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鬼哭の湊  作者: 無暗道人
第一章
4/22

4

 飲み方の問題か、それとも体質か、酒が翌日まで残った事は無い。朝は多少体がだるかったが、朝風呂を浴びるとそれも無くなった。

 出勤してデスクに着くと、三十分で電話が鳴った。探偵の山縣だった。


「早い方がいいかと思いましてね」

「聞こう」

「それじゃ場所を言うんで、そこで待ち合わせという事で」

「電話じゃ駄目なのか?」

「今、事務所でしょう? 社員の前で聞かせない方がいいと思いましてね」

「分かった。場所は何処だ?」


 社員の前で聞かせない方が良い。それがどういう意味かは詮索しなかった。会ってみれば分かる事だ。


 会社に戻ったのは午後になってからだった。山縣の報告にそれほど時間が掛かった訳ではない。報告から推測し、手を打ったのだ。持ち帰った土産に、小松などは目を剥いていた。


「ずいぶんと大量に仕入れの契約を結んできたものですね」


 さすがに前原は、冷静に会社の経営を見ている。


「これだけの手形、仕入れた物を捌けなければ、間違いなく不渡りを出しますよ」

「なに、期日は月末だ。ほぼ一月もあるだろう。その間に捌いてしまうくらい、そう無理な話でも無い」

「しかし、そんなに危ない橋を渡る必要も無いでしょう。そんなに経営は危ないはずはないと思いますが」

「経営は危なくないさ。でも嫌がらせのせいで確実に損は出ている。ボーナスが欲しかったら頑張って売って来い」

「もし、不渡り手形を出したら?」

「そんときは大人しく廃業するだけだ。失業者になるのは皆同じなんだから、文句は言わせんぞ」


 冗談めかしてそんな事を言うと、前原は困ったような笑みを浮かべた。


「強気ですね」

「いつまでも嫌がらせにビクビクしていても仕方が無いと思っただけさ。それよりこれで損を取り返したら、君が以前から言っていた事業計画、あれを本格的に動かそうと思う」

「獲らぬ狸の皮算用にならなければいいのですが」

「捻くれた事を。自分の企画が動き出すんだ、もっと喜んだらどうだ」

「生憎、これが上手く行ったらこうしようと言う様な夢想で喜ぶほど、子供でも無いんですよ」

「それは頼もしい事だ」


 前原は皮肉と受け取ったのか、曖昧に頷いただけだった。だが河上にしてみれば、本気で頼もしいと思っている。

 確かに前原は子供ではない。むしろ、大人になり切れていないのは自分の方かもしれないと思った。

 月末に仕入れの代金を支払うと言う手形の束を前原に預け、帳簿を付けるように命じる。

 これは罠だ。あの手形の束は、未だ正体を現していない奴を引きずり出すための、罠の上に置いた餌。

 月末の期日が来たときに、あの手形に記載された仕入れの代金が払えなければ、河上商会は不渡り手形を出す事になる。

 会社にとって不渡り手形は、決して出してはならない不信の傷だ。払うべき金を払えなかったと言う事実の、形有る証拠だ。

 一度不渡りを出した会社は二度と信用されない。河上商会を潰したい人間にとって、ここで事業を妨害すれば、確実に河上商会を潰す事が出来るチャンスだ。動くとすればすぐだろう。


