5
四時間半ほどの睡眠しかとれなかったが、頭は冴えていた。
何事もなかったように会社に出て、いつものように業務をこなした。小松も、いくらか小声であいさつをした以外は、特に変わった様子は見せなかった。
電話に手を伸ばす。
岡田の賭場に電話をかけた。なかなかつながらず、三十分おきに掛け直して四度目にようやくつながった。無論、岡田は居ない。
名前と要件を告げると、十分ほどで岡田から電話がかかってきた。
「会社を売る気になったって? 河上さん」
「この前と同じ条件ならな。相場の二割増しだ」
「こっちはのどから手が出るほど欲しいんだ。三割増しだって出せなくはないが、できれば二割で勘弁してもらいたいね」
「構わんよ、二割で」
電話口の向こうから喧騒が聞こえる。岡田はどこかの酒場にでも居るのだろうか。
「ただ他にも一つ条件があるんですよ、岡田さん。いや、見方によっちゃ二つかな」
社員デスクの方をちらと見る。岡田と言う言葉に反応して、小松が隠れるようにこちらの様子を窺っている。
「今月一杯は仕事がしたい。まあ色々と整理がついていた方が、そちらにとっても都合が良いでしょう?」
「まあ、あまり取引がややこしい時に引き渡されるよりは」
「それで、八百万ばかり用意できませんかね。現金で。仮契約を交わしても良いですよ」
「手付金で八百万と言うのは、ちょっと法外じゃないかね?」
岡田の声がやや曇る。
「だから仮契約を結んで、一部前払いと言う格好にしてほしいんですよ。
こっちはいろいろ事故がありまして、今月一杯で損害を取り戻してから引き渡したい。そのために資金が欲しいんですよ、分かるでしょう?」
お前の嫌がらせのせいで生じた損害だ。こちらが取り返そうと思うのも、そのために資金が欲しいと言うのも、当然だと分かるだろう?
「八百万か。少し考えさせてはくれんか?」
「買い取る資金があるから話を持ちかけて来たんでしょう? 一部先払いにしたところで、何の問題も無いと思うが」
「まだ月頭だ。今月一杯ったって丸一月あるじゃないか。返事は明日まで待ってくれ。場合によっちゃ、もう一度条件を話し合わなくちゃならない」
普通に考えれば条件を話し合うのは河上と岡田だ。しかし岡田の頭の中にあるのは、岡田と武市の話し合いだろう。
「まあ、待ちましょう。でも条件は変わりませんよ。呑めないなら、この話は無かった事に。ああそうだ」
さも思い出した様に、声を高くする。少しわざとらしいだろうか。
「どのみち今月中に仕事に区切りをつける気でいるんだ。だから月末には事務所の金庫には現金が詰まる事になるだろう」
「現金」
「話がまとまらなければ、その金で新しいプロジェクトを始めようと思ってね。もし会社を買ってくれると言うならば、多少は高く評価してほしい所だよ」
「そ、そりゃあもちろん、現金を持っていると言うのは強みだからな」
「流石、話が分かる。じゃあ明日、良い返事を待っているよ」
受話器を置いた。岡田はきっと食いついてくるだろう。
いや、岡田ではなく、その裏に居る武市か。どちらにせよ食いつくはずだ。個人経営の会社の資金は、オーナー社長個人の財布にも等しい。
金の臭いを嗅ぎつければ、涎を垂らしてやってくるはずだ。札束相手に馬鹿らしいと思うのは、戦場上がりだからだろうか。
翌日、岡田は返事の電話を寄越してきた。全ての条件を飲んで契約を結ぶ。契約は明日の十二時半、河上商会の事務所に岡田が来て契約書を作る。間違いなく約束を取り付けた。
仕事が終わってからホテルで電話を借り、番号を確認して電話を回した。
河上商会は十二時から昼休みだ。時々弁当を持ってくる奴もいるが、大抵は外に食べに出る。だから昼休みの事務所には誰も居ない。その方が都合が良いからこの時間を指定した。
