第一章 テセウスの罪状 第三幕 二人だけの
やっぱり、頼れる人はフィーディしかいない。
だって、フィーディ以外に頼らせてくれる人なんて。
ほんとうに、豊穣の祭りだけは特別な日だ。イブですら屋敷の外に出ていいのだから。
次の朝になれば、もう自由なんてない。
家事の監督。
奴隷のみなさんへ指示を出す。
いつもどおり断られる。
特別なことなんてない。
今だって洗濯場で、ほとんどの奴隷は手持無沙汰だ。もう、誰もが自分の仕事を終わらせている。
なのにいまだ手洗いを続けるイブを手伝わない、これはいい。
この布を洗うのはイブの成すべきことで、手伝わせていいとしたらフィーディだけなのだから。そのフィーディは水を運んでくれている。
離れたところで奴隷が遊んでて、それを母も叱ろうとしない。
当然だ。
あの人たちは洗濯など、祈るだけで終わらせられる。それが「普通」で、イブだっていつも真っ先に祈っている。
なのに——
冷たくぬれたイブの指先に、乾いた風が容赦なく吹きつけた。耳に届くのは笑い声と、「家畜」という言葉。
風上の奴隷たちに視線をやって、フィーディが顔をしかめた。けれどイブのほうへ顔を戻したときには、その瞳はやわらいでいる。
「お気になさらないでくださいね」
「……ええ」
ほとんどため息みたいな声がイブから洩れる。
白く濁る水面は、ぬらぬらと光沢を浮かべていた。
純潔の女神の神殿で配られる石鹸だ。香に似た香りが、今はうっとうしく感じてしまう。
こんなの、他の人は年に一度使うくらいだろう。純潔の女神の神殿での装束だって、季節が変わる前にしか使わない。
だから、あんなふうに
「もったいない」
なんて言われるのは仕方ないことなのだ。
せめて、とイブはやわらかく揉み洗う。
繊維ひとつにすら、引っかけてはいけない。
変なシワがつかないようにしないと。
白いから色落ちの心配はないだろうが、そのぶん色うつりには注意しなくては。気を失っていたとはいえ、恩を受けたのは事実なのだから。
乾いたのは西日になる少し前。ほつれも、シワも、色うつりもなかった。そのことにイブは胸をなでおろす。
返しに行ってくれるのはフィーディ。イブは帰りを待つ間、ただ帳簿をつけることしか許されない。
今回は「家の外」に関わる帳簿だ。母親がつけるのは「家の中」の帳簿。前回イブが記録したぶんは、もう添削済みだろう。
この屋敷の帳簿は今日で終わりか、それとも最後に「家の中」のを一回だけつけるか。もっとも、それを決める権利などイブは持ち合わせてないのだが。
母の書斎の中、文字を記す音がバラバラに響く。他の音といえば風の音と、せわしない足音くらいだろうか。寒いのに、部屋の外では奴隷のみなさんが今も屋敷を守ってくれている。
離れたテーブルで、ふと母が手を止めた。つられて顔を上げるイブにめずらしく視線を合わせ、彼女はペンを置く。
「巣立ちの儀式のことだけれど」
感情のみえない声にイブの息が、わずかに止まった。そんな娘を見る眼光は鋭い。
「私が袋に詰めておくわ。隠しても無駄よ」
「——それで、なんて返したんですか?」
帰ってきたフィーディがイブをのぞき込んだ。その両頬はいつもより赤い。
もう太陽は沈んで、けれど星も月も輝き始めないくらいの時間だ。それでも廊下はうっすら明るい。壁をかざる灯火のおかげで、転ぶ心配すらないのである。
「『私物など、糸の余りくらいしかございません』って」
あのとき、声はふるえないように取り繕った。あとは瞳がゆらがなかったことを祈るだけだ。
あの杯は、イブが初めて自由に選んだものだから。……奪われたく、ない。
「……納得、してくれるといいけど」
「大丈夫ですって!」
明るく言い放ち、すぐにフィーディは声をひそめる。
