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鬼哭の湊  作者: 無暗道人
第一章
6/22

6

 思ったより、ずっと若い男だった。

 河上より少し年上くらいだろうか。まだ三十にもなっていないだろう。ダークスーツ、地味なネクタイ、きちんと分けた髪、絵に描いた様な大手の社員だった。


「なんで初めから俺の所に話を持って来なかったんだい、清河(きよかわ)さん?」


 大手貿易会社の開発社員。湾来(わんらい)進出のための下準備に駆け回っている、下っ端らしい。


「何分我が社の進出は、まだ公表前の企業秘密ですから。私が表だって動く訳にはいかなかったのですよ」


 清河の事も、山縣を使って調べがついていた。武市や岡田の背後に居る男という事は、容易に想像がついた。若いから切れ者なのかとも思ったが、そういう風でも無い。

 直接会って話がしたいと連絡を入れると、すぐにでも飛んできそうだったので、仕事を口実に時間を指定した。午後十時、事務所には誰も居ない。誰かが来る心配も無い。

 なぜ自分はこの時間を指定したのだろうか。人に見せられるものでは無い事をやろうとはしているが、それだけが理由と言うのは、自分自身釈然としなかった。


「価格の交渉をまず済ませてしまいたいのですが」

「武市からいくらで買い取るつもりだったんだい?」

「相場の三割増し」


 武市が岡田をダミーにして持ちかけて来た値は、相場の二割増しだった。買い取り金額に一割の上乗せ。そこに報酬を加えれば、岡田の借金をきれいにしてやっても、まだお釣りがくる。


「どのくらい増やしてもらえるのかな?」

「相場に四割か五割は乗せましょう」


 吹っかけられる覚悟はしてきたらしい。簡単にかなりの大金を提示してくる。だが、覚悟してきたのはそれだけだろう。

 所詮、大資本と言う虎の威を借りているだけの、甘い考えの若造だ。金さえ積めば、まだ取引が成立するものと思い込んでいる。

 お前は俺の、金で解決できないものを起こしちまったんだ。それを教えてやるために、呼んだんだ。


「手付金は?」

「すぐに五百万は無理ですよ。それでもあるだけのキャッシュをかき集めてきました」


 清河が内ポケットから封筒を取り出す。受け取って中を検めた。三百万。

 封筒をズボンの後ろポケットにねじ込んだ。清河の顔がほころぶ。子供の顔になった。子供でも、宅配でゴミを送りつける、事務所に忍び込んで荒らす、そうして大人を潰す事が出来る。

