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私の声  作者: 霜月希侑
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追い詰められた心


夜勤明けの病棟は、不思議なくらい静かだった。


ナースステーションにはモニターの電子音だけが規則正しく響き、窓の外では朝日がゆっくりと街を照らし始めている。


私は誰もいない休憩室で、紙コップのコーヒーを握ったまま動けずにいた。


桃香のノート。


薬品庫で見つけた「試作用」の薬。


林医師の名前。


ひとつひとつの欠片は、確実に同じ場所へ繋がろうとしていた。


それなのに、あと一歩が踏み出せない。


__怖い。


その感情を認めた瞬間、胸の奥に、もう一人の自分が現れる。


「また逃げるの?」


桃香の声だった。


私は目を閉じる。


すると、思い出したくもない記憶がゆっくりと浮かび上がってきた。




祖母は、私にとって世界そのものだった。


幼い頃に両親を亡くした私を、祖父母は本当の娘のように育ててくれた。


感謝している。


それは今でも変わらない。


けれど、その愛情は、時に私を息苦しく縛った。


「由香、その服じゃ寒いでしょ」


「そんな友達とは付き合っちゃダメ」


「おばあちゃんの言うことを聞いていれば間違いない」


祖母は、私の未来を心配していた。


だからこそ、私が選ぼうとする道を先回りして塞いでしまう。


高校生になる頃には、その干渉はさらに強くなった。


塾が十分遅れただけで電話が鳴る。


「由香はまだいますか?」


先生に確認し、それでも帰ってこなければ近所を探し回る。


友達と公園で話しているだけでも、


「危ないから帰りなさい」


「事件に巻き込まれたらどうするの」


そう言われ続けた。


反論しても意味はない。


結局、おばあちゃんの言う通りになる。


だから私は少しずつ、自分の気持ちを話さなくなった。


言えば否定される。


だったら最初から黙っていた方が傷つかない。


そんな癖が、いつの間にか私の中に根を張っていた。


桃香との関係も、誰にも話せなかった。


池のほとりで交わした約束。


何度も書き直した恋文。


手を繋ぐだけで胸がいっぱいになった帰り道。


全部、大切だった。


でも、それを口にする勇気はなかった。


「そんなの普通じゃない」


もし祖母にそう言われたら。


そう考えるだけで怖かった。




「中村さん」


突然名前を呼ばれ、私は現実へ引き戻された。


振り返ると、小林さんが立っていた。


ベテラン看護師らしい穏やかな笑顔。


病棟では誰よりも仕事が早く、患者からの信頼も厚い。


けれど最近、その笑顔の裏に疲れが滲んでいることに気付いていた。


「休憩?」


「はい」


「無理しないでね」


そう言って笑った小林さんの手は、小さく震えていた。


ほんの一瞬だった。


だが私は見逃さなかった。


最近、病棟では盗難事件が続いている。


田中看護師の財布から二万円。


山本さんの現金一万円。


高橋さんの封筒に入っていた十万円。


犯人はまだ見つかっていない。


しかし病棟では、小林さんの名前が静かに囁かれ始めていた。


根拠はない。


けれど、誰かが言い始めると噂は一人歩きする。


「あの人、最近様子がおかしいよね」


「夜勤明けによくトイレへ駆け込んでる」


「お金に困ってるって聞いた」


そのどれもが、憶測だった。


私は信じたくなかった。




数日後。


夜勤中、私は偶然、小林さんが誰もいない処置室でしゃがみ込んでいる姿を見つけた。


「小林さん?」


声を掛けると、彼女は慌てて立ち上がる。


「なんでもない」


そう言った顔は真っ青だった。


額には脂汗が浮かび、呼吸も荒い。


「本当に大丈夫ですか?」


「少し気分が悪いだけ」


それだけ言って足早に去っていく。


床には、小さな胃薬の空袋が落ちていた。


私はそれを拾い上げながら、胸騒ぎを覚えた。


盗難事件。


痩せ細った横顔。


震える手。


そして、誰にも助けを求めない姿。


どこか、自分と重なって見えた。




その夜。


私は斎藤さんから、小林さんの過去を聞かされることになる。


「小林さんね……昔、新体操をやってたんだよ」


その一言が、私自身の封じ込めていた記憶を呼び覚ますとは、この時はまだ思ってもいなかった。






「……小林さんね、昔は新体操の選手だったんだよ」


夜勤の休憩中、斎藤さんは缶コーヒーを片手に静かに話し始めた。


「大学でも期待されてた。でも二年生の時、交通事故に遭ってね。選手生命が終わった」


私は思わず息をのんだ。


「それから看護師になったんですか?」


「そう。だけど、その間が地獄だったらしい」


斎藤さんは少し言葉を選びながら続けた。


「摂食障害」


その一言が、私の胸を鋭く刺した。




小林さんの人生は、新体操だけでできていた。