「だって上手に隠しましたもん、絶対バレませんよ奥様にはっ」
廊下に人影なんてない。調理場に近づいているとはいえ、まだイブの部屋の近くなのだ。こんな時間にうろつく人など、イブとフィーディ以外にいはしない。
それに——それに、もう「家畜」という言葉は屋敷中にすら広まっているのだから。誰が、仕事でもないのに家畜の飼育部屋になど
「ありがとう」
早口で感謝して、イブは目を泳がせる。彷徨わせて、たどり着くのは小窓の空。
嫌な感情を追い払うように、同じく早口で切り替える。
「っそういえば、ずいぶん遅かったのね」
鳥も虫も寝静まっている、というのはこの時期いつものことだ。冬でも動く命など人間か、それこそ家畜くらいしかいやしない。
そうではなく、あの空。
今にも星が見えそうだ。それとも、もう星も月も輝いているのだろうか。あの小さな四角からは見えないだけで。
見上げるイブに、フィーディは「あぁ、はい」と声を返す。
「えっと、神官様にご挨拶申し上げて。あ、もちろん伝言もお伝えしましたよ。それで、気づいたら暗くなってて」
「……そうだったの」
耳を澄ませば風の音。
この屋敷でさえ肌寒さを感じるのだ。いったい、外はどれほど寒かったというのだろう。
静かに手をつなげば、フィーディの指先は冷たい。
きっと寒かったせいだ。この冷たさも、頬の赤みもすべて。
「ごめんなさいね、寒い中歩かせてしまって……それも、こんなに暗いのに」
「いいんですって。好きでやってることなんですから」
気兼ねない返事。
だからこそ、イブは気兼ねしてしまう。
安全で、明るくて、風も吹かない場所にイブはいた。椅子に座って、ただ記帳するだけの作業をするだけで。
なのに、その間フィーディがいたのは。
危険で、暗くて、風が吹く道中。冬の夜道なんか、下手に歩いたら命ごと凍りついてしまうのに。
冥界神に魅入られなかったからよかったようなものの。
安堵と、それを隠して余りある自責の念。奴隷でないなら、女は外を出歩けない? そんなの、言い訳にもなりはしない。だって、同じ人間なのだから。
なのに、伝統に反抗することすらできないで。
静かにイブは目を伏せる。
「私が、行ければ……。……私が、代わって」
言葉は、最後まで続かなかった。
フィーディが抱きしめたからだ。
「イブ様あったかい……じゃなくてっ」
誰よりも信じられる声がイブの耳元でとろけ、すぐに芯を取り戻した。
「私は選んで、イブ様の傍付きなんです」
脳をゆさぶる。
「あなたは私にとって、誰よりも大切な方で——だから、あなたが結婚しても傍にいます。いさせて、ください」
囁くフィーディの体はどこか冷たい。けれど、服ごしに伝わるのは確かな鼓動。
それはきっと、どんな神様より尊い光で————けれど同時に深い影。
イブの祈りは届いたことなどない。
蔑まれて、邪険にされる役立たず。できそうなことなど、神官長の血をつなぐことくらい。しかも、その大役が務まるかどうか。
ついには、奴隷のみなさんまで「家畜」と裏で呼ぶ始末。
ふるえる口が、ようやく意味のある言葉を結ぶ。
「いいの……? 私、なんかで」
返事より先に来たのは力。
抱きしめる力は強まって、けれどイブを痛めつけない。
「あなただから、いいんです。自分の未来は自分で決める……少なくとも、私は故郷の誇りを失ってなどいませんよ」
————嘘だ、そう突き放せたら。
けれどイブの脳裏に浮かぶのは、今までの記憶だ。
祈れども届かない。
蔑まれて、時にいない者とされた。
独りで泣いた夜は幾千だったろう。
それでも、隣に寄り添ってくれた。
いつも助けてくれる、たった一人の——————
気づけば、イブはしがみついていた。
静かな廊下。
夜の寒さ。
響くのは産声に似た、一人の泣き声。




