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鬼哭の湊  作者: 無暗道人
第二章
8/22

2

 鈴が落ちた。

 錆びかけた鈴が、カランと音を立てる。紐が限界になったようだ。

 似合わない物を持っていると笑われた事がある。自分でもそう思う。形見の品だが、何故これを選んだのかは自分でも分からない。

 偶に鳴らしてみたりもする。少し低くなった音は嫌いではないが、普段はそれだけの事だ。

 だが今日に限っては、彼女の事を思い出した。河上にとって最初の、そしておそらく唯一の女だ。


 戦争と言っても、常に前線にいる訳では無かった。国内も国外も戦場になっていたし、なにより末期はもう、戦線で睨み合う様な戦は無くなっていた。

 お互いにゲリラ戦とテロの応酬、たまに敵の拠点を攻略し、徹底的に破壊して引き上げる様な戦が続いていた。もはや本来の目的すら忘れた、戦のための戦だった。

 そのため、断続的に休みがあった。休みになると内地に帰還して、帰る場所のある者は帰る。帰ってみたら家が無くなっていたという事も、笑い話として話されるくらい良くある事だった。

 帰る場所の無い者には、兵舎があった。河上も兵舎の一室を与えられたが、長居する事は無かった。ただ夜寝るための場所だった。

 そんな生活をあたりまえだと思っていた頃に、(かおる)と出会った。

 今思い返しても、強引でおせっかいな女だった。河上より少し年上で、身の上を知ると途端に年長者風を吹かせ、半ば(さら)われる様な格好で家に連れて行かれた。

 薫は一人で暮らしていた。親も家族も居る気配は無かった。なぜかは結局知らず仕舞いだった。当時の河上は反発一点張りで、ろくに薫の事を知ろうとはしなかった。

 それでも薫は河上の中へ踏み込んできた。あの頃は無礼な女だとしか思っていなかったが、踏み込まれて困る事があった訳でも無かった。

 ただ嫌なものは嫌だと嫌っていたのは、今にして思えばかなり子供っぽかっただろう。

 一度、薫を振り切って逃げだした事があった。雨の強い夜の事だった。宿舎などは真っ先に探しに来ると思い、雨の中を彷徨った末、どこかの木陰で寝入った。

 人の気配を感じて起きた時、目の前には傘を差し出す薫の顔があった。それほどの至近に近づかれるまで気付けなかった事は、河上の誇りを傷つけたが、それ以上に何故ここに居るのかという思いが強かった。

 薫の足元の泥汚れを見るに、かなり探し回った事だけは察せられた。何故自分にそこまでするのか、それで薫に何の意味が有るのか。問いかけても、答えなかった。

 薫はただ微笑んで、河上の手を引いて家路についた。手を引かれるままに、後をついて行くしかできなかった。


 戦場から戻る度に、薫は迎えに来るようになった。避けようとしても何故か待ち伏せられていたのは、誰かが河上の行動を告げていたのかもしれない。

 避けようとしても避けられないので、やがてこちらも諦め半分で、内地に居る間は厄介になる様になった。それでも必要以上に付き合う事は避けた。いや、避けようとした。

 自分は所詮、『紅夜叉(べにやしゃ)』の異名で恐れられる少年兵。修羅場に生きる鬼なのだと自分に言い聞かせて。灼熱の地獄も知らぬ女と、決して生き方が交わる事は無いのだと、そう信じて疑わなかった。

 だから、突き放しても突き放しても、それでもなお歩み寄ってくる薫を、一度完全に、決定的に突き放してしまおうと思った。

 布団の中で平和に眠る薫を、獣の如く襲い、なぶり、決定的に違う生き物だという事を、体に刻み込んでやろうとした。

 勢いに任せて襲い掛かる河上を、薫はただ受け入れた。それが河上にとって初めての女だった。

 気付けば自分の物とは思えない声を上げ、柔らかな体にしがみつく様にして抱き着いている自分が居た。

 自分が獣どころか、どうしようもなくただの男で、子供であるという事を思い知らされてしまった。

 以来、距離を詰めてくる薫をなんとなく小うるさく感じ、必要以上の接触を避けようとする事は同じでも、どこかで決定的に拒絶していない自分を自覚せずにはいられなくなった。