 時計の針は午後十時を指していた。事務所にはもちろん誰も居ない。

 内側から鍵を掛け、入り口脇にある応接スペースのソファに腰を下ろした。明かりは点けない。

 持ち込んだ安いウイスキーの小瓶の口を開け、呷った。アルコールの主張が強く、喉が焼ける。

 あまり飲むのもどうかとは思うが、暗闇の中で時間を潰すのに、他にする事も思いつかなかった。こんな時だけは、煙草をやっていれば良かったと思う。

 今日来ると言う保証は無い。明日かもしれないし、明後日かもしれない。意表を突いて、手形の期日が近くなってから犯行に及ぶ可能性も、無くは無かった。

 だがそれほど長くは待たないだろう。それは勘以外の何者でも無かった。かつて、戦場に居た頃に冴えていた勘だ。

 小瓶を口に運ぼうとするのを、三回に二回は抑えながら待った。闇の中では時間が長い、抑え気味にしないと、ほとんど一気飲みの様になる。

 こういう時、数を数えながら待つのが習慣だった。時間を計る様に、声に出さず一定のリズムで数を数えていく。

 闇が体にしみ込んでくる。あるいは、自分が闇に溶けて行く。同じ事だ、闇と自分が一体になっていく。そうして、獲物が来るのを待つ。

 懐かしい闇だった。ただ光を遮られた闇とは違う、獣の気配のする闇。獣の気配を探してみた。あるのは、自分の息遣いだけだった。獣は、自分。

 時計の針を見た。夜光塗料が塗られた針が重なって、真上を差している。十二時。

 足音が聞こえた。やはり、来た。ただ足音は複数あった。他にも仲間がいたのか、それとも人を雇ったか。人数次第ではちょっと面倒だ。

 鍵が開けられ、様子を窺うように扉が開かれる。入ってきたのは三人。明かりは点けず、小さなライトを持っている。

 やり過ごしてから、音を立てずに立った。外に人が居る気配はない。明かりを点ける。三人が弾かれた様に振り向いた。二人の顔は知らない。


「社長。お、俺は」

「言うなよ、小松。分かっているさ。分かっているから待っていたんだ」


 二人の男が狂暴な顔つきになる。だがどこかの組織の者と言う感じではない。刃物を隠し持っている様子も無かった。

 三歩後ずさり、応接間にスペースを取られて通路になっているところに陣取った。唯一の出入り口は背中の後ろだ。下がった事よりも、逃げ道を塞がれたと言う思いが強いだろう。

