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体が思うように動かない。泳いでいるのか、それとも流されているのか。どちらともつかずにしばらくどぶ川を下り、ようやく這い上がった。
追手がかかるだろうか、それともクーデターの準備を優先して、このまま放置するだろうか。どちらにしても、まだ足を止める訳にはいかない。
とにかく人の多い所へ。杉ならば、白昼堂々とでもやる時はやるであろうが、流石に少しは躊躇うかもしれない。それとも、裏路地に潜んだ方が良いだろうか。
一歩歩くごとに水音がする。足跡どころか、ナメクジの様に通った跡が濡れている。隠れるのは難しそうだ。
脇腹が痛む。左右両方共だ。左脇腹は、ろっ骨にひびが入って治りかけていたのが、また悪くなったようだ。右脇腹は、刺された傷が痛む。
歩く。ひたすらに、歩く。脚が重い。泥沼にはまった重りを持ち上げる様にして足を上げ、一歩、また一歩。
夜の闇の中、自分がどこを歩いているのかも分からなかった。
この辺りの暑さはたまったもんじゃないなあ、河上よ。そう吉田が言った。暑いんだから、騒がない方が良いぞ。
そうは言っても、暑いものは暑いだろう。どうしてわざわざこんな所で戦争するかね、何も無いじゃないか。
何処だって戦争はするさ。それに理由なんてない。
最初はちゃんと理由があった。攻める方は敵の側面を脅かして、包囲の形を作るため。守る方はそれを阻止し、味方の援軍が通るルートを確保するため。
そこに両軍の援軍が来て、この場で敵を叩いておこうと、味方ではない敵の敵が来て、敵ではなかった者同士が偶発的に戦いを始めて、いつの間にやら訳が分からない事になった。
どこの戦場もそんな感じだ。初めのうちははっきりしていた戦う理由が、いつの間にやら分からなくなって、それでも武器を置く訳にはいかない、底なし沼だった。
上がそんなんだから、下の俺達も戦う理由なんていらない。ただ戦う事を選んだんだ、選んだ理由は、なんとなくそうしたかったからだ。それでいいだろう。
それともお前は戦うのが嫌になったか? そう聞いたら吉田は、馬鹿を言うな、俺一人だけ降りる様な事が出来るかよ。そう言って、歯をむき出しにして笑った。
何かをするのに、その道を選ぶのに、それがなんであろうと、なんとなくそうしたかったから、そうするのが好きだから、それ以上の立派な理由などいらない。
理由など、ただのお題目に過ぎない。俺は男だ。男としての俺が、そうしたいと感じた。それで十分だ。
例えその、そうしたいから、というだけで選んだ道が、戦場と言う修羅場で屍の山を築く事であろうとも、それがどうしたというのだ。
そう嘯くと、杉は全面的に賛同し、葛城は呆れ果てて、考えを改めさせようと説教をしてきたので、逃げた。
杉の部隊は義勇兵なのだから、程度の差はあれ誰もが望んで戦場に来た者達だった。それでもこれほどはっきりと、戦争をやりたくて戦場に来ていると言う奴は、他に居なかった。
おかげで気が付けば、『紅夜叉』の異名を奉られていた。好きで戦争をやっている河上を夜叉と呼ぶのは、なるほど理に適っている。
あの頃は楽しかった。今の世の中で、こんな事を言うのははばかられる様になってしまったが、あの頃俺達は、笑っていたのだ。
勝っては肩を組んで笑い、敗走しては今回は手酷くやられたなと笑い、強大な敵相手に、杉が無茶な作戦をぶち上げた時は、面白そうじゃないかと笑った。
笑っていられる事ばかりでも無かった。戦友の死に号泣し、倒れた仲間を顧みる余裕も無く逃げまどい、飢えに苦しみ渇きに喘ぎ、死の淵を彷徨った事も一度ではない。
それでもそこには戦友達が居て、苦しい所を乗り越えてしまえば、笑って語り合ったのだ。それが心地良かった。
戦争が終わった時、俺達の青春も終わった。もう一緒に笑いあう事も出来なくなった。
みんな死んで行った訳では無い。今もなお生きて、会って話をできる奴らは大勢と言っていいほどには居る。
だがその誰一人として、戦場に居た頃の様には、笑って話ができないのだ。
もう俺達は互いを戦友だと確認できる、強烈な共通の体験と言うものが無いのだ。戦争という強烈なものを共有していたからこそ、仲間なんて言葉では足りない程に強く結びついた、戦友だった。
その俺達を繋いでいたものが無くなってしまった今。会って、昔の話をしても、どこか互いに遠いのだ。
河上自身も戦争が好きだと嘯いて回る『紅夜叉』ではなくなり、零細貿易会社河上商会の社長になっていた。そうなればもう、『紅夜叉』だった頃の様に接する事は出来ない。
何よりも自分自身、新しい時代に戦場の英雄は不要のものだと理解して、それを押し殺して生きて来た。
そういう意味では、未だ軍に残り、昔と変わらぬ不良将校ぶりを発揮している杉ただ一人だけが、今もまだあの場所に居るのかもしれない。
思い出になった過去に留まって、去っていく元戦友達をずっと一人で見送っていたのかもしれない。
悪い事をしたな、と思う。寂しい思いもさせてしまったな、とも思う。昔のままならば、すぐに気付いたはずの事を、気付かない様になっていた。
だがな、杉。もう終わってしまったんだよ。戦争は、全ては、俺達の青春は。
お前はそれを認めたくなくて、まだ意地を張っているのか。他ならぬ俺までも去って行ってしまったのが、許せなかったのか。それは済まない事をした。
だがな、杉。だからこそ、こんな事は止めにしよう。俺がお前を止めてやる。それとも、お前はそれを待っているのか?
