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私の声  作者: 霜月希侑
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池の中の鯉


夜勤が終わった。


更衣室で白衣を脱ぎながらも、私の頭から山田さんのことは離れなかった。


薬剤ラベル。


改ざんされたカルテ。


そして、桃香のノート。


全部が一本の線でつながろうとしている。


だけど、その答えはまだ見えない。


ロッカーを閉めた瞬間、ポケットの中で何かが指先に触れた。


昨日、桃香のノートから落ちた一枚の写真だった。


制服姿の私と桃香。


高校二年の夏。


写真の裏には、小さな字で書かれている。


『池の鯉は今日も元気。』


その文字を見た瞬間、景色が一気によみがえった。




高校二年の夏。


塾の授業が終わると、私たちは決まって近くの公園へ寄り道した。


大きな池。


夕日に照らされる水面。


色とりどりの鯉がゆっくり泳いでいる。


「見て」


桃香が池を指差した。


「鯉っていいよね」


「どうして?」


「何も考えてなさそう」


思わず笑う。


「それ褒めてる?」


「うん」


桃香は笑った。


「毎日勉強、勉強って疲れちゃうじゃん」


池を眺めながら続ける。


「私たちもさ、この池の鯉みたい」


「え?」


「この池から出られない」


夕日が彼女の横顔を染めていた。


「学校」


「塾」


「受験」


「親の期待」


「全部、この池」


私は静かに水面を見つめた。


確かにそうだった。


朝課外。


放課後課外。


塾。


帰れば宿題。


毎日が同じことの繰り返しだった。


「でも」


桃香が笑う。


「由香といる時だけは違う」


「え?」


「池から出られる」


その一言だけで胸が熱くなる。


私は何も言えなかった。


「ねえ」


「明日、一緒に一限サボる?」


「え?」


「二人で逃げよう」


いたずらっぽく笑う。


「鯉もたまには池から出たいじゃん」


「死んじゃうよ」


「確かに」


二人で吹き出した。


笑い声が夕暮れの公園に響く。


あの頃は。


それだけで幸せだった。




塾でも桃香は変わらなかった。


授業中。


私の机に小さな付箋が滑ってくる。


開く。


塾長の似顔絵。


『今日も寝ぐせ100点』


思わず吹き出しそうになる。


前を見ると、


桃香が口元を押さえて笑っている。


先生に見つからないよう必死に笑いをこらえる。


そんな時間が大好きだった。


恋をしているなんて、


あの頃はまだ認められなかった。


でも。


彼女と目が合うだけで、


胸が少し苦しくなる。


それだけで十分だった。




「中村さん?」


声で我に返る。


気付けば私は病院の駐車場に立っていた。


写真を握ったまま、十分以上も動いていなかったらしい。


「帰らないの?」


主任が不思議そうに笑う。


「あ……すみません」


私は写真をポケットへしまった。


あの頃の思い出は温かい。


なのに、思い出すたび苦しくなる。


桃香。


あなたはどうして死ななければならなかったの。


本当に、自分で命を絶ったの?


その問いだけが、私の胸に残り続けていた。



 桃香と同じ個別指導塾に通っていると知ったのは、高校二年の春だった。


 約束していたわけではない。


 ある日の放課後、塾へ続く細い階段で偶然鉢合わせた。


「あれ?」


 桃香が目を丸くする。


「由香もここだったの?」


「……うん」


「うそ、もっと早く言ってよ!」


 彼女は声を上げて笑った。


 それからというもの、私たちは学校が終わると一緒に塾へ向かうようになった。


 コンビニでアイスを買い、他愛もない話をしながら歩く十分ほどの道のりが、私は好きだった。


 塾では席が離れていても、桃香はじっとしていない。


 先生に見つからないよう、小さく折りたたんだ付箋を机へ滑らせてくる。


 開くと、そこには塾長の似顔絵。


 髪が大げさに跳ね上がっていて、吹き出しには、


 『今日も寝ぐせ絶好調。』


 私は吹き出しそうになる。


 顔を上げると、桃香が肩を震わせながら笑っていた。


 そんなくだらない時間が、どうしようもなく愛おしかった。


 あの日々は、祖父の病気も、家に帰るのがつらい現実も、一瞬だけ忘れさせてくれた。


 桃香は、私の逃げ場所だった。


     