 体の左側面を壁に着ける様に立つ。通路の幅では、二人同時には襲い掛かれない。一人ずつ、正面から掛かるしかない。

 その上右手を使おうと思えば、相手も左の壁に着く様にして、右側のスペースを確保するしかない。つまり攻撃は、対角線を描く様に来る。

 男が右の拳を振りかぶった。素人。殴る前に肘を引けば、これから殴りますと教えている様なものだ。正面から攻める時に使うものではない。

 右に一歩避けながら左手で、殴りかかってきた右腕の手首を掴む。掴んだ腕を引く様に半回転しながら、つんのめってきた男の頭を、横から壁に叩きつける。

 二度、三度頭を壁に叩きつけ、足を払って放り投げる。床に倒れた男の腹に、蹴り。腹を押さえて体を丸くする男の顔に、蹴り。

 音の外れた叫び声を上げて、もう一人が掴みかかってくる。首を絞める気か、両手を前に突き出して突進してきた。

 両腕を同時に使えなくする馬鹿。左手で胸倉を掴み、引き寄せる。突き出した両手は、義介の首を通り越して後ろに突き出た。

 右手で腹を何度か殴る。腕をL字に固定して、背筋を使って殴る。その方が効く。

 少し大人しくなったところで突き飛ばし、腹に思い切り蹴りを入れる。体が面白いように吹っ飛んで、デスクに背中からぶつかった。


「この二人は何処の誰だ? 前からお前が使っていたのか?」


 小松は背中を壁に着けて、こちらを向いて震えている。何を聞かれたかも分かっていない様だ。


「お前に聞いてんだよ、小松」


 名前を呼ばれて初めて自分の事だと分かったらしい。びくりと体を跳ねらせる。


「こいつらは前からのお前の手下かって聞いてんだ」

「ち、違う。金庫の金をやると言う約束で、今夜だけ雇いました」

「酒場なんかを回って、空き巣をやってやろうっていう奴を探したのか?」


 小松が何度もうなずく。


「ならもう用はない。後は俺とお前の話し合いだ、部外者は帰ってもらおう」


 河上はデスクに吹っ飛ばされた男の襟首を掴み、入り口まで引きずった。


「立て。立てねえほどじゃねえだろ。ほら、お前もだ」


 男二人を立たせると、ドアを開けて外に押し出す。


「ガキはもう帰りな。これに懲りたら、もう悪い誘いなんか受けるんじゃねえぞ」


 二人の男は叱られた子供の様に小さくうなずくと、うなだれたまま帰って行った。


「さて、大人の話し合いと行こうか。まあ座りな」


 顎で応接室を差すと、小松は大人しく入ってソファに腰かけた。義介は応接間に入ろうとして足を止め、デスクの周りを少し片づけてから小松の向かいに座った。

 しばらくそのまま向かい合っていた。小松はテーブルの上に目を落とし、時々こちらの様子を窺う様に上目づかいで見てくる。

 小松とは同い年だった。ただ最低限の読み書きしかできない義介と違い、高等教育を受けている。これからはそういう男が必要になるだろうと思って雇った。

 しかしどうしても好きにはなれない男だった。臆病な所があるのはいい。それは個人の性格で、そういう者も居ると言うだけの事だ。戦場にだって臆病者はいたし、臆病者でも立派な戦士は居た。