 いくら拒絶して見せたところで、それはただ単に自分が、不器用で素直では無い事を証明するものとしか思えなくなった。

 かと言って、諦めて近しい距離まで近づいてくる事を、黙って認める事も出来なかった。ましてや河上の方から距離を詰める様な事など、考えられもしなかった。

 それが河上が薫を愛しているからだと。そうであるからこそ、血に濡れた自分の手で彼女に触れたくなかったのだと気が付いたのは、触れる事が出来なくなってからの事だった。


 戦争末期、敵国の要人やその家族などを狙ったテロや人質事件は、すでに基本戦術と化していた。

 それでも、首都の真ん中で多数の人質を取られる大規模事件は、めったに有るものではない異常事態だった。

 人質百三名、その中に薫も居た。何故かは今も分からない。影も無かった薫の親族に、ときの要人が居たのか。あるいは半分以上の人質と同じ様に、たまたまその場に居合わせたのか。

 それとも、『紅夜叉』の異名を轟かせていた河上の、唯一と言って良い関係者だったからか。

 大至急鎮圧に向かえと言う緊急命令が、(すぎ)の率いる義勇軍にも下った。数少ない、すぐに動く事ができる状況だった部隊のうち、一番現場に近い所に居たのが義勇軍だった。

 部隊出動よりも早く、河上は単身駆けだしていた。

 現場は役所の出先機関も入っているビルで、人質・犯人グループ共に、一階に集まっているらしかった。それ以上の事は、何も分からなかった。自分が裸足だった事に気付いたくらいだ。

 犯人グループは多くは無いはずだと思った。首都に潜入して事件を起こす工作員が、そう何百人もいるはずも無いという事もある。

 だがそれ以上に、人質事件に大人数が出てくるはずが無い理由があった。当時の人質事件への対処は、人質を見殺しにしてでも犯人グループを殲滅する事、だった。

 この手の事件が多すぎて、いちいち人質の安全を確保していては、制圧できなかった。それに、要求を呑む事もできなかった。

 当時の人質事件は、自爆テロと同義だった。違いと言えば、すぐに死なない事で、より長く、より大きく印象を与え、敵の士気を削ごうとしている事だった。

 あのとき河上は、おそらく初めて血の気がひくと言う感覚を味わった。

 鎮圧部隊が到着すれば、まず間違いなく人質ごと殲滅する。そうでなくとも、人が集まった時点で派手に自爆するのが犯人グループの狙いと見て良かった。

 猶予は無い。だが敵の数も分からない。どんな武装を持っているか、どういう配置についているのか、人質はどんな状態か、何も分からない。

 それでも、その手に一振りの剣はあった。


 正面から斬り込んだ。最初の三人は、目を()いたまま倒れた。正面から、ただ一人で斬り込んでくる者が居るなど、想像もしていなかったのだろう。自分でも、冷静ならばあんな事はしなかったと思う。

 結果的に、それが良かったのか悪かったのかは分からない。とにかく手当たり次第に切り伏せた。

 断片的に殺す瞬間を覚えているだけで、自分が無言だったのか、それとも何か叫んでいたのかも分からない。

 斬って、斬って、斬って、ただひたすらに斬り伏せて。とうとう追い込まれた敵が河上を、あるいは人質を道連れにしようと、自爆を始めた。

 道連れに自爆する事を目論んで襲い掛かってくる敵も、斬り伏せた。飛び散る肉片を掻い潜りながら、もう自分が何故ここに居るのかも忘れていた。

 不意に、記憶が鮮明になる個所がある。薫の声が聞こえてからだ。聞こえたという事は分かるが、何を言っていたかは分からない。

 ただ確かに記憶しているのは、薫が河上を(かば)う様に覆いかぶさって来た事と、最後の表情。涙を流していた。だが、笑っていた。

 そこでまた、何も分からなくなった。近くで大きな爆発が起きたらしいという事が、今になって分かる。閃光と、轟音と、爆風の中で、記憶は一旦途切れている。

 意識が、それとも記憶が戻った時、河上は雨に打たれていた。葛城(かつらぎ)が河上の肩を掴んで揺さぶり、何度も河上の名を呼んでいた。杉が現場の後始末の指揮を執っていた。

