第一章 テセウスの罪状 第一幕 「祈りはいつか届くはず」 Ⅰ
初めまして、旅のお方。
こうして巡り逢えたのも何かの縁。ちょっとこの世界-クロノヴィティア-の歴史をお話しいたしましょう。
……興味がない? でも、そちらの故郷には「百聞は一見に如かず」なる言葉があるのでしょう?
え? どんな話かって? そうですね、一言で表すなら……
テセウスの船、でしょうか。
狭い石造りの部屋に満ちるのは、とても甘い香りだ。源は美しい器。香が焚かれているのだ。今朝、フィーディが取りに行ってくれた。この集落は、未婚の少女は出歩けないからと。
フィーディもまた、未婚の少女だというのに。それも、最近来てくれたばかりの奴隷の身でありながら。
その香をはさんで、イブはフィーディと向かい合う。二人で持つ布は、さっき完成したばかりの織物だ。こうやって香りを吸わせて、世界に一つだけの花嫁衣装をつくる。
イブが捧げるは祈りの言葉。
「——愛を司りし女神よ。あなたが結んでくださる縁は、時を超え、距離を超えて、最も美しい瞬間に私たちを巡り合わせる極上の奇跡です。まだ見ぬその人もまた、私と同じように、愛を育み、いつか出逢う日のために魂を磨いている最中なのでしょう。別々の道を歩み、異なる景色を見て育つ時間は、いつの日か二人で交わす物語を、より豊かで愛おしいものにするための尊い準備期間なのだと——」
布の向こうでフィーディも
「——あぁ、大いなる自然の守護者たちよ。我が祈り、我が願い、そして我が捧ぐ感謝の念を受け取り給え。この地を満たす香煙とともに、我が言葉を天へ、そして地の底へと届けたまえ。相容れぬ小さきものを我らの世界から遠ざけ、ただ平穏を、ただ豊かな実りを、この場所に残したまえ……あぁ、目に見えぬ偉大なる力よ——」
くりかえし、別の神への祈りをそらんじている。
祈りに、暗唱に、香の煙に、布はやわらかく、はためきふくらむ。
とても美しい布だ。純白の布地に、色彩ゆたかな文様を織り込んだ。
金の幾何学。
銀の花。
赤い果実。
青い鳥。
緑の蔦。
ほころびも、少しの乱れもない。
それを、折り目のつかないよう広げて煙にくべる。
「——香の香りがこの衣装の隅々にまで満ちたように、あなたの永遠の祝福が、私たちのこれからの人生の隅々にまで満ち渡りますように。大いなる愛の女神よ、どうぞ私たちの誓いを受け入れ、未来永劫守り導いてください」
「——我が祈り、我が願い、そして我が捧ぐ感謝の念を受け取り給え。この地を満たす香え……あ、もう終わりました?」
口を閉じたイブに、フィーディの声が明るくなる。表情も口調も、すっかり元通りだ。それだけで部屋全体が明るくなったように思えるから不思議である。
「ええ、ありがとうフィーディ。お疲れ様」
「全然いいですよ! ってか今日で七回目ですよイブ様。私にお礼を言うの」
持っていた端をイブの手元にわたし、フィーディは片手を軽く振った。
「いーんですか、私なんかに感謝しちゃって」
「もちろんよ。だって」
布をたたむ手を止め、イブは部屋を見渡す。
二人の他には、年季の入った機織り機。
冷たく固い石のベッドと、申し訳程度に置かれた毛布。
簡単な造りの机と椅子。
衣装箱。花嫁衣装のための箱は、もちろん他とは一線を画している。
灯りなど、今の時間は陽光だけだ。それだって窓ははるか高くて、この時間なんて今にも沈みそうな西日である。
二人の会話がとぎれれば、声は聞こえようもない。足音すら響かないのだから。他に音といえば、風と鳴き声と羽音くらいなものだろう。
だからイブは、まっすぐに伝えることができる。
「フィーディがいてくれるから、私は色々なことができるんだもの。例えば、花嫁衣装の布に香を焚きつけたり」
「それはそう……ですけど」
また、フィーディの顔から明るさが消えた。顔をそらして、目を伏せて、口をまげて。
「結婚、なんて。誰もイブ様のことなんか考えてない……アダム様の御顔すら、あなたは……っ」
烈しい訴え。それでいて、どこか鋭い。