幼い頃から毎日のように体育館へ通い、休日も大会や遠征で埋まる生活。


母親は誰よりも熱心だった。


「あと五百グラム落としなさい」


「その体じゃ全国は無理」


食卓では揚げ物が消え、お菓子は禁止。


体重計は毎朝の日課だった。


数字が増えれば叱られる。


減れば褒められる。


いつしか、小林さんにとって体重は、自分の価値そのものになっていた。


事故ですべてが終わった日も、彼女は最初にこう思ったという。


__もう、痩せる必要もないんだ。


自由になれたはずだった。


なのに心は、どこにも行けなかった。


新体操を失った彼女には、自分が何者なのかわからなくなっていた。


期待されていた選手。


それだけが、自分の存在理由だったから。




過食は、ある日の夜、突然始まった。


冷蔵庫を開ける。


ご飯を食べる。


パンを食べる。


お菓子を食べる。


アイスを食べる。


それでも止まらない。


胃が苦しくなっても、まだ食べる。


食べている間だけは、何も考えなくて済んだ。


「私は終わった」


「期待を裏切った」


そんな声が、頭の中から消えた。


だが食べ終わると現実が戻る。


鏡に映る自分を見るたび、


「太る」


「こんな体じゃ駄目だ」


恐怖が押し寄せる。


彼女はトイレへ駆け込み、喉に指を入れた。


それが、一日に何度も繰り返されるようになった。




けれど、それでも心の穴は埋まらなかった。


ある日、小林さんはスーパーで一つの商品をポケットへ入れた。


高価なチョコレートだった。


他の商品は普通に会計する。


誰にも気付かれない。


店を出た瞬間、心臓が激しく鳴った。


怖い。


だけど――。


生きている気がした。


成功した。


誰にも見つからなかった。


その高揚感は、過食嘔吐では味わえないものだった。


それから万引きは繰り返された。


犯罪だと理解していた。


やめたいとも思っていた。


それでも、衝動だけは消えなかった。




「……ある日さ」


斎藤さんが静かに続けた。


「とうとう見つかったんだ」


店を出た直後、一人の男性が声を掛けた。


『万引きしましたよね。全部見てました』


警察ではなかった。


店員でもなかった。


ただの客だった。


小林さんは震えながら財布を取り出した。


その日に持っていた現金を全部渡した。


「お願いします……誰にも言わないでください」


男は何も言わず、その場を去った。


それ以来、万引きは二度としなかった。


けれど恐怖だけが残った。


「今日、警察が来るんじゃないか」


「病院に知られるんじゃないか」


その不安は消えず、過食嘔吐だけが再び悪化した。




話を聞き終えた私は、言葉を失っていた。


小林さんは、盗難事件の犯人なのだろうか。


分からない。


けれど一つだけ分かったことがある。


人は、生まれつき悪い人間になるわけではない。


傷つき、追い詰められ、助けを求められなくなった時、人は自分でも理解できない行動を取ってしまうことがある。


その姿は、どこか自分自身と重なって見えた。




「由香」


今度は私の名前を呼ぶ声がした。


振り返ると、窓ガラスに映る自分と目が合った。


その瞬間、記憶が押し寄せる。


体育館。


体重計。


顧問の厳しい視線。


「百グラム増えた」


その一言だけで、一日中気分が沈んだ高校時代。


私も、新体操をしていた。


毎朝体重を量り、数字に一喜一憂していた。


チームメイトより少しでも軽くなりたい。


少しでも美しく見られたい。


演技よりも、数字に心を支配されていた。


「私は大丈夫」


ずっとそう思っていた。


でも、本当にそうだったのだろうか。


小林さんの過去を知った今、自分の過去にも同じ匂いがあることを認めざるを得なかった。


桃香の声が、静かに胸の奥で響く。


「由香。逃げないで」


私はゆっくりと目を閉じた。


逃げ続けてきたのは、病院の闇だけじゃない。


自分自身の過去からも、私はずっと目を背けていたのだ。





亮太からの連絡が途絶えて、一か月が過ぎた。


 毎日のように届いていた長文のメッセージも、突然家の前に現れることもなくなった。


 静かだった。


 あまりにも静かで、かえって不気味だった。


 桃香は何度もスマートフォンを開き、トーク画面を見つめる。最後に送られてきた「また連絡するね」という一文だけが、時間の止まったように画面へ残っていた。


 これで終わった。


 そう思いたかった。


 だが、人は一度恐怖を知ると、静けさの中にも足音を探してしまう。


 帰宅途中、後ろを振り返る癖がついた。


 コンビニのガラスに映る自分の背後を確認する。


 夜道を歩くたび、誰かが見ているような気がした。


 それでも大学受験は待ってくれない。


 薬剤師になるという夢だけは、何があっても諦めたくなかった。


 勉強だけが、自分を前へ進ませてくれる唯一のものだった。


     


