第三十話
深い断崖の底。切り立った岩壁が音という音をすべて吸い込むその場所には、耳が痛くなるほどの「静寂」が横たわっていた。
十三歳のユーは、冷たい水源に膝をつき、水瓶を沈める。
──コボボ、ボ……。
空気が抜ける微かな音さえ、この無音の世界では脳を揺らす大音量となって響いた。
ふわり、と鼻腔を掠めたのは、生臭い鉄の匂い。
「──っ!?」
背筋を駆け抜ける、氷のような悪寒。
振り返るより早く、水面に影が落ちた。
それは、巨大な熊の輪郭をしていた。『剛爪巨熊』。
焦点の合わない眼球に、剥き出しの牙からは糸を引く唾液がダラダラと垂れ流されている。
さらに異様なのは、その背だ。盛り上がった背肉は割り裂かれ、赤く濁った粘液状の複数の触手が、陽炎のようにゆらゆらと蠢いている。
本来なら冬眠の眠りにあるはずの巨躯は、未知の寄生体によって脳まで蹂躙され、無理やりこの場に引きずり出されているようだった。
「……なっ、コイツ……ッ!?」
ユーは動揺に立ち尽くす。
目の前の化け物は、あの日、里の皆を、家族の命を無残にも奪った――あの絶望的な夜に感じた悍ましい気配そのものを纏っていたからだ。
「おいッ! 来るぞ! 下がってろとは言わねぇ──てめぇの身はてめぇで守りな!」
カッセルの怒号と共に、周囲の凍てついた空気は一変した。
彼が担ぐ大剣が「転化」によって赤き耀気を放ち、「昇化」によって吹き上がる爆炎へと姿を変える。
「ガ、アァァァッ!」
魔獣が咆哮し、五本の剛爪を振り下ろす。カッセルはそれを紙一重の回避でいなすと、流れるような動作で重厚な大剣を真っ向から叩きつけた。ズンッ、と重い衝撃が走り、魔獣の体勢が大きく崩れる。
「──ふっ!」
ユーが地を蹴る。耀気を凝縮した渾身の拳を、がら空きになった魔獣の胸元へ叩き込んだ。──だが。
(効いてない……!? コイツ、痛覚がないのかッ!?)
手応えは、泥の中に腕を突っ込んだような不快な沈み込みだった。耀気を込めた衝撃は、表面を覆う粘液の層へと拡散し、容易く無効化されてしまう。
反撃の爪がユーの首を刈り取る寸前、炎を纏った大剣が割り込み、魔獣の頭部を一閃した。
ジュウ、と肉が焼ける嫌な音と共に、頭部を失った魔獣が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。背肉から生えていた触手も、熱に焼かれて蒸発していった。
泥だらけの拳を見つめ、肩を落とすユーに、カッセルが歩み寄る。
「赤蝕魔獣。ここ数年前から姿を現した新種の寄生型魔獣──コイツに乗っ取られた哀れな成れの果てだ。赤蝕魔獣を倒すには、中にある『核』を直接叩き潰すか、宿主の命を丸ごと絶たねぇ限り、このドロドロは死なねぇ。コイツは触手も使ってこなかったし、寄生されて日が短かったのかもな」
「赤蝕魔獣……。俺の攻撃が、まるで……効いてなかった」
顔を背けるユーの頭を、カッセルは大きな掌で無造作に、ポンと叩いた。
「ま、そう落ち込むな。動きもタイミングも悪くねぇ。ただ、相手が悪かっただけだ。お前は確実に強くなってるぜ。自信持て」
カッセルは熊の死体を無造作に探り、「あったあった」と粘液まみれのある物を引っ張り出した。
それは歪な多面体で、アメジストをより濃く、暗くしたような深紫色であった。
「ほれ、これが核だ。直接壊すのは骨だが、宿主を殺せばこうして取り出せる。実はな、俺も前に一つ手に入れててよ」
カッセルが懐から別の似たような結晶を取り出し、二つを近づける。
──ガチィィン!
磁石のように引き合い、連結した二つの石は、不気味な脈動を始めた。
「お前の里が襲われた時、こいつがすげぇ熱を持って暴れ出したんだ。もし、こいつが赤蝕魔獣だけでなく、フェルゼン本体に惹かれ合う『道標』だとしたら……」
「……っ! これを、これを集めていけば、あいつに辿り着けるのかッ!」
先ほどまでの落胆は霧散し、ユーは身を乗り出して結晶を凝視した。
核を傷つけずに手に入れる。それが、仇へと続く地獄への案内状だ。
「やってやる……。これを集めて、必ずあいつを見つけ出す!」
拳を握りしめ、鼻息荒く宣言するユーを見て、カッセルはやれやれと首を振る。
「落ち込んだり、意気込んだり、忙しい奴だな……。ま、元気が一番だ」
カッセルは呆れ顔で笑みを浮かべた。
手元で脈動する紫の結晶。それはユーにはまだ見えない。だが、復讐という名の長い旅路が、今、明確な一本の「線」となった瞬間だった。




