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私の声  作者: 霜月希侑
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真実の断片


地下の薬剤部は、昼間でも薄暗かった。


蛍光灯の白い光が無機質な床を照らし、薬品棚が迷路のように並んでいる。消毒薬の匂いが鼻を刺し、足音だけが静かに響いた。


不足していた点滴薬を取りに来た私は、薬剤師の姿が見えないことを確認すると、何気ないふりをして奥の棚へ向かった。


本当の目的は、薬ではない。


山田さんの急変以来、私の胸に引っ掛かり続けている違和感。その正体を探したかった。


棚を見渡していると、一つだけ封の開いた薬剤ボトルが目に入った。


見慣れないラベル。


通常病棟ではほとんど使用しない高濃度の鎮静薬だった。


「……どうして、こんなものが」


私は周囲を確認しながら手に取る。


その裏側に、小さな付箋が貼られていた。


試作用 林医師宛


一瞬、呼吸が止まった。


林医師。


桃香が亡くなる前、接触していたかもしれない人物。


そして、山田さんのカルテに何度も名前が出てきた医師。


どうして「試作用」なのだろう。


治験?


研究?


それとも――。


嫌な想像が頭をよぎる。


その時だった。


廊下の向こうから足音が聞こえた。


私は反射的にボトルを元の場所へ戻し、処方薬を探しているふりをする。


薬剤師の佐々木さんが姿を現した。


「何してるの?」


心臓が跳ねた。


「点滴薬が不足していて……探していました」


佐々木さんは私の顔をじっと見つめた。


その視線には、いつもの穏やかさがなかった。


「地下は迷いやすいからね」


短くそう言うと、私の横を通り過ぎる。


私は小さく息を吐いた。


見つかったわけではない。


それでも、胸騒ぎだけは消えなかった。




翌日の昼休み。


外来へ処方箋を届けに行った帰りだった。


診察室の陰から、低い話し声が聞こえてきた。


思わず足を止める。


「……予定通り進めてください」


聞き覚えのある声。


林医師だった。


続いて、佐々木さんが静かに答える。


「記録の方は、いつも通りで」


「余計なことは書かなくていい」


沈黙。


紙をめくる音。


そして足音。


私は慌てて廊下を曲がり、自動販売機の前に立った。


次の瞬間、林医師と佐々木さんが並んで歩いていく。


林医師は私に気づくと、一瞬だけ目を合わせた。


その目には感情がなかった。


まるで、相手の心を見透かそうとするような冷たい視線。


私は無意識に視線を逸らした。




休憩室へ戻っても、その会話が頭から離れなかった。


「記録の方は、いつも通り」


「余計なことは書かなくていい」


それは何の記録だったのだろう。


山田さんのカルテで見つけた投与時間の食い違い。


深夜に誰かが病室へ入ったという証言。


地下薬剤部で見つけた「試作用」の付箋。


すべてが一本の糸でつながろうとしていた。


けれど、その糸の先には何があるのか、まだ見えない。


私の思い込みなのか。


それとも、本当に病院は何かを隠しているのか。




その夜、私は一人でナースステーションに立っていた。


窓の外では小雨が降り始めている。


静まり返った病棟に、ナースコールだけが規則的に鳴り響く。


ふと、ポケットに入れたメモ帳へ手を伸ばく。


そこには、これまで集めた断片的な情報を書き留めていた。


・山田さんのカルテの不一致

・深夜の目撃証言

・地下薬剤部の「試作用」

・ 林医師

・佐々木薬剤師


どれも決定的な証拠ではない。


それでも、偶然だけでは説明できない何かがある。


その時、不意に桃香の笑顔が浮かんだ。


夕暮れの池のほとり。


風に揺れるポニーテール。


「由香」


あの日と同じ声が、胸の奥で響く。


「逃げないで」


私はゆっくりとメモ帳を閉じた。


もう後戻りはできない。


真実はまだ霧の中にある。


けれど、その霧の向こうには、桃香が命を懸けてまで辿り着こうとした答えがあるはずだ。


私は覚悟を決め、林医師の名前を静かになぞった。彼に近づく時が、少しずつ近づいていた。



夜勤明けの空は、薄い雲に覆われていた。


病院を出ても、その足は自然と駅とは反対方向へ向かっていた。


目的地は一つ。


桃香の同級生、彩花との待ち合わせ場所だった。


小さな喫茶店の窓際。


コーヒーの湯気がゆらゆらと立ち上る中、彩花は少し困ったように笑った。


「急に連絡してきたから、びっくりしたよ」


私は単刀直入に切り出した。


「桃香のことで、聞きたいことがあるの」


彩花の表情から笑みが消える。


しばらく黙ってカップを見つめていた彼女は、小さく息を吐いた。


「……やっぱり、その話だよね」


店内に静かなジャズが流れる。


その音だけが、不自然なほど大きく聞こえた。


「由香ちゃんには言わなかったけど……桃香、卒業する少し前から、男の人に付きまとわれてたんだ」


私は思わず身を乗り出した。


「誰?」


「林先生の弟」