 一方、私は病院で亮太について調べ続けていた。


 ゲーム配信は、桃香に振られた直後から半年ほど更新が止まっている。


 その後、突然投稿された動画が一本だけあった。


 タイトルは、


 『全部変わります』


 動画を開くと、以前とは別人のように痩せた亮太が映っていた。


 頬はこけ、首筋は細くなり、ぶかぶかになったTシャツが痛々しい。


 彼は笑いながら言った。


「ダイエット始めました」


 コメント欄には、


「すごい痩せた!」


「別人じゃん!」


「何キロ落としたの?」


 そんな言葉が並んでいた。


 だが、私は違和感を覚えた。


 動画の最後。


 カメラを切り忘れた数秒間。


 亮太は小さな声で独り言を漏らしていた。


「これなら……好きになってくれるかな」


 その一言だけで十分だった。


 このダイエットは、自分のためではない。


 桃香のためだ。


 私はスマートフォンを握る手に力が入った。


     


 桃香は、亮太が姿を見せなくなってから半年後、大学へ進学した。


 念願だった薬学部。


 白衣を着て実習を受ける未来を思い描きながら、新しい生活を始めた。


 ところが、入学から数週間後。


 大学の最寄り駅で、見覚えのある後ろ姿が目に入る。


「……亮太さん?」


 振り向いた彼は、以前より二十キロ近く痩せていた。


 別人のようだった。


「久しぶり」


 まるで偶然を装う笑顔。


「近くまで来たから」


 桃香の背中を冷たいものが走った。


 偶然ではない。


 大学を知っている。


 通学時間も知っている。


 彼は調べてきたのだ。


「じゃあね」


 桃香は足早に立ち去った。


 その夜。


 スマートフォンが震える。


「今日会えて嬉しかった」


「痩せたよ」


「これなら好きになってくれる?」


 胸が締め付けられた。


 終わっていなかった。


 何も。


     


 私は桃香の日記を開いた。


 大学一年生になってからのページだった。


『痩せた亮太さんが大学まで来た。』


『怖い。』


『どうして私の大学を知ってるの?』


 ページをめくる。


『叔母さんの証拠を使うしかないのかな。』


『でも怖い。』


『本当は由香に全部話したい。』


 私はそこで手を止めた。


 インクが滲んでいる。


 涙の跡だった。


 私は息を呑んだ。


 桃香は最後まで、一人で抱えていた。


     


 その頃、病院でも異変が起きていた。


 盗難事件は止まらない。


 看護師同士がお互いを疑い始め、病棟全体が張り詰めた空気に包まれていた。


「犯人は小林さんでしょう」


 斎藤がまた言う。


「昔から怪しかったし」


 私は頷かなかった。


 確かに小林さんは怪しい。


 でも、それだけでは説明できない。


 盗難が起きるたび、林医師は決まって病棟へ姿を見せる。


 偶然にしては出来すぎている。


 私はもう一度、防犯カメラの設置場所を思い浮かべた。


 死角。


 職員しか通らない通路。


 薬品庫。


 カルテ室。


 そして林医師の研究室。


 すべてが一本の線で繋がり始めていた。


     


 数日後。


 夜勤明け。


 更衣室のロッカーを開けると、一枚の白い封筒が入っていた。


 差出人はない。


 中にはUSBメモリが一本だけ入っていた。


 付箋には一言だけ。


「桃香さんの続きを知りたければ、一人で来てください」


 場所は、病院裏の古い資料倉庫。


 日時は今夜二十三時。


 心臓が激しく脈打つ。


 罠かもしれない。


 それでも、この文字を書いた人物は、桃香の名前を知っている。


 病院の中にいる誰かだ。


 私はポケットの中でUSBメモリを強く握った。


 逃げるという選択肢は、もうなかった。


 桃香が命を懸けて追い続けた真実は、すぐ目の前まで来ている。


 私は夜の病院を見上げた。


 窓の一つに、人影が立っていた。


 こちらを見下ろしている。


 その姿は逆光で見えない。


 だが、視線だけははっきりと感じた。


 監視されている。


 そう確信した瞬間、スマートフォンが震えた。


 非通知。


 恐る恐る耳に当てる。


 数秒の沈黙。


 そして、低く抑えた男の声が響いた。


「……次は、君の番だ」


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