イブもまた、鋭く息をのんだ。
気圧されたから——ではない。
「アダム……?」
おぼつかない声で名前をなぞる。
目の前で、フィーディの目が分かりやすく見開かれた。
「まさ、か」
ふるえを隠しきれてない。
それでも、フィーディは一度言いかけた言葉を引っ込めるような人じゃない。
「ご存じ、なかった……? アダム様を……?」
甘いだけの香りが、未だに部屋を支配している。
ふわり、イブは布を置いた。銀で飾られた衣装箱の中に、だ。銀がむき出しの肌に触れては、冷たさがイブを刺す。
「そんなことないわ。彼は裁きの神殿の神官で……私が知らなかったのは、婚約者がアダム神官ということだけよ」
衣装箱の蓋は冷たい。それでもイブはゆっくりと、それでいて羽虫が入らないうちに箱を閉じる。留め金をかける音が重々しく響いた。
「けど、教えてくれてありがとう。裁きの神殿で聞いたのね」
「そ、そうですっ」
食い気味なフィーディの返事を聞きながら、イブは香炉を持ち上げる。移動先は机の上だ。もちろん音を立てるなど、もってのほか。これは愛の女神の神殿から貸し出されたものなのだから。火を消すのだって、手であおぐのが作法。それくらい大切なものである。
「いやだって、知らなかったとか思わないし……じゃなくて、ここの結婚なんでこんな理不尽なんですか」
変な方を向いて独り言を言っていたフィーディが、イブの方を向いてぼやく。
「香とか絶対いらないでしょう。見てくださいよ、羽虫がこんなに。なに燃やしたんですか」
「なにって、愛の女神の香よ」
それとも、聞きたいのは香の製法だろうか。ここで生まれ育った者、とりわけ神官長を親に持つほどの者なら暗唱できるほどだ。でもフィーディは違う。違う文化圏から連れてこられたばかりなのだから。
少し考えて、イブは伝えることにした。教えられるものは教えておきたい。
「神殿の聖樹からいただいた果実の皮に、蜂蜜を塗るの。なんといっても、その蜂蜜は」
「いや、それ生ゴミですよね」
しかめ面を通り越した、とても言い表せない顔。そんな顔でフィーディは香炉に視線を向けた。
「そんなの燃やしてるから虫が寄るんですよ。ほら」
「それは」
とっさに何か言おうとして——けれど、荒ぶる声は弱々しい吐息に変わる。
「ごめんなさい」
こぼれたのは謝罪の言葉だ。イブが言えることなど、それ以外にありはしない。
フィーディの眉がわずかに動いた。
「——それは、何に対しての謝罪ですか」
激情。
今までのどの言葉よりも熱いものを、フィーディは隠しきれていない。
イブの肩が強張り、けれどふるえる瞳は逃げようとしない。渦巻く激情を、正面から受け止める。
「ここの兵士たちだから。あなたの故郷を、滅ぼしたのは」
神へ捧げるため、とか。
人の住む地、その可能性を広げるため、とか。
大義名分はいつだって勝手だ。
どんな綺麗事を並べようと、戦えば誰かが血を流す。
命を落とす。
そして生きている人間すら、尊厳を奪われる。
奪われる。
土地も、財産も、権利も、文化も、信仰も。そうやって、
「私たちの世界を、押しつけている」
そうやって、フィーディたちが持つすべてを殺していた。
紫交じりの赤い夕陽が部屋を照らす。いくら香りがよくとも、火を消したばかりの香炉は虫には熱すぎたのだろう。すきまから逃げていく。
羽虫だって、自分の進む先は自分で選べるというのに。
何も言えなくなるイブの耳に、手を叩く音が聞こえた。
「私は自分で選びましたけどね。選んで、イブ様の傍付きなんです」
いつもと、なにひとつ変わらない声だ。軽口みたいで、主というより馴染みの人と話しているみたいな。
だから、体の奥が熱くなって——その熱が、イブの心を突き刺す。
そんな親愛を向けてもらえるような身じゃないというのに。しかも、フィーディもそれを分かっているはずなのだ。
黙り込んだイブの手を、フィーディはやわらかく握る。分厚く、手のひらが固い手だ。
「そろそろ行きましょう。夕食準備に遅れちゃいます」