そいつらは岡田が来てから五分もしないうちにやって来た。乱暴に扉を開け、どやどやと事務所に入ってくる。三人居るが、全員見るからに柄が良くない。岡田がさっと顔色を変えて立ち上がった。
仮契約書はまだ作っていなかった。だが応接間のテーブルの上に、八百万の入った封筒が置いてある。中身を確認し、契約書の形態について話し合っていたところだ。
「なんだね? あんたら」
河上も立ち上がった。
「社長さんに用じゃねえんですよ」
先頭の男が答えた。三人とも、嫌な薄笑いを浮かべている。
「しかしここはうちの事務所だよ」
「そいつは分かってますよ。用があるのはお客さんの方でね」
岡田は目を見開いたまま金縛りにでもあったかのように動かず、脂汗を顔一杯に浮かべていた。蛇ににらまれたカエルと言うのは、こんな感じだろう。
「ここで取引があるってのは本当かい?」
「取引ってほどのものじゃないがね」
「だが、金が動くんだろう?」
「話し合いがまとまればね。契約書を交わして、手付金で八百万を受け取る事になっている」
河上がテーブルの上の封筒を指す。
「八百万ね。現ナマらしいな」
男たちの眼が、テーブルの封筒に注がれる。
「なあ、岡田さん。あんた大した買いものする金が有って、どうしてうちに返す金がねえんだい?」
ねっとりと絡み付く様な、それでいて決して逃がしはしないと言う凄みをにじませた声で、男が岡田に語りかける。
「そ、それは」
岡田が封筒に手を伸ばす。封筒に手が届く前に手首を掴まれて、捻り上げられた。
「私の金じゃない。だからあんたたちに払う訳にはいかないんだ」
「ねえ、社長さん。お宅と岡田さんの取引でしょう、こりゃ?」
「うちとしては、そのつもりなんだがね」
「なら、岡田さんの金って事だ」
「待ってくれ!」
岡田が叫ぶ。
「岡田さん、あんたも往生際が悪いね。現ナマを前にして、俺達が引き下がると思ってるんですかい。こっちも首が掛かってんだよ」
「しかし、本当にそれは」
「待てよ」
河上が口を挟んだ。岡田の眼に、一瞬すがる様な光が灯る。
「社長さんには関係の無い事でしょう」
「ああ、関係ないね」
岡田の眼から、完全に光が消えた。
「だからこそだ。ここはうちの事務所だ、そっちの揉め事は他所でやってくれ。後になっていろいろ面倒事に巻き込まれるのは御免だからね。
まだ契約書も何もかわしてないから、金を払ってもらえなくなったのなら、こっちの話は無かった事になるだけだ。うちは別にそれでも問題は無い」
「河上さん」
「よしましょう、岡田さん。借金抱えてうちを買おうなんて、どうかしてるよ。そっちをきれいにする方が先でしょう」
手慣れた様子でしゃべっていた男が岡田の腕に金の入った封筒を抱かせ、二人が左右から岡田の脇を支えた。
「あまり人は居ないが、目立たないように出て行ってくれよ。変な誤解を招いたら面倒だからね」
岡田はまだ何か言いたそうにしていたが、リーダー格の男が合図をすると、酔っ払いでも引きずるように連れて行かれてしまった。多分、もう会う事は無いだろう。
借金取りに電話をして取立人を呼んだのは、河上だった。八百万の借金だ、連中にしてみればたとえガセネタだとしても、無視はできないだろう。案の定、教えた時間ピッタリにやって来た。
全ては山縣のもたらした情報に基づいて、河上が推理した事だ。山縣の情報は主観を交えない完璧な仕事人の報告で、分からない部分は分からないと断言し、推測を語る事は無かった。
武市、岡田、小松のつながりは山縣の情報によるものだ。だがそれだけならば一連の事件の全貌は、見えないままだったろう。もう一つ重要な事を山縣は報告してきた。
岡田の賭場周辺の土地が、大手の貿易会社によって買い進められていた。すでに何ヶ所かは買われ、他の土地も交渉が続いていると言う。