その名前を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなる。


「亮太っていう人。大学生だった頃、桃香の妹の家庭教師をしてたの」


彩花は言葉を選ぶように続けた。


「最初は普通だったらしいよ。でも、そのうち桃香を何度も食事に誘うようになって……」


「桃香は?」


「断ってた」


即答だった。


「でも妹の家庭教師だったから、強く言えなかったみたい」


私は拳を握った。


桃香らしい。


自分より妹を優先する。


嫌だと思っても、相手を傷つけないように笑ってしまう。


そんな優しさが、私は好きだった。


「亮太さんね、一度だけ変なこと言ってたらしいの」


彩花が声を潜める。


「『兄貴の病院には近づかない方がいい』って」


私は息を呑んだ。


「どういう意味?」


「理由は教えてくれなかったみたい。でも桃香、それを聞いてから病院のこと調べ始めたんだって」


胸の鼓動が速くなる。


やはり桃香は、自ら危険に飛び込んでいた。




その帰り道。


私は桃香の実家へ向かった。


インターホンを押すと、おばさんが静かに迎え入れてくれた。


「由香ちゃん……来てくれたのね」


リビングには、時間だけが止まったような空気が流れていた。


桃香の部屋は、あの日のままだった。


本棚には薬学の参考書。


机には色あせた筆箱。


壁には高校時代の写真。


そこには、笑顔の私と桃香が並んでいた。


胸が締めつけられる。


「見てもいいですか」


おばさんは静かに頷いた。


机の引き出しを開けると、一冊の大学ノートがあった。


表紙には小さく書かれている。


「メモ」


私はゆっくりページをめくった。


最初は薬の作用や勉強の内容。


だが途中から文字の雰囲気が変わる。


『亮太さんからまたLINE。断っても断っても誘ってくる。怖い。』


次のページ。


『病院の噂、本当なのかな。もし本当なら見過ごせない。』


さらにページをめくる。


そこには震えた文字で書かれていた。


『亮太さんが「兄貴は知られたら終わる」って言ってた。何のこと?』


私はページをめくる手を止めた。


その一文だけが、異様な存在感を放っていた。


最後のページには、走り書きが残されていた。


『証拠を見つけたら全部終わらせる。怖い。でも逃げたくない。』


その文字は途中で途切れていた。


まるで、それ以上を書く時間がなかったかのように。


私はノートを胸に抱きしめた。


涙が止まらなかった。


桃香は最後まで逃げなかった。


だから私は、彼女が自ら命を絶ったとは思えない。




病院へ戻る頃には、夕暮れになっていた。


ナースステーションでは、いつも通りスタッフが忙しく動いている。


何も変わらない日常。


だが私には、すべてが違って見えた。


林医師が廊下を歩いてくる。


私の前で立ち止まり、静かに言った。


「中村さん」


「はい」


「最近、いろいろ調べているそうですね」


心臓が大きく跳ねる。


私は笑顔を作った。


「山田さんのことが気になって……」


林医師は私をじっと見つめた。


その視線には笑みがない。


「好奇心は時に、人を不幸にします」


低く落ち着いた声。


それだけ言うと、彼は去っていった。


私はその背中を見送りながら、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


どうして知っている。


誰が話した。


私は監視されているのか。




深夜。


ナースステーションの窓から病棟を見渡す。


消灯後の廊下には誰もいない。


それでも私は、誰かの視線を感じていた。


ポケットの中には、桃香のノート。


その最後のページが頭から離れない。


「怖い。でも逃げたくない。」


私は目を閉じる。


すると、あの日の池の風景が浮かんだ。


夕日に照らされて泳ぐ鯉。


ベンチに並んで座る私たち。


桃香が笑って言う。


「由香、池の中の鯉も、いつか外へ出られるのかな」


あのときは答えられなかった。


でも今なら分かる。


閉じ込められているのは鯉ではない。


真実だった。


私はノートを強く握りしめる。


桃香が追い求めた真実。


山田さんの急変。


カルテの不一致。


地下薬剤部の「試作用」の付箋。


そして、林医師の意味深な言葉。


すべての断片は、まだ一枚の絵にはなっていない。


しかし、その絵は確実に姿を現し始めていた。


私は静かに立ち上がる。


もう恐れない。


桃香が命を懸けて辿り着こうとした場所まで、私も必ずたどり着く。


そのとき、ナースステーションの内線電話が鳴り響いた。


受話器を取ると、聞き覚えのない低い男の声がした。


「……調べるのは、そこまでにしておけ」


一方的に電話は切れた。


受話器の向こうから聞こえていたのは、無機質な電子音だけだった。


私はゆっくりと受話器を置く。


病棟の静寂は変わらない。


だが、その静けさの奥で、確かに何かが動き始めていた。


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