第四話
どれほど走り続けただろうか。肺は焼けるように熱く、喉からは血の味がした。薄い麻の服はとうに湿り、感覚を失ったユーの足元はもつれ、ついに深い雪の中に倒れ込んだ。
振り返った空は、不気味な赤。里を包む炎と、空高く舞い上がった灰。
父親の咆哮、母親と妹を飲み込んだあの忌まわしい赤い粘液。すべてが現実感を欠いた悪夢のように頭を巡る。
「あ……、あぁ……ッ……」
雪を掴む指先が凍えていく。
このまま眠れば、すべてから解放されるかもしれない。ユーが意識を手放そうとした、その時だった。
「おいおい、こんな雪山で寝ちまったら、明日の朝には立派な氷細工の完成だぞ? 芸術点は高そうだが、俺の好みじゃねえな」
夜気を震わせるような、低く、それでいてどこか軽妙な声が響いた。
ユーが重い瞼を持ち上げると、そこには岩山のような大男が立っていた。魔獣の皮を繋ぎ合わせた重厚なロングコートを翻し、男は悠然と佇んでいる。
鋼色の短髪に、左頬を無造作に走る三筋の深い爪痕。猛禽を思わせる琥珀色の瞳が、面白そうにユーを覗き込んでいた。男が不敵に笑うと、安酒と強い煙草の匂いがふわりと漂う。
「……だれ、ですか……」
「ただの通りすがりの旅人。カッセルさんだ。最近、王都で妙な噂が流れていてな。金になりそうだから物見遊山に来てみたわけだが……」
カッセルは背負った大剣の柄に手をかけた。その視線が、ユーの背後の闇を射抜く。
森の奥から、ずるりと赤い粘液を滴らせた「追手」たちが姿を現した。
「ヒッ……!」
「おっと、お喋りの邪魔が入ったか」
カッセルが動いた。その巨体からは想像もつかない速さで大剣が引き抜かれる。
刹那、剣身から鮮烈な赤い光が溢れ出した。
「はっはぁ! 塵も残さず燃え尽きな!」
豪快な笑い声と共に振り下ろされた一撃は、カッセル自身の耀気を熱量へと変換した『火耀』の斬撃だった。
赤い閃光は、化け物たちを粘液ごと焼き切り、爆炎の中に呑み込んでいく。悲鳴を上げる間もなく、敵は黒い灰へと変わり、夜の闇に消えた。
カッセルは、熱気を帯びた大剣を無造作に肩に担ぎ直し、驚愕に目を見開くユーに向き直った。
「さて、命拾いしたな。……で? いつまでそうして地面と仲良くしてるつもりだ?」
「……待ってください」
ユーは震える手で、カッセルのコートの裾を掴んだ。
「父さん……母さんと、ミーナが……まだ里にいるんです! お願いです、助けてください! あなたのその力なら、二人を……家族を救えるはずだ!」
雪に額を擦り付けるようにして懇願するユーに、カッセルは熱を帯びた大剣を肩に担ぎ直し、冷徹な、しかしどこか憐れみを込めた声を投げた。
「……小僧。あの粘液に呑まれた連中を、一人でも見たか? ……既に中身はとっくに喰わちまってるよ」
その言葉は、父が残した「必ず助け出す」という最後の希望を無慈悲に打ち砕いた。
父は知っていたのだ。もう助からないことを。それでも自分を逃がすために、あの優しい嘘をついたのだ。
ユーは絶望に顔を歪め、雪を血が滲むほど握りしめた。
「……なら、せめて……あいつを、殺したい」
ユーは震える足で、カッセルの放つ圧倒的な覇気に抗うように立ち上がった。
「家族を奪った……あのフェルゼンを、この手で!!」
少年の瞳には、絶望を焼き尽くすほどの復讐の炎が宿っていた。それを見たカッセルは、獰猛に口角を上げた。
「お前もあのヴェルライトの一族だな。事情はだいたい察したぜ。だが、あのターゲットは相当手強いぞ?」
カッセルは一度だけ里の方角を睨み、それからユーに背を向けた。
「いいだろう、話は聞いてやる。……死にたくなきゃ、ついてきな」
夜明け前の雪原。
カッセルの大きな背中を、少年は必死に追い始めた。