立地の良くない土地と言っても、それは賭場単体で見ればの話だ。周辺の土地をまとめて買い、区画丸ごと開発すればたちまち一等地になる。
大手の貿易会社と言っても、本社を含め主な拠点は西の方に集中している。東で最大の貿易港であるこの湾来に、本格的な拠点を築く気になったのだろう。
河上商会の買収はその一環と見て間違いない。小さいとは言え競争相手を潰しつつ、河上商会の持っている貿易ルートや取引先を丸ごと手に入れる。
貿易はルートが全てだ、それは存在し続ける限り長く利益をもたらしてくれるが、一から構築するのは大仕事だ。大手貿易会社にしてみれば、河上商会以外にも二・三社を買収して統合し、ルート作りの手間を省こうと言うのだろう。
それで河上商会の社員である小松までも引き込んで、買収工作と営業妨害の二刀流で攻めて来たという訳だ。
武市はどうせ金で動いているに違いない。大手貿易会社の代わりに河上商会を買収し、報酬を上乗せして大手貿易会社に売り渡す。
大手にしてみれば面倒な手間が省けるうえに、失敗しても自分達は傷つかない。武市の方は高額報酬が得られるうえに、大手が欲しいのはルートなのだから、引き渡すまでの間に、会社の現金を懐に入れられるかもしれないという読みもあるだろう。
岡田が武市の手駒をしているのは、武市が大金を得たら借金を肩代わりしてくれるというところだろう。
そういえば岡田の賭場が借金のかたに取られた後は、競売に掛けられて相場よりは安い値で売られる事になるだろう。それを見越して大手貿易会社はあのあたり一帯の土地を買占め始めたのかもしれない。
どれもこれも山縣の報告を基にしているとは言え、河上の推測にすぎない。しかし大きくは違っていないだろう。
小松は夜中に事務所を荒らしにやって来た。岡田は金も無いはずなのに、八百万の金を持って来た。武市は大手貿易会社進出の御先棒を担いで、手駒を使って手を汚さずに金儲けを企んでいる。
戦場で最前線の後ろに居る奴らを思い出した。何かと理由を付けて最前線には立たず、後方ほど軍紀が機能しない隙間地帯に陣取って、略奪、暴行、強姦と好き勝手して、良い思いをしている。
決して体を張らず、隠れてこそこそ悪事をやって甘い汁を吸っている。全ての兵士の羨望の的であり、それ以上に嫌われ者だった。あいつらせいで血みどろの戦いをしている俺達まで、飢えた狼の群れの様に思われている、と。
はらわたが腐っている。胸が悪くなりそうだ。どんなにうまく立ち回っても、死ぬときは死ぬ戦場と違って、しくじってもそう酷い事にはならないと高をくくっている辺りも気に入らない。泳がせるために一ヶ月給料無しの処分で済ませた時の小松の顔など、思い出すだけでも殴り潰してやりたくなる。
事務所備え付きのコーヒーメーカーに残っていたコーヒーを淹れた。冷めて生温くなっている。
元々安くて不味いコーヒーだが、今日はまた一段と嫌な苦みが舌に残った。
二時にもならないうちに、武市が血相を変えて駆け込んできた。
「河上さん、あんたどこまで知ってんだ?」
河上のデスクに両手を突き、身を乗り出す様にしてくる。顔をしかめた。息が臭い。それとも、はらわたが腐っていると思うから、そんな気がするのか。
「岡田が持って来た八百万は、俺の金だったんだ」
「へえ、そうかい。どうりで」
「知ってたんだな、やっぱり。じゃあ借金取りを呼んだのも、あんたの仕業か」
少なくとも、武市が自ら金を持って河上商会を買いたいと申し出ていれば、借金取りに持って行かれる事は無かった。自分は汗をかかず、手駒を使って事を為そうとした、フィクサー気取りの末路だ。
「借金抱えた男をダミーにしようとしたのが間違いでしたね。武市さん」
