第四十六話
泥の中に沈み物言わぬ人形となったユー。
その無防備な背中へ、恐怖を塗りつぶすような殺意を滾らせた武猿が、巨大な爪を振り上げる。
だが、武猿は気づいていなかった。
「──させないッ!!」
リアナの鋭い怒号と共に、一本の矢が静寂を切り裂いた。
ユーの至近距離まで迫っていた武猿の右腕。その肘の関節を、リアナの放った水耀の青き光を纏った矢が正確無比に射抜く。
「ガ、アッ……!?」
不意の衝撃に武猿の体勢が大きく崩れる。
ユーへの恐怖に囚われ、周囲への警戒を完全に怠っていた武猿の、致命的な隙。
「ぜってぇ、逃がさねぇぞ!」
踏み込んだのはカイルだった。
愛用の戦斧を深々と地面に叩きつけ、逃げ場を塞ぐように武猿の足を強引に薙ぎ払う。巨躯がバランスを崩し、大きくよろめいた。
そこへ、満身創痍の体を引きずり出したカッセルが、地を這うような低さから大剣を担ぎ上げた。
「頑張ったなユー。……お前は最高の弟子だ」
カッセルの大剣に、これまでにない密度の耀気が集束していく。
その重厚な刀身が、白く激しい光を放った。全霊を込めた斬撃。
咆哮と共に振り下ろされた大剣で、武猿の胴体を真正面から断ち切った。
武猿の巨躯は左右に真っ二つに分かたれ、その断面から赤黒い肉を晒して絶命した。
────しかし。
本来、寄生魔獣である『赤蝕』は、宿主が死ねばその生命供給を絶たれ、同時に死滅する運命にある。だが、この個体は違った。
「なっ……何だ、あれはッ!?」
カイルが声を荒らげる。
真っ二つになった武猿の断面から這い出したのは、赤黒い粘液が人の形を成した、おぞましい「何か」だった。
粘液状の頭部には、鼻も耳もない。ただ、顔の半分を占めるほど巨大な単眼と、耳まで裂けた異様に大きな口だけであった。
「ギ……ギギ……ッ!」
その巨大な目が、気絶したユーを凝視し、瞳孔を激しく見開いた。同時に、裂けた口が震え、およそ生物のものとは思えない耳障りな声を漏らす。
「フェルゼン様ガ探シテイタ『魔の力』……ッ!」
怪物は、その巨大な口を歪ませ、焦燥を剥き出しにした。主への報告という使命感だけに突き動かされるように、粘液の体を波打たせ、一心不乱に森の奥へと走り出す。
「伝エナキャ……ッ! 今スグ、フェルゼン様ニ、コノ事ヲ……ッ!!」
ズルリ、ズルリと、木々の隙間を赤黒い跡を残しながら高速で滑り抜けていく。背後のカッセルたちを一度も振り返ることなく、その異形は深い闇の中へと消えていった。
「待ちやがれッ……!」
カイルが戦斧を手に追おうとするが、激戦でボロボロになった足がもつれ、その場に崩れ落ちる。リアナも弓を構えるが、指先の震えが止まらず、矢を番えることすら叶わなかった。
誰も、その影を追うことはできない。静まり返った森の中で、カッセルは逃げ去る赤黒い影を忌々しげに睨みつけたあと、すぐに視線を足元の弟子へと落とした。
「ユー……!」
三人はボロボロの体を引きずりながら、泥の中に沈んだユーへと駆け寄る。激闘の終わり。しかしそれは、フェルゼンという巨大な厄災がユーを明確な「標的」と定めることとなる。新たな逃れられぬ宿命の始まりでもあった。