 そしてきれいな顔と手のまま出世していく。穢れを知らない、清らかな子供のままで。虫唾が走る。


「河上商会の全株式の引き渡しは、本契約が終了した時点に行うとして」


 清河が身を乗り出してくる。河上はそれを手で遮り、冷然とした視線を向けた。


「事務所の壁にある事無い事書いた紙を張り付ける、中を荒らして何か盗られたんじゃないかと言う疑惑を持たせる。地味なやり方だが、結構利くんだよな、これが。

 社会的信用って奴は、案外簡単に崩されちまうもんだ。あそこに限ってそんな事は無いなんて麗しい信頼は、期待する方が馬鹿だ」

「うちとしては報酬の他に、多少の礼金のご用意もありますが」


 清河の頭の中にはまだ数字があるだけだ。数字が、利害が人を動かす。それは確かに真理だ。だが何事にも例外はある。今がそれだ。


「俺には全然効かなかったぜ。腹を立てはしたがね」


 河上がにやりと笑った。清河はその意味が分からないのか、あいまいに笑い返した。


「帰ってくれ」


 清河の顔が凍りついた。


「帰れ、お前にもう用は無い」

「どういう意味です?」

「そのままの意味だ。俺は嫌がらせの損を弁償してもらった。それだけの事だ。ま、ちと少ないかもしれんが、大目に見てやろう」


 河上は椅子を鳴らして勢いよく立ち上がった。


「まさか?」

「そのまさかだよ」


 いきなり清河の横っ面をはたいた。腕の力を抜き、鞭を使うつもりで張る。横面を向けた清河が、目を剥いている。

 股間を蹴り上げた。清河が声を上げてうずくまる。くの字に折り曲げた腹に、蹴りを入れて吹っ飛ばした。

 歩いて近づくと、仰向けに倒れたまま、低い呻きを上げている。


「訴えてやる。警察に、訴えるぞ」


 清河の顔は紅潮し、こめかみには青筋が立っていた。だがこの期に及んでもまだ、他人に助けてもらう気でいる。

 呼ばなければ警察は来ないし、ここで大声を上げても誰も助けには来ない。


「貴様を刑務所に送ってやる」

「好きにしろ」


 河上は脇腹を蹴りつけた。腰骨の少し上、背中よりの部分。清河の顔からスッと血の気が引いて、玉の様な汗が噴き出してきた。

 人を蹴り殺す時はこの急所をやるのが良い。腎臓。それほど痛くも苦しくも無いはずだ。だがはらわたをかき回される様な嫌な感覚がする。

 二十回も蹴れば内臓が壊死し、三日後には血尿を流しながら死ぬだろう。十回でも、運が悪ければ死ぬ。間隔を置きながら、蹴り続けた。


「脅し、じゃない、本当に、訴える、ぞ」


 息も絶え絶えになっていた。もう一度蹴りつける。目の光が無くなった。


「警察に行ったところで、何と説明するつもりだ? 酔っぱらって喧嘩した事にでもするか?

 お前がやった事がバレれば、お前の方こそお縄だろう。それに俺に渡した金は裏金、要は賄賂だ。こいつもどう説明を付ける気だ?

 非合法な嫌がらせに失敗したので賄賂で買収しようとしたら、嫌がらせの報復を受けて賄賂も取られましたと言うか?」


 清河は何の反応も返さず、ぼんやりと天井を見つめている。また蹴った。急所を手で庇おうとする。腹を踏みつけ、手がそちらに行った隙にまた蹴った。

 清河の顔が歪んでいた。顔を濡らしているのは汗ではない。殺してやる。その意思をはっきりと感じ取り、恐怖に怯えている。一定の間隔で蹴り続ける事が、その恐怖をより際立たせる。


「待ってくれ」


 少しだけ待った。もう蹴られない。そう安堵したところに、また急所。


「金は、やる」


 絞り出した声だった。清河の股間が濡れていく。まだ血は混じっていない様だ。事務所の床を汚しやがって。


「金はやるから、殺さないでくれ」


 もう一度蹴った。蹴り上げ気味に蹴ったので、清河の体は人形の様に跳ね、転がって動かなくなった。襟の後ろを掴んで引きずり、外に放り捨てた。

 モップを持ちだし、事務所の床をきれいに掃除した。まだ臭いが残るが、幸い朝までまだ時間が有るので、換気をすれば大丈夫だろう。

 全てを片付けて事務所を出ると、清河が捨てた時と同じ姿で横たわっていた。朝までこのままで居られて、通行人にでも見つかれば面倒だ。

 清河の体を引きずって路地裏に入った。適当なゴミ置き場が有ったので、そこに仰向けに放り捨てた。

 財布から札だけを抜き取り、投げ捨てる。酒を振りかけて臭いをさせれば、ときどき見かける酔いつぶれにしか見えない。

 外傷は脇腹にあざが残る程度なのでまず気付かれない。気付かれたとしても、札の抜かれた財布を見れば、酔っ払いがチンピラになぶられて、金を取られたくらいにしか思われないだろう。


