表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の声  作者: 霜月希侑
PR
7/8

声の行方


 人は、生きている限り、何度でも声を失う。


 そして、そのたびに、もう一度見つけなければならない。


 自分の、本当の声を。


     


 夜勤明けの病棟は、不思議なくらい静かだった。


 点滴ポンプの電子音だけが、一定の間隔で鳴り続けている。


 私はナースステーションの椅子に腰を下ろし、ぼんやりとモニターを眺めていた。


 山田修司さんが亡くなってから、もう何週間が経っただろう。


 桃香の死。


 試薬B―3。


 林医師。


 亮太。


 盗難事件。


 それぞれが一本の糸になりかけているのに、最後の結び目だけが見つからない。


 考えれば考えるほど、息が詰まる。


「由香、大丈夫?」


 振り返ると、中林彩乃先輩が紙コップのコーヒーを差し出していた。


「顔色、ひどいよ」


「……すみません」


「謝らなくていい」


 その一言が、不思議なくらい胸に染みた。


 私は誰かに心配されることに慣れていなかった。


 いつも「大丈夫」と笑う側だったから。


     


 子どもの頃から、私は断ることが苦手だった。


 ――暑い夏の日。


 駅の待合室。


「由香、アイス買ってきて」


 友達は笑って言った。


 誰も悪気なんてない。


 だからこそ断れなかった。


 炎天下を一人で歩きながら、


「どうして私だけ」


 何度もそう思った。


 それでも口には出せない。


 嫌われるのが怖かった。


 仲間外れになるのが怖かった。


 誰かが嫌な役をやるくらいなら、自分がやればいい。


 その方が楽だと信じていた。


 その癖は、大人になっても変わらなかった。


 祖母には逆らえなかった。


 患者にも、先輩にも、自分の本音を言えなかった。


 桃香への恋さえ、胸の奥へ閉じ込め続けた。


     


「由香ちゃん」


 中林先輩が静かに言った。


「あなた、全部一人で抱え込もうとしてない?」


 私は何も答えられなかった。


「桃香さんのことも」


「病院のことも」


「林先生のことも」


「全部」


 図星だった。


「一人で何とかしようとするとね」


 先輩はコーヒーを一口飲んで続けた。


「いつか潰れるよ」


 私は苦笑した。


「……もう潰れてるかもしれません」


 先輩は少しだけ笑った。


「そう思えるなら、まだ大丈夫」


 私は思わず顔を上げた。


「本当に壊れた人は、自分が壊れてることにも気付けないから」


     


 その日の午後。


 病棟中に緊張が走った。


「小林さんが田中さんの財布を持っていたらしい」


 噂は瞬く間に広がった。


 私は会議室の前を通りかかった。


 ドアの向こうから、小林さんの泣き声が聞こえる。


「……ごめんなさい……」


 震える声だった。


 師長は静かに言う。


「理由を話して」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて小林さんは、小さく息を吸った。


「私……昔から盗み癖があるんです」


     


 会議は一時間以上続いた。


 誰も責めなかった。


 誰も怒鳴らなかった。


 小林さんは少しずつ、自分の過去を話し始めた。


 新体操。


 交通事故。


 夢を失ったこと。


 過食嘔吐。


 万引き。


 止めたいのに止められなかった衝動。


 話すたびに、小林さんの肩から少しずつ力が抜けていくのが分かった。


 師長は最後まで遮らなかった。


 そして静かに言った。


「小林さん」


「あなたがしたことは許されることじゃない」


 部屋の空気が張りつめる。


「でも」


「あなた自身まで否定するつもりはありません」


 小林さんが顔を上げた。


「治療を受けましょう」


「看護師を辞めるかどうかは、そのあと一緒に考えましょう」


 その瞬間、小林さんは子どものように泣き崩れた。


「……ごめんなさい……」


「もう限界だったんです……」


 私はその姿から目を離せなかった。


 あの涙は、小林さんだけの涙ではない気がした。


 誰にも言えず、自分の心を押し殺してきた人間だけが流せる涙だった。


     