武市の顔が真っ赤になる。デスクの上で拳が握られ、しばらく肩を震わせていたが、ふっと力が抜かれた。
「俺の負けだね」
武市は事務所の壁際に積んである椅子を一つ引き寄せて、落ちるように腰を下ろした。意外にも、悪びれた様子はない。糸の切れた操り人形の様だった。
「岡田は、俺の後輩だったんだよ。金が出来たら失職した岡田を雇って、カジノを開こうと思ってた。あいつはあれでも専門家だからね。もう許可を得るための手続きも始めていたんだ」
「きっと上手く行きますよ。この街にはまだ大きな店が無い」
「もう無理だよ」
「雑貨屋の土地建物があるでしょう。担保に入れりゃいくらでも借りられるはずだ」
「もう借りたんだよ。河上さんの会社を買って、それをまた売った利益と合わせた金で岡田の借金を清算してやる。残った金で十分な資金になるはずだった。だがあの八百万が消えちまったんじゃ、もうどうにもならん」
武市がどこから河上商会を買う資金を調達して、岡田に渡しているのか分からなかったが、そういうことか。
「大手貿易会社に尻尾振って、金もうけしようと考えるのがそもそもの間違いなんですよ。どうせ向こうは武市さんがしくじったら、それっきり使い捨てにする気なんだから」
「雑貨店もこの先の見通しは無い。この辺りでまとまった金を作って、新たな一歩を踏み出したかったんだがね」
「そいつは悪い事をした」
「全くだ」
武市が笑う。目が合った。目が笑っていない。
「今日の所は引き下がる事にするよ」
「引き際が良いですな。もっと面倒な事になるかと思ってました」
「ガキじゃないんだ、引き際位心得てるさ」
武市が立ち上がった。
「欲に目がくらむと、見える物まで見えなくなる。良い教訓でしょう。多少高くついたようだけど」
「そうだな」
声に力が無い。それだけではなく、何かあっさりしている。
「武市さん、あんまり悔しそうじゃないね」
「確かに、悔しいと言う気が無い。商売も止める、店も土地も手放してしまう。それが怖くて狂っていたが、いざ全部なくしてみると、かえってすっきりしたような気がするんだ。不思議なもんだな。まあ、あんたへの借りだけは忘れないでおこう」
「そりゃ逆恨みだ、そっちが蒔いた種ですよ」
復讐に来るなら、その方がまだマシだろう。だが武市が本当に復讐をするとしても、また自分の手を汚さないと思えた時だけだろう。
「小松は置いてやってくれないか? 私が唆したんだ」
「残念ながら、ネズミを飼う趣味は無いんでね」
「そうか。まあ仕方が無いか」
武市が出て行く。小松が自分のデスクで呆然としていた。河上が呼ぶと、飛び上がる様に立ち上がって、河上の前に立つ。
「君は明日から来なくていい」
小松の表情が動く。ようやく現実に戻ってきたと言うところか。
「一月タダ働きをしなくていいんだ。その方が得だろう」
「すぐに、会社を売る事にしたんですか?」
まだ半分現実に戻っていない様だ。的外れな事を聞いてくる。
「あの話はご破算だ」
「ご破算?」
ようやく小松の顔が、冷水を浴びせられたようになる。
「元々売る気なんてなかったのさ。お前達三人をまとめて釣り出すためのエサだったんだよ。お前ももう用済みだから、出て行ってくれ」
小松の全身がワナワナと震えだす。
「結局、君は人に利用されるだけの男だな。その汚らしい面を二度と見せるな。事務所荒らしで警察に突き出さないのは、君があんまり哀れだからだぜ」
それだけ言って、横を向いた。小松の拳が真っ白になるほど握られている。殴りかかって来るなら来るがいい。屑にもそのチャンスは与えられるべきだ。いまなら、無防備だぞ。
ほんの数秒、小松は河上を睨みつけていただけで、踵を返した。背中も震えていた。
人を殴る事も出来ないほどいい子なのに、性根は腐りきっている。そんな連中が、本当に増えた。




