちらもランプの火を浴びて、テーブルに色の影を落としている。
非の打ちどころがない顔が、ふとイブへと向いた。
「それに香水ならイブだって。ずいぶん甘い香りに感じますけど?」
「……お姉様、これは」
「香水じゃないでしょ、それは」
言葉をかぶせてきたのは母親だった。
「愛の女神の香。織りあがった布に香りづけするじゃない、花嫁は」
——イブへの助け船じゃない。
純粋に、娘の間違いをたしなめる言葉だ。分かっているのに、勘違いしそうになってイブはパンをちぎる手を止める。
虚ろに、優しくない会話が耳の奥に入り込んでくる。
「あー、もうそんな時期ですか。相手はたしか、下っ端神官で平民の……なんて名前でしたっけ」
「何でもいいじゃない。大事なのは世継ぎを産むこと——たとえ血が薄まっても、神官長の直系を残すことなのだから」
感情なら、あるのかもしれない。
でもそれが愛情なら、愛とはこんなにも冷たいものだというのか。知らず、手に力がこもる。イブの手元でパンが、たやすく裂けて小さな欠片を産んだ。ちょうど一口分ほどの。
そんな次女を、母は見ようともしない。
「コティス、あなた聖女でしょ? 神々の香くらい覚えておかないと」
コティスも、妹の方を見ようともしない。
「今は神々の香も、香水で再現できるそうで。私もこの前いただきましたよ、今のイブと同じ香りの」