 路地から表通りに出る所で、待ち構える様にしている人影を見た時は流石にぎょっとした。


「派手にやったじゃねえか」

「杉か、脅かすなよ。いつから見てたんだ?」

「人一人引きずって、路地に入る辺りからだな」

「俺を通報するかい?」

「まさか、気に入らねえ奴を半殺しにするくらい、俺も時々やっている」

「お前と一緒にして欲しくは無いね。俺はただ、今の自分の生活を守るためにしかたなくやっただけだ」

「生活を守るだけなら、半殺しにする必要は無いだろう。むしろ、あれは死んだかもしれないぜ」


 思わず舌打ちを漏らした。


「そんなつまらん事を言うために待っていたのか?」

「まさか。そう剣呑になるなよ。どこかで飲みながら話そう。奢りでもいいぜ」

「明日も仕事なんだ。ほどほどにしたい」

「いいや、必ず飲むはずだ。お前は戦の後は、いつも酒だった」


 上官でありながら、それ以前に戦友であり、戦友である以上に、友だと思っていた。それが時々煩わしくもなる。


「来な。その気があるならな」


 まるで河上が着いて来ると確信している様だった。迷いは一瞬で、結局河上は杉の後に付いて行った。簡単に終わりすぎて、酒でも飲まなければ物足りない。

 物足りない? 何を考えているのだ。もう殺し合いの世界からは、足を洗ったはずだ。それに、一方的ななぶり殺しなど、好んだ事は無かった。

 杉は本当に手近なところを適当にと言う感じで、最初に行き当たった居酒屋に入った。席に着くや否や二人分注文したのは、最安のウイスキーだった。

 軍隊に居た頃、支給品として馴染み深かった銘柄だ。河上はこれで酒の味を覚えた。流し込むように飲むと、胸がかっと熱くなる。


「正直な話、うれしかったぜ」


 舐める様に飲みながら、杉がそんな事を言った。


「なんだ、藪から棒に」

「『紅夜叉(べにやしゃ)』が相変わらず『紅夜叉』でいてくれた事さ」

「五年も経ってその異名を呼ぶのは、もうお前くらいのもんだ」

「だからこそだ。あの頃の事を、忘れる事も、無かった事にもできやしない」

「それはそうだろうが、人は変わる。変わらない訳にはいかないだろう」

「へえ、何が変わった?」

「俺はもう修羅場の少年兵じゃない。いい大人で、そこそこ責任も背負っている。あんまり無茶な事をする訳にもいかない」

「それは、お前を取り巻くものが変わっただけだろう。お前自身が変わったようには見え無いな。上辺の所を周りに合わせているだけだ」


 残りの酒を一気に飲み干し、乱暴に音を立てて置く。


「何が言いたい?」

「人が変わるとしたらそれは、何かを無くした時だ。俺達は戦争が終わった時、それまでの全てを亡くした。だからこれ以上何も無くせやしないし、変われやしないという事さ」

「全てを無くしたとしても、五年も経てばまた色々と抱え込むだろう。それを無くせばまた変わりもするさ」


 新しい酒を自分で注いだ。


「何か無くしたのか?」


 酒に口を着ける手前で手が止まった。何か無くしたかと問われれば、何を無くしただろうか。そもそも何を無くすのだろうか。会社か? 裏でこそこそする連中に腹は立ったが、会社を失う事は特に何も思わなかった。


