402号室
翌朝、病院は異様な空気に包まれていた。
ナースステーションには制服姿の警察官が立ち、薬品庫やカルテを次々と確認している。普段なら患者の笑い声や看護師たちの申し送りが聞こえる場所に、今日は張りつめた沈黙だけが流れていた。
私はその光景を遠くから見つめ、白衣のポケットに入れた一枚のメモを握りしめた。
__桃香の真実を知れ。
昨夜、ロッカーの中に入っていた差出人不明のメモだった。
どうして桃香の名前が書かれているのか。
どうして今なのか。
胸の奥がざわつく。
「中村さん」
低い声に振り返ると、若い刑事が立っていた。
「少しお話を伺えますか」
私は会議室へ案内された。
机を挟んで座った刑事は、穏やかな口調で切り出した。
「山田修司さんが急変したとき、あなたが担当だったそうですね」
「はい」
「何か普段と違うことはありませんでしたか」
私は少しだけ考えた。
昨夜の出来事が頭の中によみがえる。
怒鳴る山田さん。
器材庫へ取りに行ったアイスノン。
そして__。
「……点滴」
「点滴?」
「気のせいかもしれません。でも、滴下速度が少し速かったような……」
刑事は手帳に何かを書き込んだ。
「ほかには?」
私は迷った。
言うべきだろうか。
「急変する少し前……四〇二号室の前に、誰かが立っていた気がします」
「誰ですか」
「顔は見えませんでした」
本当は違った。
私は見ていた。
白衣姿だった。
でも、それ以上は思い出せなかった。
刑事は軽くうなずき、立ち上がった。
「ありがとうございました」
事情聴取は十分ほどで終わった。
けれど私の胸の違和感は、ますます大きくなっていた。
事故ではない。
そんな気がしてならない。
警察が帰ったあと、私は誰もいないナースステーションへ戻った。
カルテを開く。
電子カルテの投与記録を見た瞬間、私は息を止めた。
「……ない」
昨夜見たはずの薬剤名が消えている。
入力ミスだったのだろうか。
それとも、誰かが書き換えたのだろうか。
「何見てるの?」
突然後ろから声がして、私は肩を震わせた。
振り向くと、薬剤師の中林だった。
「顔色悪いよ」
「ちょっと……気になることがあって」
私は画面を見せた。
中林は眉をひそめる。
「この履歴……変だね」
「やっぱり?」
「履歴が残ってない」
「え?」
「電子カルテは普通、修正したら履歴が残る」
私は画面を見つめたまま動けなかった。
「でも、これは最初から存在しなかったことになってる」
背筋が冷えた。
誰かが、意図的に消した。
そう考えるしかなかった。
その日の帰り道、私は実家へ向かった。
目的は一つ。
桃香の遺品だった。
高校を卒業してすぐ、自殺したとされた佐藤桃香。
私が誰よりも愛した人。
彼女の部屋は、時間が止まったように当時のままだった。
机の引き出しを開けると、一冊の大学ノートが出てくる。
最後のページだけが折られていた。
そこには、震えるような字でこう書かれていた。
『病院の変な噂。本当かもしれない。』
その下には、病院の名前が記されていた。
__私が働く病院だった。
ページをめくろうとした、その瞬間。
玄関のチャイムが鳴った。
時計を見る。
午後九時。
こんな時間に訪ねてくる人などいない。
恐る恐るドアスコープをのぞく。
そこには黒い帽子を深くかぶった男が立っていた。
男はドアの前に白い封筒を置き、何も言わず立ち去る。
震える手で封筒を開く。
中には写真が一枚。
写っていたのは、高校時代の私と桃香。
そして裏には、赤い文字で一言だけ書かれていた。
『次は、お前だ。』
私は写真を落とした。
胸の鼓動だけが、静かな部屋に大きく響いていた。
警察が帰ると、病棟にはいつもの静けさが戻ってきた。
それでも、私は落ち着かなかった。
ナースステーションの時計が午後六時を指す。
申し送りの声が飛び交い、電子カルテのキーボードを打つ音が続く。
昨日までと同じ景色。
なのに、何かが違う。
「中村さん」
主任看護師に呼ばれ、私は振り返った。
「今日はもう帰っていいよ。昨日は大変だったでしょう」
「はい……ありがとうございます」
更衣室へ向かう途中、私は足を止めた。
自然と四〇二号室の前に立っていた。
ネームプレートは外され、ベッドは空になっている。
昨夜まで山田さんがいたとは思えないほど静かだった。
「……山田さん」
返事はない。
私はそっと病室へ入った。
窓際には夕日が差し込み、白いシーツだけが風に揺れている。
その時だった。
床に小さな紙切れが落ちていることに気付いた。
拾い上げる。
薬剤ラベルだった。
端が破れていて、薬品名は読めない。
しかし、ロット番号だけは残っていた。
「……こんなの」
病室に薬剤ラベルが落ちていること自体、おかしい。
通常なら使用後すぐに廃棄される。
私は無意識に白衣のポケットへしまった。
「何してるの?」
突然声を掛けられ、肩が跳ねる。
振り返ると薬剤師の中林だった。
「びっくりした……」
「山田さんの部屋?」
「少し気になって」
私はラベルを見せた。
中林は一瞬表情を変えた。
「これ、どこにあった?」
「床」
「……見せて」
彼はラベルをじっと見つめたあと、小さく息を呑んだ。
「どうしたの?」
「いや……」
少し迷うように視線を泳がせる。
「この番号、見覚えがある」
「え?」
「でも、おかしい」
「何が?」
「この薬は、この病棟じゃ使わない」
私は思わずラベルを見返した。
「じゃあ、どうして……」
中林は周囲を確認し、声を潜めた。
「ここでは話せない」
その一言で、私の胸はさらにざわついた。
帰宅しても眠れなかった。
ベッドに横になれば、山田さんの怒鳴り声が蘇る。
そして桃香の笑顔。
『大人になったら一緒に暮らそう。』
あの日の約束だけが、何度も頭の中で繰り返される。
私は起き上がり、本棚の奥から一冊のノートを取り出した。
桃香の形見だった。
ページをめくる。
高校時代の落書き。
テスト勉強の予定。
文化祭の写真。
最後のページだけが、折られていた。
そこには見覚えのない文字が並んでいた。
『○○総合病院 変な噂』
私が勤める病院の名前だった。
心臓が大きく鳴る。
さらに読み進める。
『患者が急に亡くなる』
『薬がおかしい』
『誰かが隠している』
呼吸が止まった。
どうして桃香が、この病院を調べていたの。
高校生だった桃香が。
その時、ノートの間から一枚の封筒が落ちた。
差出人はない。
中には小さなメモが入っていた。
たった一行。
『真実を知りたければ、薬品庫を見ろ』
私は封筒を握り締めた。
偶然じゃない。
山田さんの急変も。
桃香の死も。
すべて、この病院につながっている。
そう確信した。
私は静かに立ち上がる。
「桃香」
誰もいない部屋で、小さく名前を呼んだ。
「今度こそ、私が真実を見つける」
窓の外では、夜の雨が降り始めていた。