 五時間目の世界史。


 教室には先生の声だけが響いている。


 私はノートを開きながら、小さな便箋を取り出した。


 誰にも見つからないように。


 誰にも知られないように。


 それは私たちだけの秘密だった。


 便箋の一番上に書く。


 『拝啓 愛するきみへ。』


 その一文を書くだけで胸が高鳴る。


 続けてペンを走らせた。


きみは今どんな気持ちでいますか。風に揺れるポニーテール、透き通るように白い肌。手を伸ばせば届きそうなこの距離にいるのに、きみの心とわたしの心はまるで届かない遠い場所にあるよう。それでもいいんだ。わたしはきみを愛している。それが伝わるなら何度だって言葉にしよう。愛してる。


 書き終えると、恥ずかしくなって便箋を折りたたんだ。


 昼休み。


 誰も見ていない隙を見計らい、私は桃香の机の中へ手紙を滑り込ませる。


 しばらくして、今度は桃香が私の机の横を通り過ぎた。


 机の上に、小さく折られた紙が置かれる。


 広げる。


 桃香らしい丸い字が並んでいた。


やっほー、由香。


今日も世界史長かったね。


桃香は眠くて限界でした。


でも、由香と目が合ったから頑張れた!


近い将来、卒業したら、一緒に暮らそうね。


約束。


 最後の二文字を見た瞬間、涙が出そうになった。


 その約束を、私は本気で信じていた。


     


 その年の秋。


 祖父の認知症は少しずつ進んでいた。


「由香、お母さんはまだ帰ってこんのか?」


 もう何度も聞かれた質問だった。


 お母さんは、もういない。


 事故で亡くなって十年以上になる。


 そのたびに祖母は笑顔を作って答える。


「もう少ししたら帰ってくるよ」


 祖父は安心したように頷く。


 その姿を見るたび、胸が苦しくなった。


 家にいるのがつらくて、公園へ逃げた。


 池の前のベンチに座る。


 何も考えず鯉を眺めていると、隣へ桃香が座った。


「また逃げてきた?」


 私は黙って頷いた。


「話したくなかったら話さなくていい」


 桃香は池を見たまま言った。


「でも、一人じゃないから」


 それだけだった。


 励ましでも慰めでもない。


 ただ隣にいてくれた。


 その温もりが、どうしようもなく嬉しかった。


 私は初めて、自分から桃香の肩にもたれた。


 桃香は何も言わなかった。


 ただ、小さく笑った。


 夕日に照らされた池では、鯉が静かに泳いでいる。


 風が吹き、木々が揺れる。


 私は心の中で思った。


 この時間が、ずっと続けばいい。


     


「中村さん」


 名前を呼ばれ、私は現実へ引き戻された。


 休憩室のドアの前に、中林が立っている。


「大丈夫?」


「……え?」


「さっきからぼーっとしてる」


 私はいつの間にか、桃香の写真を見つめていた。


 写真の裏には、あの日と同じ文字。


 『池の鯉は今日も元気。』


 私はそっと写真をしまう。


 もう、過去を思い出して泣くだけでは終われない。


 桃香が追いかけていた真実。


 それを知ることが、今の私にできる唯一のことだった。


 私は静かに立ち上がる。


「中林さん」


「うん?」


「薬品庫、見せてもらえませんか」


 中林は少し驚いたあと、小さく頷いた。


「……分かった」


 二人は夜の廊下を歩き始める。


 その先に待つものが、希望なのか、それとも絶望なのか。


 まだ誰にも分からなかった。


 病棟の白い蛍光灯だけが、静かに二人の背中を照らしていた。

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