プロローグ
夜の病棟は、息を潜めたように静かだった。
白い蛍光灯が廊下をぼんやり照らし、遠くから点滴スタンドの車輪が転がる音だけが響く。その静けさが、かえって胸をざわつかせる。
私は中村由香、二十三歳。看護師になって二年目。この病棟で、毎日命と向き合っている。
その夜、四〇二号室から怒鳴り声が響いた。
「ふざけるな!」
聞き慣れた声だった。
山田修司さん、六十歳。何度も入退院を繰り返している患者で、病棟では気難しい人として知られている。
「山田さん、どうされました?」
私はできるだけ穏やかな声で病室へ入った。
怒りに満ちていた山田さんの表情が、私を見ると少しだけ和らぐ。
「……アイスノン、持ってきてくれ」
「わかりました。すぐに持ってきますね」
私は急いで準備室へ向かった。
けれど、それで収まることはなかった。
病室へ戻ると、山田さんは再び怒鳴り始めた。言葉は鋭く、容赦なく私へ突き刺さる。
私は何度も落ち着くよう声をかけた。それでも怒りは収まらず、胸の奥が少しずつすり減っていく。
限界だった。
私は「すぐ戻ります」とだけ伝え、器材室へ逃げ込んだ。
誰もいない部屋で壁にもたれ、息を吐く。
叫びたい。
でも、喉が締めつけられたように声が出ない。
何度口を開いても、漏れるのはかすれた息だけだった。
そのとき、不意に一人の笑顔が浮かんだ。
佐藤桃香。
高校時代、いつも隣にいてくれた親友。
二人で自転車を走らせながら、「大人になったら一緒に暮らそう」と笑い合った夜。
池のほとりで鯉を眺めながら、「勉強ばっかりの毎日から逃げたいね」と語り合った昼下がり。
そして__
「死ぬまで、一緒にいよう」
そう約束した。
けれど、その約束は叶わなかった。
高校を卒業したあと、桃香は突然この世を去った。
警察は自殺だと言った。
でも私は、どうしても信じられなかった。
桃香が、自分から命を絶つなんて。
今でも私は、あの日の後悔を抱えたまま生きている。
深呼吸をして気持ちを切り替え、私は再び病棟へ戻った。
カルテを確認し、点滴を交換し、ナースコールに応える。
いつもと変わらない夜勤。
そう思っていた。
__次の瞬間までは。
四〇二号室からナースコールが鳴り響く。
駆けつけると、山田さんはベッドの上でぐったりと横たわっていた。
「山田さん!」
さっきまで怒鳴っていた人とは思えないほど、顔色は青白い。
その瞬間、私の中で二つの出来事が重なった。
桃香の死。
そして、山田さんの急変。
胸の奥で、言いようのない違和感が膨らんでいく。
これは、本当に偶然なのだろうか。
__この病棟には、誰にも知られてはいけない秘密が隠されている。




