第五十五話
王都の喧騒が深い眠りに落ちた深夜。救護施設の窓から、一人の影が音もなく滑り出した。ユーは自身の右腕を強く抱え、内側から焼かれるような痛みを堪えてギルドの厩舎へと向かう。
厩舎の隅、一頭の黒馬が、主の放つただならぬ気配を察して小さく鼻を鳴らした。
(……済まない。少しの間、付き合ってくれ)
手綱を引き、眠る兵士たちの目を盗んで王都の裏門を抜ける。門を離れ、街の明かりが届かなくなったところで、ユーは初めて馬の腹を強く蹴った。
夜の街道に、孤独な蹄の音が響き渡る。懐のポーチでは、これまで回収してきた複数の『紫の結晶』が、かつてないほど禍々しく脈動していた。それに呼応するように、右腕から侵食を始めた「魔」の力が、ユーの肉体の感覚を異様なまでに研ぎ澄ませていく。
道中、森の奥から分身体たちの微弱な気配は感じられた。だが、北の空から漂ってくる「それ」は、分身体とは比較にならないほど巨大で冷徹な、いわば全ての「源流」といえる圧倒的な圧を放っている。
(結晶の共鳴がこれほど強まるのは、奴が……フェルゼン本体が近い証拠だ。間違いない、あそこにいる)
右目が見せたあの不気味な白亜の洋館。そこへ至る道筋を、研ぎ澄まされた直感と結晶の震えが、暗闇の中の灯火を辿るように正確に指し示していた。
冷たい夜風が頬を叩く。振り返れば、リアナやカッセルたちの顔が浮かび、決意が鈍る。だからユーは一度も後ろを見なかった。
一族を、家族を焼き尽くしたあの男。その喉元に届くことだけが、今のユーを突き動かす唯一の鼓動だった。
数時間が経過し、夜明け前の深い闇が周囲を包む頃。馬の息が荒くなり、街道の先に、右目が映し出したあのシルエットが姿を現した。王族の静養地であった「森の廃墟」。
かつては美しかったであろう白亜の洋館は、今や蔦に覆われ、死者の城のような静寂を湛えている。
「……着いたな。ここまでありがとう」
ユーは馬を下り、その首を優しく叩いて解き放った。
一歩、敷地へと足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような生理的な嫌悪感が全身を貫く。結晶は砕け散らんばかりに鳴動し、鋭敏化した五感が叫んでいた。
ユーは深く息を吐き、視線を上げた。蔦の絡まる洋館のテラス。そこで月光を背に、優雅に佇む男の姿を捉える。
「……暢気なものだな」
絞り出すようなユーの声は、もはや少年の瑞々しさを失い、地を負うような重苦しさを孕んでいた。一歩、また一歩。
瓦礫を血の滲むような足取りで踏みしめ、彼は庭園の奥へと進む。
その背後、遥か遠方の街道では、三騎の軍馬が馬を使い潰さんばかりの勢いで走らせているカッセル、カイル、リアナ。ユーが残したわずかな足跡と、闇を切り裂くような殺気の残滓を追い、彼らもまた死力を尽くしていた。




