第四十四話
(すべてを……この一点に……ッ!!)
混濁する意識のなか、ユーの思考が過去へと飛んだ。
──────
「師匠……崩化現象の訓練をしたいんだが、どうすればいい?」
ユーは目の前の師である男に問う。弟子の問に面倒そうに鼻を鳴らすカッセル。
「『矛』と『盾』の耀気操作……使い分けがが難しい。理屈はわかるが、同時にやるとなると脳の処理が間に合わない。失敗すれば腕が吹き飛ぶし、耀石も値が張るし、壊すのがもったいない」
「あー、はいはい。じゃ、ほれ、これを使え」
師匠が放り投げたのは、鈍く光る黒い石——『夜月耀石』だった。
「……夜月耀。これ魔獣の生命エネルギーに近すぎて、人間の耀気がほとんど流れない。誰も欲しがらないし、使い道も価値もないって言ってなかった?」
「だからいいんだよ。流れにくい石に、無理やり耀気を流し込む。いい訓練になるじゃねぇか。属性エネルギーや白日耀石のような耀気に作用するエネルギーがねぇから失敗しても耀気爆発もしねぇ。てめぇがどれだけ遊んでも、壊れねぇから危なくないしよ」
師匠は笑っていた。
「もしこれを壊せるぐらいの耀気を込められるんなら……。その時は、崩化の速度も精度も、完璧……いやそれ以上だな。まずできる奴はいないし、出来たとこであんまり意味がないけどな」
──────
現在。武猿の巨大な拳が、ユーの頭上から死の重圧となって迫っていた。
ユーは、無意識に、無闇に泥にまみれた夜月耀石を握りつぶす。
それはかつて師匠から「壊れやしねぇから、存分に遊んどけ」と笑って渡された、あの練習用の屑石だった。
拒絶。反発。人としての耀気を、魔獣の性質に近いその石に亀裂を生じさせることはなかった。
───だが。
パキンッ。
ありえない音がした。
「壊れやしねぇ」とカッセルに笑われた夜月耀石が、ユーの耀気の膨大な圧力に耐えかね、ついに悲鳴を上げた。
するとドクンとユーの心臓が、これまで一度も打ったことのないような「重い鼓動」を刻む。
砕け散った夜月耀石から溢れ出したのは、あの炎のような光ではなかった。
ユーの右手に纏われる禍々しい「黒い靄」が立ち昇った。
それは、彼が狩ってきた『黒霧魔獣』が纏う色、そのものだった。
「…………ッ!?」
トドメを刺そうと拳を振り下ろしていた武猿が、凍りついたように動きを止めた。警戒ですらない。それは、捕食者が自分以上の「何か」を前にしたときの本能的な忌避感だった。
武猿は、獲物を仕留め損なうことなど意に介さず、バネのように後方へ跳んだ。一歩、二歩。さらに、三歩。土煙を上げながら距離を取るその姿には、先ほどまでの余裕など微塵もない。
「…………ッ、ガッ……」
武猿は牙を剥き出しにし、低く唸り声を上げる。眼前の少年は、いまだ泥の中に伏している。瀕死であることに変わりはないはずだ。
「ウ、ガァァッ……!」
武猿の唸りに、困惑が混じる。逃げるべきか、それともこの不気味な種火を今すぐ消し去るべきか。絶対的な強者であったはずの獣が今、一人の少年の「変化」に完全に呑まれていた。
「ギ……ィ、ガアッ!」
武猿は自らの太ももを鋭い爪で引き裂く。傷口から溢れ出した寄生魔獣『赤蝕』の粘液は、ユーへと伸びる軌道の途中で黒く硬質化し、一本の槍となってその心臓を貫かんと放たれた。
泥の中に伏したまま、ユーは震える右手をその槍へと伸ばした。指先が触れた瞬間、硬質化した槍はドロリと元の粘液状へと戻り、赤黒い界面で、バチバチと赤い静電気にも似た不気味な放電が走った。
その刹那、ユーの脳内に「声」が響く。
聞いたこともない、知らない優しいしかし温度を感じさせないそんな女性の声だ。
『繋がりましたね……。長くは話せませんので端的に。きっかけを与えましょう。あなたの中でそれが芽吹くことを期待しております。その力、上手く使ってくださいね。それは私からの……』
途切れるようにしてその声は聞こえなくなった。
直後、右手の黒い靄はさらに密度を増し、それまでとは一線を画す、圧倒的な圧を放つ「黒いオーラ」へと昇華した。
それは重く、ゆったりと輪郭を崩しながらゆらめく黒の奔流。周囲の光を飲み込み、風の音さえも吸い込まれていくかのような静寂を纏っていた。
ゆらり、とゆっくりユーが立ち上がる。
泥にまみれた体。
しかし、その右目は、真紅に輝く美しい瞳となって光を放っていた。
武猿は震え、ただ圧倒されるしかなかった。ユーは静かに、だが確かな殺意を込めて告げた。
「……決着をつけよう」