 性格が臆病と言うのは別のところで、駄目な奴だと言う気がしていた。性根が愚図というのか、ただの小心者ではなく、人間としてどこか腐っている。


「参ったね」


 呟いた。小松がちょっと身じろぎした。目が合う。河上が先に逸らした。


「以前事務所が荒らされた時、あの時点で妙だと気付くべきだった。鍵をこじ開けた形跡はないし、何も盗られちゃいなかった。

 物取りが目的じゃないのは分かるが、鍵についてはもっと気にするべきだった。社員には事務所の合鍵を持たせていた。朝一に出て鍵を開けておくのが面倒だったからね。

 今にして思えば、もっとセキュリティってやつを気にするべきだったよ」


 来客用の煙草と灰皿を引っ張り出し、煙草に火を点けて小松に差し出した。小松は震える指でそれを受け取ったが、ほとんど吸わずに目を泳がせている。


「参ったよ、全く」


 もう一度言う。小松の表情はまだうつろだ。


「とりあえず、理由を聞かせてもらえるか」


 吸わないままの煙草から灰が落ちそうになり、灰皿で受け止めた。小松の手から煙草を奪い取り、灰皿で揉み消す。


「俺に恨みでもあるのか? 恨まれる心当たりはないんだがね」


 黙っていては何時まで経っても話さないと思い、挑発するように言ってみた。微かに反応があった。


「会社を潰してお前に何か得があるのか? 一緒に失業者になるだけだろう?」

「あなたは」


 小松が一言言って、一度深く深呼吸した。


「あなたは礼儀ってものを知らない。私はちゃんとした教育を受けたんだ。あなたと違って」


 一大決心をしたように、真っ直ぐこちらを見据えて、強い口調で言う。


「俺に学が無いのが許せないのか? 仕方が無いだろう、両親ともに死んじまって、軍隊に行くしか食っていけなかったんだから」

「社長はあなただ、使われることに文句は無い。だが使い方ってものがあるだろう。

 学問無しと同じ様に扱われたんじゃ、何のためにわざわざ学校を出て、他にそういう人間のいない会社に就職したのか分からない」


 小松にすれば覚悟を決めたのだろうが、話の内容はつまらないものだった。勝手な目論見が外れた事で恨まれては、たまったものではない。

 それに、学問無しと同じ様に扱われたのではと言うが、逆に言わせてもらえば、新人でも先輩と対等に扱ってやったのだ。

 要は、自分が特別扱いされるだろうと言う目論見が外れた事に対する逆恨みだ。そしてこいつは、自分が特別扱いされるに値すると思っている。

 だから自分を特別扱いしなかった河上商会に対して、復讐する事は正当だと思っている。その根拠は、河上商会には他に高等教育を受けた人間が居ないと言う理由だ。

 小心な人間は、つまらないところで自分を特別視する、正当化する、あいつらとは違うと思い込む。そしてそれに固執する。すがりつく。

 自分に自信が持てないから、何かに頼る。それを脅かされると、他人に危害を加える事も正当化する。

 河上は大きく息を吐いた。もうこいつの思いはどうでもいい。それよりも、この始末をどうつけるかだ。


「警察に行くかね?」


 小松の体がびくりと跳ね上がった。懇願するようなまなざしを向けてくる。


「魔が差したんです。社長が憎くてやった訳じゃない。ただちょっと困らせてやろうと思っただけで、ただ加減を間違っただけなんです」

「なんであろうと、君は不法侵入と、窃盗未遂と、威力業務妨害をやった事には変わりない」


 厳しい声音で脅し上げる。罪状の方は、それっぽい物を並べてみただけだ。


「そんな」


 目に涙を浮かべている。男が何て目をしてやがる。泣いて謝って許しを請うくらいなら、最初からしなければいい。今になって泣き落としで許しを請うなど、虫が良すぎる。

 テーブルの隅に、ウイスキーがまだ少し残っているのが目に入った。呷る。もう喉は焼けなかった。


「会社から犯罪者を出したくはない。信用に関わるからな」


 たっぷり間をおいてからそう言った。途端に小松の顔が値踏みするようなものになる。反省の色などは、微塵も無い。


「実は今月一杯で会社を売ろうと思っていたんだ。まだ買い手にこちらの意思は伝えていないのだがね」

「魔が差したんです。本当に」


 同じ言い訳を繰り返す。そうしながら、腹の底ではどう立ち回るかを計算しているのだろう。腐っている。


「社員にしてみれば上司が変わると言うだけの事だが、俺としては売る前に損を取り戻したい。売るにしても、良い状態の方が高く売れるだろうしな。分かるだろう?」

「それはもう、その通りで」

「馬鹿みたいに大量に仕入れの契約を取り付けてきたのもそれだ。現金の多くある会社はうま味のある買い物だ。良い値がつくだろう」

「そうでしょうとも」


 小松の表情は、すっかり追従者のそれになっている。今すぐに唾を吐きかけてやりたくなる。


「君は今月給料無しだ。頑張って俺の退職金を作るんだな。雇い主が変われば、君の学歴を評価してくれるかもしれん」


 一瞬、小松の表情に喜びの色が浮かんだ。


「もういい。帰れ」


 手で追い払う様にして促すと、小松は少なくとも見た目は大人しく帰って行った。

 僅かに残ったウイスキーを全部飲み干す。そのまましばらく目を瞑っていたが、立ち上がり、事務所の明かりを消した。

 外に出ると、夜風が嫌に冷たかった。体が火照っている。

 それは酒を飲んだからだけではないし、喧嘩をしたからと言うのも、間違ってはいないが、正しくはない。

 血が沸き立っている。それも、喧嘩による一時の高ぶりではない。体が昔を思い出している。

 容易く忘れられるものでも無いという事か。あるいは、体に染みついたものは、一生忘れないのかもしれない。

 そうだとしたら、厄介な事だ。この獣は、もうどこにも必要とされない。絞め殺すように押さえつけながら、不死身の獣を飼っていく。

 いつ檻を破るか知れたものではないし、そんな風に飼い殺す事自体、好きにはなれそうにない。願わくば、ずっと眠り続けていて欲しい所だったが、馬鹿どもが揺り起こしてしまった。

 それとも、いつかはこうなる事だったのだろうか。どちらにせよ、目覚まし時計が掛けられてしまった事には変わりない。

 ホテルに帰ったら、初めてバスルームを本来の用途に使おうと思った。冷水のシャワーを浴びて、火照った体を冷やす。

 それこそ一時の誤魔化しに過ぎないという事実からは、目を背けておくことにした。


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