「牙の……むき方かな」


 杉が笑った。


「冗談がきついぜ。たった今、お前は牙をむき出しにしてきたんじゃねえか」


 止まっていた手を動かして、酒を一気飲みにする。無性に酔いたくなった。


「五年間しまっていた牙をむき出しにするほど、気に食わなかったのか?」

「お前は知っているだろう。人を使って戦をして、負けたら自分一人逃げる大将が、俺は一番嫌いなんだ」

「あの若造が、そういう大将だった訳か」

「あいつだけじゃないさ。あいつの下も、その下も。どいつもこいつも大将気取りのくせに、体を張ろうと言う奴は一人も居ねえ」

「汗をかかずに脳味噌を使って上手く事を運ぶ奴が偉いって風潮か。だが軍人にだってそう言う奴は居ただろう」

「頭を使う事を専門にする奴がいるのは別に構わないさ。当然の事だ。ただそれならそれで、しくじった時の責任を取れって話だ。

 汗もかかず、責任も取らねえで、上手く行った時だけ良い思いしようっていう、腐った根性が気に入らねえ」

「なるほどな」


 杉がまた少し酒を舐める。まだ一杯目が半分減ったくらいだ。


「ついでに聞くが、戦争が終わったのでもうお前らは必要ないと、ほとんど身一つ同然で放り出されて、今も生活に困っている元兵士達が大勢いる事はどう思う?」

「どうしようもないさ。あの頃は政府なんて名ばかりの抜け殻同然だったし、今も葛城さんががんばっている様だけど、結局は自力でどうにかするしかない」

「自力でどうにか、か」

「戦場と同じだろう。死にたくなけりゃ自力で生き延びるしかない。戦場でそれが出来たんなら、今の世の中でもできないはずはないだろう」

「戦場で『紅夜叉』と謳われて、戦後は貿易会社の社長さんが言うと違うねえ」

「よせやい。どっちも自慢にもならん」


 少しばかり口が回る様になってきた。酔ってきたのだろうか。


「お前が半殺しにした男、あいつは自力では何もできないガキんちょか?」

「ああ、大手貿易会社の社員だか何だか知らねえが、交渉も会社の資金力頼みだし、ぼこられてもまだ警察がどうのこうのと、誰かに頼りっぱなしのガキだったよ」

「大手貿易会社? 何処の会社だ?」

「どこだったかな、本社が西の方で、湾来に進出を狙ってうちにちょっかい出してきたんだが」

「本社が西で、最近こっちに進出を狙っているとなれば、F社か」

「そうそうそれだ。知ってるのか?」

「葛城さんと対立している某大物政治家とベッタリだって話だ」

「政治家とベッタリな大企業か。ありがちな話だな」

「お前のおかげでF社の進出が阻まれて、会社どころかその政治家にも痛手かもしれねえな」

「知るか。俺は俺の周りでこそこそ嫌がらせを仕掛けてきた奴らに、それ相応の支払いをさせてやっただけだ。まさか政治力を行使して報復なんかしねえだろ」

「まあ、騒ぎ立てたくは無い事だろうし、お前の事なんか歯牙にもかけちゃいねえだろうな。単に下っ端がしくじったって話で終わるだろう」

「しかし、屑みたいな連中がちょっかい出してきた大元の理由が、政治家と大企業の勢力拡張とは、くだらねえなぁ」

「だがそんなくだらねえことに翻弄される様な小さな会社を、お前はこれからも大事に守って生きていくつもりなんだろう?」


 そうだ。とはどうしても言う気にはなれなかった。元々食うために始めた事で、割り切ってやっている所があった。

 いつのまにか簡単に事業をたたんでそれで済むものでも無くなっていたが、仕事に情熱の様な物を燃やした事も無い。


「なんだ、大人しく会社を経営している気は無いのか?」

「そういう訳でも無いが」

「なら、もし何か面白い事がしたくなったら、俺の所に来い。一枚噛ませてやるくらいはできるだろう」

「また碌でも無い事をやらかす気か?」

「面白い事をやるのさ。面白みのない人生は、つまらねえだろう?」

「まあ、気が向いたら行ってみる」

「『紅夜叉』なら、いつでも大歓迎だぜ」

「行ったとしても、それはもう『紅夜叉』ではねえよ。ただの零細企業の若社長だ」

「まあ、どっちでもいいさ。じゃあな。支払いは持っておくぜ」


 杉は伝票を掴んで席を立った。河上は杉の後姿を追わず、三杯目の酒を傾けた。

 ホテルに帰って部屋の鍵を差し込んだと思ったら、事務所の鍵を差し込んでいて、初めて自分が酔っている事に気付いた。


 三日ほどして、新聞に小さな記事が載っていた。路地裏に死体。あの若造だった。

 案の定、酔っていたところを暴行を受けて金を奪われ、その際運悪く死亡したと言う事になり、大した事件にもならずに消えた。

 五年ぶりに人を殺した事になるが、河上はいつものように新聞を折り畳み、デスクの端に放り投げた。


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