 その夜。


 私は病院の屋上へ上がった。


 夏の風が頬を撫でる。


 桃香なら、こんな時なんて言うだろう。


 そう考えた瞬間、あの日の笑顔が浮かんだ。


「由香はさ、もっと人に頼っていいんだよ」


 高校生の頃。


 池のほとりで、桃香は笑ってそう言った。


 あの時の私は笑ってごまかしただけだった。


 でも今なら、その意味が少しだけ分かる。


 一人で抱えることは、強さじゃない。


 誰かを信じることも、勇気なんだ。


 私はポケットからスマートフォンを取り出した。


 画面には、亮太との面会予定日時が表示されている。


 いよいよ、すべての始まりにいた人物と向き合う時が来た。


 私は深く息を吸い、夜空を見上げた。


 逃げない。


 もう、自分の声からも。

 桃香の声からも。




 亮太から返事が届いたのは、メッセージを送って三日後のことだった。


「少しだけなら話せます」


 たった一文。


 それだけの文章なのに、胸の鼓動が速くなる。


 逃げることもできたはずだ。それでも彼は返信を寄越した。


 何かを話したいのか。


 それとも、誰かに聞いてほしかったのか。


 約束の日。


 私は中林先輩と待ち合わせ場所へ向かった。


 町外れにある、小さな喫茶店だった。


 駅前の賑わいから少し離れた場所にあり、昼間でも店内は静かだった。


 コーヒーの香りだけが漂っている。


 窓際の席に、一人の男性が座っていた。


 亮太だった。


 高校時代とは別人のようだった。


 以前の面影を残しながらも、大幅に痩せた身体はどこか痛々しく、頬はこけ、目の下には深い隈が刻まれていた。


 まるで長い間、眠れていない人の顔だった。


 私たちに気づくと、小さく頭を下げる。


「……今日は、ありがとうございます」


 その声には力がなかった。


 私たちは向かいに座った。


 店員が水を置き、静かに去っていく。


 誰も口を開かなかった。


 時計の秒針だけが、妙に大きく聞こえる。


 私は深呼吸した。


「突然、ご連絡してすみません」


 亮太は首を横に振った。


「……いいんです」


 私はバッグから桃香のノートを取り出した。


 表紙は少し擦り切れ、何度も開かれた跡が残っている。


 亮太の視線が、そのノートに止まった。


「桃香さんの遺品です」


 その瞬間だった。


 亮太の肩が小さく震えた。


「彼女は病院のことを調べていました」


 私はゆっくりと言葉を続ける。


「薬物実験」


「保険金の不正請求」


「そして、林先生」


 亮太は何も言わない。


 ただ視線だけが揺れていた。


「亮太さん」


「あなたは何を知っていますか」


 沈黙。


 店内には静かなジャズが流れている。


 亮太はコーヒーカップを持ち上げたが、一口も飲まないまま元に戻した。


「……兄は」


 ようやく絞り出した声は、かすれていた。


「兄は昔から、家では完璧な人でした」


 彼は遠くを見るような目で続けた。


「勉強もできる」


「運動もできる」


「親にも期待されて」


「俺は、ずっと兄と比べられて育った」


 笑いながら話しているようで、その笑顔は悲しかった。


「何をしても兄には勝てなかった」


「だから……桃香だけは」


 そこで言葉が止まる。


 私は黙って待った。


「桃香だけは、俺のことを見てくれると思った」


 その声は、小さく震えていた。


「兄じゃなくて」


「誰かじゃなくて」


「俺自身を」


 中林先輩が静かに尋ねた。


「だから動画を投稿していたんですね」


 亮太は驚いたように顔を上げた。


「……見たんですか」


「はい」


「恋愛日記。全部」


 亮太は苦笑した。


「恥ずかしいですね…今思えば、本当に子どもでした」


 彼は両手を組み、視線を落とした。


「コメントを読んで」


「告白して」


「プレゼントして」


「ダイエットもした」


「全部、本気だった」


 静かな店内に、その言葉だけが落ちていく。


「でも」


「全部、意味がなかった」


 私は慎重に尋ねた。


「大学で告白した時も?」


 亮太は小さく頷いた。


「『好きな人がいる』って」


「そう言われました」


 彼は苦笑する。


「その時、終わったと思いました」


「何年も頑張って」


「十何キロも痩せて」


「人生を変えるくらい努力したのに」


「全部、一秒で終わった」


 その言葉には、恨みではなく空虚さだけが残っていた。


 私は一つだけ気になっていたことを口にした。


「動画」


「桃香さんが亡くなる一週間前で止まっていますよね」


 亮太の表情が固まった。


 その反応を見て、確信した。


 彼は知っている。


 何かを。


「どうして、投稿をやめたんですか」


 長い沈黙。


 店内の時計が、一分を刻む。


 亮太は唇を噛みしめた。


「……兄から」


 小さな声だった。


「もう動画なんてやめろって」


 私は眉をひそめた。


「林先生に?」


「はい。余計なことを書くなって」


「余計なこと?」


 亮太は俯いたまま答えない。


 その沈黙が、何より雄弁だった。


 私はバッグの中で、スマートフォンの録音ボタンを静かに押した。


 画面は伏せたまま。


 誰にも気づかれないように。


 亮太は、ようやく顔を上げた。


 その目は赤く充血していた。


「……俺。本当は…全部、話したかったんです」


 その一言で、空気が変わった。


 胸の奥がざわつく。


 ここから先は、もう後戻りできない。


 亮太は震える指でコーヒーカップを握りしめ、ゆっくりと口を開いた。


「桃香が病院のことを調べ始めてから……兄は、変わってしまったんです」





