監視される病棟
病院には、古い建物特有の静けさがあった。
昼間は絶え間なくナースコールが鳴り、ストレッチャーや車椅子が行き交う廊下も、夜になると別の場所のように静まり返る。
その静寂が、今夜はひどく息苦しかった。
私はカルテ保管庫の扉をそっと閉める。
夜勤中、この部屋へ入る職員はほとんどいない。
古い紙の匂いが漂う棚から、山田修司さんの過去の入院記録を取り出した。
一ページずつ慎重にめくる。
入院日。
採血結果。
投薬内容。
どれも一見すると整然としていた。
しかし、三度目の入院記録で、私の指が止まる。
「……あれ?」
点滴の開始時間と投与終了時間が合わない。
修正液で消された跡。
その上から書き直された数字。
さらに別の日のカルテにも、同じような修正が残っていた。
単なる記載ミスなのか。
それとも、誰かが意図的に書き換えたのか。
嫌な汗が背中を伝う。
そのときだった。
廊下から足音が聞こえた。
私は慌ててカルテを閉じる。
コン、コン。
一定の間隔で近づいてくる靴音。
息を潜める。
だが、足音は保管庫の前を通り過ぎ、そのまま遠ざかっていった。
私は胸を押さえ、小さく息を吐く。
考えすぎだ。
そう自分に言い聞かせても、不安は消えなかった。
翌日から、病棟の空気は目に見えて変わった。
「おはようございます」
私が挨拶しても、返事はどこかぎこちない。
いつも冗談を言って笑わせてくれる田中さんは、私と目が合うとすぐカルテへ視線を落とした。
薬剤師の佐々木さんも、薬品庫の鍵を閉めながら静かに言った。
「中村さん」
「はい」
「余計なことは調べない方がいい」
それだけ言うと、振り返ることなく去っていった。
背中に冷たいものが走る。
なぜ、そんなことを言うのだろう。
私がカルテを見ていたことを知っている?
それとも、もっと別の理由があるのか。
答えは分からない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
この病棟では、誰も本音を話していない。
夜勤。
ナースステーションでは、脳腫瘍外科の個室を映すモニターが青白く光っていた。
開頭術を終えた患者の様子を、二十四時間体制で見守るための監視カメラ。
痙攣や意識障害にすぐ対応するためには欠かせない設備だ。
私は画面を見つめながら、別のことを考えていた。
山田さんが入院していた四〇二号室には、監視カメラがなかった。
もし、あの夜__。
誰かが病室へ出入りしていたとしても。
証拠は何も残らない。
モニターの端には、廊下の一部だけが映っている。
その先は死角だった。
誰かがそこを歩いても、画面には映らない。
私は思わず身震いした。
「どうした?」
先輩看護師に声をかけられ、慌てて笑顔を作る。
「いえ、大丈夫です」
本当は大丈夫ではなかった。
監視カメラは患者を守るためのものだ。
それなのに私は、この病院そのものが誰かの都合のいいように作られた巨大な檻のように思えてならなかった。
その日の休憩時間。
私はスマートフォンを開き、高校時代の同級生へメッセージを送った。
返信が届いたのは十分後だった。
桃香、卒業前に変なこと言ってたよ。
「この町の病院には、おかしな噂がある」って。
胸が高鳴る。
続いて送られてきた文章に、私は息を止めた。
病院の駐車場で、お医者さんと話してるのも見た。
名前までは知らないけど、白衣を着た四十代くらいの男だった。
私はスマートフォンを握りしめた。
林医師。
あの日、同級生が口にした特徴と一致する。
偶然とは思えなかった。
桃香は、何を知ってしまったのだろう。
そして、その事実は山田さんの急変と、どこでつながるのか。
考えれば考えるほど、疑問は増えていく。
病棟へ戻る途中、私は廊下の突き当たりで立ち止まった。
誰かの気配がした。
振り返る。
誰もいない。
窓ガラスには、自分の姿だけが映っている。
__気のせい。
そう思って歩き出そうとした、そのとき。
カタン。
物置の方から、小さな音が響いた。
私は反射的にそちらを見る。
扉は半開きだった。
さっきまで閉まっていたはずなのに。
ゆっくり近づき、中を覗く。
誰もいない。
だが床には、新しい足跡が一つだけ残っていた。
私は無意識に拳を握る。
誰かがいる。