 薫は河上の腕の中で、最後と同じ笑みを張りつかせたまま冷たくなっていた。後で聞いたところによると、河上が自分で抱きかかえて、ビルから出て来たらしい。

 犯人グループは四十人いたが全員死亡。自爆も居るが、ほとんどは河上の手に掛かっていた。人質の生存者は、七人だった。

 どうでもいい事だった。ただ一人を助けるために自分はあそこに乗り込み、そしてそれを果たせなかった。それだけの事だ。

 そう割り切れればどれほど楽だっただろう。あろう事か、助けるはずの薫に(かば)われたのだ。そして薫は死に、河上は生き残った。

 薫がいつも持ち歩いている手提げ袋に、鈴が一つ付いている事に気付いたのは、そのときだった。滑り落ちた手提げ袋に付いていた鈴が鳴って、初めて気が付いた。何度となく見ていたはずなのに。

 なんとなく、その鈴だけを形見の品として、後生大事に持ち歩いている。他は全て処分してくれるように頼んだ。墓参りに行った事も無い。行けるはずも無かった。

 この一件で、『紅夜叉』の名はさらに恐れと共に轟いた。それもまた、どうでもいい事だった。この日、自分の女も守れない男になったのだ。


 戦争は、その一ヶ月後に終わった。

 それがより一層、傷を深くした。戦争が続いていれば、戦火で愛する者を失う事など、ありきたりな話に過ぎないと思い定める事も出来ただろう。

 だが戦争は終わってしまった。終わってしまったが故に、どうしようもない理不尽と後悔に苛まれる事になった。

 終戦があと一ヶ月早ければ、もしくは事件があと一ヶ月遅ければ、と。どうして戦争が終わってしまったのだとすら思った。戦争さえ続いていれば、やむを得ない事だと割り切る事が出来たのに、と。

 そうしてどうする事が出来た訳でも無い後悔に苛まれて初めて、自分が薫を愛していたのだという事に気が付いた。

 以来、河上にとって女と言う生き物は存在しないも同じになった。以前から、女体を欲するという事は無い。肉体として、生物としての女には、最初から何の感情も沸かなかった。

 その上薫の喪失によって、精神的な存在としても女は消えた。女は薫が唯一であり、二度と手に入らず、代わりも居ない。代わりを求めようと言う気にもならない。

 女はただ、無聊(ぶりょう)を慰めるゲームの相手として在ればそれでいい。


 切れた鈴の紐の代わりは、新たに買い求める必要があった。余計な物は持たない生活のおかげで、都合の良い糸も無かった。

 会社の帰りに雑貨屋により、適当な色糸を求める。鈴を吊るすのだから、ほんの僅かな切れ端が有れば足りる。しかし当然の事ながら、糸は糸巻単位でしか売っていなかった。

 止む無く糸巻を一つ買う。必要な分を使えば、後はほとんど新品同然の糸が、大量に不要になる。

 普段ならば躊躇(ちゅうちょ)無く捨ててしまうところだが、流石に少し惜しいと言う気がした。糸の切れ端を不要と断じて捨てていたために、かえって大量に不必要な糸を余らせてしまっている。

 そう考えると、不要に思える物を全て捨てると言うのも、案外合理的では無い様に思える。

 今は不要にしか思えないが、少しは取っておこうと思った。ホテルの部屋が物で溢れるのは困るが、不要に思えた物が、後になって大事なものだったと思う事もある。

 紐を結び直した鈴を鳴らしてみた。低くは無いが、高いとも言えない。そんな少し錆びた音が、昨日と同じ様に鳴った。


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