 亮太は、震える両手をぎゅっと握り締めた。


 店内にはコーヒーを淹れる音だけが静かに響いている。


 私は何も言わず、彼の次の言葉を待った。


「桃香は……兄のことを調べ始めてから、何度も兄に会いに行っていました。」


 私は息をのんだ。


「兄は最初、相手にしていませんでした。でも、桃香は証拠を持っていた。」


 亮太はゆっくりと言葉を続けた。


「薬品庫の写真。」


「試薬の記録。」


「別管理のファイル。」


「兄は、それを見た瞬間に顔色が変わったんです。」


 私は中林先輩と視線を交わした。


 晴美先生が見つけた証拠と一致する。


「……その話を、どうして知っているんですか」


 私が尋ねると、亮太は苦笑した。


「兄が酔った日に話していました。」


『面倒な女子高生が嗅ぎ回っている』


『証拠を持っている』


『放っておくと厄介だ』


 そう言っていたという。


 その時は意味が分からなかった。


 けれど、桃香から拒絶された後、その言葉だけが何度も頭の中で繰り返された。


「俺は……兄なら何とかしてくれると思っていました。」


 亮太は力なく笑った。


「兄は昔から、何でも解決してきた人だったから。」


 私は静かに尋ねた。


「桃香さんが亡くなる前、会いましたか。」


 亮太は目を閉じた。


「……会いました。」


 その一言で、店内の空気が凍りつく。


「最後に会ったのは、亡くなる数日前です。」


「桃香は俺に言いました。」


『お願いだから、もう私に関わらないで。』


『私はあなたのことを好きにはなれない。』


『これ以上続けるなら、警察にも相談する。』


 亮太は両手で顔を覆った。


「分かっていたんです。」


「終わったって。」


「でも、諦められなかった。」


 その声には怒りではなく、自分自身への嫌悪だけが滲んでいた。


「そのあと兄に相談しました。」


「どうしたらいいか分からないって。」


「兄は何て言ったんですか。」


 亮太は少しだけ間を置いた。


「忘れろ。」


「それだけでした。」


 短い言葉だった。


 けれど、その冷たさは十分に伝わってきた。


「兄は桃香のことじゃなく、自分のことしか考えていませんでした。」


 亮太は机を見つめる。


「桃香が持っている証拠。」


「病院のこと。」


「そればかり気にしていた。」


 私は思わず拳を握った。


 やはり林医師は、自分の不正が明るみに出ることを恐れていたのだ。


 亮太は続けた。


「俺は兄の部屋で、病院の資料を見ました。」


「試薬の名前。」


「患者のデータ。」


「兄は全部持ち帰っていた。」


 中林先輩が静かに尋ねる。


「試薬B―3という名前を聞いたことがありますか。」


 亮太はゆっくり頷いた。


「あります。」


「兄が何度も口にしていました。」


「でも、何に使う薬なのかは教えてくれませんでした。」


 私は胸の鼓動が速くなるのを感じた。


 山田さん。


 桃香。


 二つの出来事が一本の線になろうとしていた。


 亮太は力なく笑った。


「兄は昔から言っていました。」


『結果さえ出れば、過程なんて誰も見ない。』


「医者って、そんなものなのかなって思っていました。」


 その言葉に、私は首を横に振った。


「違います。」


 自然と言葉が出た。


「そんな医師ばかりじゃありません。」


「患者さんのために働いている人もたくさんいます。」


「桃香さんが憧れていた医療も、そういう人たちでした。」


 亮太は何も言わなかった。


 ただ静かに涙を流していた。


 長い沈黙のあと、彼は震える声で言った。


「……俺。」


「もう逃げたくない。」


 その一言は、自分自身に言い聞かせるようだった。


「知っていることは全部話します。」


「警察にも。」


「兄のことも。」


「桃香のことも。」


 私はゆっくり頷いた。


「ありがとうございます。」


 亮太は小さく笑った。


「ありがとうって言われる資格なんてありません。」


「桃香を苦しめたのは俺です。」


「もし、もっと早く諦めていたら。」


「もっと早く兄のおかしさに気付いていたら。」


「こんなことにはならなかった。」


 誰にも答えられない「もし」が、静かに二人の間へ落ちた。


 店を出る頃には、夕暮れが町を茜色に染めていた。


 私はバッグの中のスマートフォンにそっと触れた。


 録音は止めてある。


 亮太の証言。


 中林先輩が見つけた薬剤部の記録。


 晴美先生が保管している写真と資料。


 桃香のノート。


 それぞれが点だったものは、少しずつ一本の線になり始めていた。


 病院の闇は、まだ終わっていない。


 林医師は何を隠し、誰がそれに加担しているのか。


 そして、山田修司さんの急変の本当の理由とは何だったのか。


 真実まで、あと少し。


 病院へ戻る道を歩きながら、不意にあの声が聞こえた気がした。


「由香。」


 振り返っても、そこには誰もいない。


 けれど、その声は優しく、懐かしかった。


「逃げないで。」


 私は立ち止まらなかった。


 小学生の頃、言えなかった「嫌だ」という一言。


 祖母の前で飲み込んだ本音。


 桃香への想いを隠し続けた高校時代。


 そして、看護師になってから見て見ぬふりをしてきた違和感。


 そのすべてを越えるために。


 私はもう、誰かの期待だけで生きるのではない。


 誰かに嫌われることを恐れて、沈黙を選ぶのでもない。


 桃香が最後まで信じ続けた真実のために。


 私は、自分の声で歩いていく。


 そう心に誓いながら、病院の灯りをまっすぐ見つめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