そして、その誰かは私の行動を知っている。
そんな確信だけが、静かな病棟で少しずつ形になり始めていた。
病棟に漂う重苦しい空気は、日に日に色濃くなっていった。
きっかけは、一件の盗難だった。
休憩室で先輩看護師の田中さんが財布を開き、顔色を変えた。
「……ない」
声は震えていた。
「二万円入ってたのに」
スタッフ全員でロッカーや休憩室を探したが、現金は見つからなかった。
警察を呼ぶ話も出たが、結局、「勘違いかもしれない」という曖昧な結論で終わった。
しかし、それで終わらなかった。
三日後には看護助手の山本さんの財布から一万円。
さらに翌週には、四〇六号室に入院していた高橋さんの財布から十万円が消えた。
病棟は騒然となった。
「患者さんの財布まで……」
「外部の人間じゃないよね」
「となると……」
誰も最後までは口にしない。
けれど、その続きを全員が理解していた。
犯人は、この病棟の人間かもしれない。
休憩室では自然と会話が減った。
財布を机に置く者はいなくなり、ロッカーを閉めるたびに何度も鍵を確認する。
笑い声は消えた。
代わりに、小さな疑いだけが病棟中に広がっていく。
ある日の夜勤。
先輩看護師の斎藤さんが勤務表を机いっぱいに広げた。
「盗難が起きた日を全部調べてみた」
赤いペンで丸がつけられていく。
七月八日。
七月十二日。
七月十九日。
「この日に勤務していた人を書き出したら……」
部屋が静まり返る。
斎藤さんの指が、一つの名前で止まった。
「小林さん」
誰も声を出さない。
ベテラン看護師の小林さん。
患者からの信頼も厚く、仕事も正確。
まさか、そんな人が。
「偶然かもしれない」
誰かが小さく呟く。
「でも全部の日にいる」
再び沈黙が流れた。
私は勤務表を見つめながら胸がざわついた。
盗難。
山田さんの急変。
桃香の死。
どれも別々の出来事のはずなのに、不思議と一本の線でつながっている気がした。
その夜、薬剤師の中林と薬品庫で顔を合わせた。
「眠そうだね」
彼は穏やかに笑う。
「少しだけ」
「考え込みすぎじゃない?」
私は返事に詰まった。
誰にも話すつもりはなかった。
でも、中林だけは違った。
山田さんの急変後も、私を責めることなく接してくれている。
ふと口が開いた。
「山田さんのカルテ、変なんです」
中林の表情が変わる。
「……どこが?」
「投薬記録です」
私は小さな声で説明した。
書き換えられた時間。
修正液の跡。
不自然な投与記録。
話し終えると、中林はしばらく黙っていた。
「誰にも言ってない?」
「はい」
「それでいい」
低い声だった。
「不用意に動くと危ない」
「危ない?」
中林は薬品棚へ視線を向ける。
「この病院には、知らない方が幸せなこともある」
その一言だけ残し、彼は薬品庫を出ていった。
私はその背中を見送りながら立ち尽くす。
あの言葉は忠告だったのか。
それとも警告だったのか。
休憩時間。
私はスマートフォンを取り出し、高校時代の同級生とのやり取りを読み返していた。
桃香、卒業前に病院の噂を調べてたよ。
内科の先生と話してるのを見た。
林医師。
その名前だけが頭の中を巡る。
もし桃香が本当に林医師へ近づいていたなら。
もし、その直後に命を落としたのだとしたら。
偶然では済まされない。
私は意を決した。
逃げていても真実には辿り着けない。
翌朝。
林医師の診察が始まる前、私はカルテを胸に抱え診察室の前へ立った。
ドアには「内科主任医師 林」のプレート。
心臓が嫌なほど速く鼓動する。
手のひらは汗で濡れていた。
ノックしようと右手を上げた、その瞬間。
「中村さん」
背後から声がした。
振り返る。
そこには林医師が立っていた。
いつからそこにいたのだろう。
音もなく現れた彼は、静かな笑みを浮かべている。
「私に何か用ですか?」
その笑顔とは裏腹に、目だけが少しも笑っていなかった。
私は息をのみ、カルテを握る手に力を込める。
「……山田さんの投薬について、お聞きしたいことがあります」
林医師は一瞬だけ表情を止めた。
それは本当に一瞬だった。
だが私は、確かに見逃さなかった。
彼の瞳に宿った、わずかな動揺を。
診察室の扉が静かに閉まる。
その向こう側で、桃香が追い続けた真実が、少しずつ姿を現そうとしていた。




