エピローグ
桃香の事件が解決してから数日後。
私は、彼女のノートを返すため、久しぶりに佐藤家を訪れた。
住宅街はあの日と変わらず静かで、庭先の草木だけが風に揺れている。
玄関の扉が開くと、桃香のお母さんが穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「由香ちゃん……来てくれてありがとう」
その笑顔の奥には、消えることのない悲しみがあった。
私は深く頭を下げ、ノートを抱えたまま二階の桃香の部屋へ向かった。
部屋は、生前のまま時間が止まっていた。
本棚には薬学の参考書が並び、机には色とりどりの付箋が貼られたノートが積まれている。
薬剤師になるという夢は、今もこの部屋のあちこちに息づいていた。
私は桃香のノートを、遺品の入った段ボール箱の一番上へ静かに置いた。
その時だった。
一通の封筒が目に入った。
白い封筒には、見慣れた優しい字で書かれていた。
「由香へ」
胸が大きく脈打つ。
震える指で封を開くと、桃香の文字が現れた。
由香へ。
元気にしてる?
最近、全然会えてないから、私は由香不足です。
早く会いたい。
それとね、ちゃんと伝えたことがなかったから、今日は正直な気持ちを書きます。
私は由香のことが大好き。
親友としてじゃない。
一人の人間として、心から愛しています。
由香はいつも照れくさいくらい真っすぐ言葉をくれるけど、私はうまく伝えられなくてごめんね。
本当はね、結婚したいって思うくらい大好きなんだ。
死ぬまでずっと、一緒にいたい。
だから約束して。
絶対、絶対、幸せになろう。
愛してる。
桃香
最後の一文字まで読み終えた瞬間、堪えていた涙があふれた。
声を殺そうとしても止まらなかった。
もっと話したかった。
もっと笑いたかった。
もっと隣にいたかった。
あの日々はもう戻らない。
それでも、この手紙だけは確かに今の私へ届いていた。
私はずっと、自分を責め続けていた。
もっと早く気づいていれば。
もっと彼女の苦しみに寄り添えていたら。
守れた未来があったのではないかと。
けれど、桃香の手紙には責める言葉は一つもなかった。
そこにあったのは、ただ真っすぐな愛だけだった。
窓から吹き込んだ風が、便箋を優しく揺らす。
あの日と同じように。
どこからか、懐かしい声が聞こえた気がした。
「由香、逃げないで」
私は涙をぬぐい、小さく頷いた。
「うん」
「もう逃げない」
数日後。
私は一通の手紙を持って、桃香の眠る墓前を訪れた。
夕暮れの柔らかな光が墓石を照らし、風が静かに木々を揺らしている。
便箋には、あの頃と同じ鯉の絵。
高校時代、池のほとりで恋文を書き合った時と同じ柄だった。
私は深呼吸をして、ゆっくりと読み始めた。
「桃香へ。
こうして、また恋文を書く日が来るなんて思っていませんでした。
今まで私が伝えてきた言葉を、全部受け取ってくれてありがとう。
そして、あなたが伝えてくれた言葉も、私は一生忘れません。
もっとあなたを見ていたら。
もっと苦しみに気づいていたら。
そんな『もし』を何度も考えました。
でも今は、それ以上に伝えたいことがあります。
世界で一番、あなたを愛しています。
これまでも。
これからも。
ずっと。」
涙が便箋に落ち、文字が少し滲んだ。
それでも私は最後まで読み切った。
墓石にそっと手を添える。
桃香はもう、この世界にはいない。
それでも、彼女がくれた言葉は私の中で生き続けている。
祖母に本音を押し込められた幼い日。
「嫌だ」と言えなかった小学生の頃。
誰にも打ち明けられなかった恋。
私は長い間、自分の声を失ったまま生きてきた。
けれど今は違う。
桃香が最後に残してくれた、
「絶対、幸せになろう」
その約束が、私を前へ進ませてくれる。
私は空を見上げ、小さく微笑んだ。
「桃香」
「私はもう、逃げない」
「約束する」
「あなたがくれた愛を胸に、ちゃんと幸せになる」
風が頬を撫でた。
それはまるで、桃香が隣で笑ってくれているような、優しく温かな風だった。
私は歩き出す。
もう誰かのためだけではない。
自分自身の人生を生きるために。
そして、愛する人との約束を守るために。