ここが湾来だという事に気が付いたのは、繁華街に入ってからだった。すでに夜明けも近い時間なのか、酔客もほとんど見当たらない。
頭が回らない。暑い様な、寒い様な気がする。どうやら熱が出ているらしい。傷口から菌が入り込んだのだとしたら、少々まずい。
何処へ行き、何をすればいい。杉の所へ行って、奴を止める。違う。その前に、今やるべき事が別にあるはずだ。だが、何をすればいい。
帰ろう。ともかく一度、帰るのだ。見知った街の見知った道だ、特に意識しなくても、目的地までたどり着ける。ただ歩みさえ止めなければいい。
自分が歩いているのかどうかさえ、もう分からなくなっていた。立っているのか、倒れているのか。軋むように痛んでいた、全身の感覚が遠くなっていく。
音。鈴の音。足元からだ。薫の鈴が落ちている。それだけは何故かはっきりと見て取れた。拾い上げようとするが、指が思うように動かない。
どうにか紐を指に掛け、拳を握る。カラ、カラと音がする。その度に、自分が確かに歩いているという事が分かった。
頬に冷たい感触が当たり、気持ちが良い。鈴の音がしない。倒れたのか。ならば、起き上がって歩かなければ。そう思ったが、体が動かない。
歩け、歩くんだ。歩かなければならない。何故、歩かなければならないのだ?
自分が、歩き続けたいと思い、歩き続けると決めたからだ。
気が付くと、ベッドの上に横たわっていた。ベッドの硬さも、天井の色も良く知っている。ホテルの自分の部屋だ。
たどり着いたのか。記憶は曖昧で、モノクロ写真の様に色が無く、断片的だった。
「気が付いたのね」
女の声。誰だ。
「私の事、分かる?」
「恵美。何故ここに」
「言ったでしょう、あなたの事が好きになっちゃったって。でもあんな事をしたから、もう顔を合わせる事はできないと思って。それでも、せめてこの街に居たかったの。
未練がましいけれど、せめて遠くからでもあなたの顔が見たいと思ってた。そしたらあなたに似た人が、幽霊みたいになって街をふらついていたって聞いて、心配になって探したら、ホテルの前で倒れていたの」
「馬鹿が。俺に関わると、今度は売られそうになるくらいじゃ済まねえぞ」
「そうね。なんとなく、そんな気がする。あなたは凄く危ない世界で生きているんだって。私なんかが関わり合いになったら、私も危ないし、貴方にも迷惑をかけるって」
熱が引いていた。筋がこわばったような感じがするが、体の痛みは大分マシになった。
「医者を呼んでくれたのか?」
「敗血症になり掛けだったのよ。危ない所だったってお医者さんが言ってた」
「俺はどのくらい眠っていた?」
「ホテルの前に倒れていてから、二日。今日は火曜日よ」
杉に攫われてから、脱出するまで一晩の出来事だったようだ。だがこの二日で、杉はどれだけクーデターの準備を進めただろうか。
体を起こした。流石にまだ辛い。
「駄目よ。本当なら、入院してちゃんと手当てが必要なのよ」
「だが君は俺を病院に運ばなかった。目が覚めたら、俺がすぐに行こうとすると分かっていたみたいだな」
「好きになった人の事だもの。ほんの少しだけだけど、分かるわ」
「電話を掛ける。フロントまで連れて行ってくれ」
恵美は、黙って河上の脇の下に肩を入れた。
「葛城さん、まだ生きてるか?」
「河上! お前こそ死にかけたと聞いたぞ。見舞いをやったがお前が目を覚まさなくては、何があったかも分からん」
「端的に言う。杉はクーデターを起こしてこの国を乗っ取り、もう一度戦争をおっぱじめる気だ。杉を止めろ」
「なんだと。まさかそんな事が。いや、もしや今までの事は全て、杉の仕業か?」
「俺が二度目の抗争の火を点けた後辺りからは、大体全部あいつが裏で糸を引いていた」
「そうだったか。全てが明るみに出てみれば、むしろ納得がいく。あいつにとって今の世の中は、耐え難いものだったのだろうな」
「杉は今どこだ。探し出して止めろ」
「そうしたいのは山々だが、すでに先手を取られた」
「俺が寝ている間に、何があった?」
「お前に捜索を依頼していた秘書官の主人が、突然のスキャンダルで議員辞職に追い込まれた。その余波が私の所まで及んできていて、しばらく大人しくしているしかなさそうだ」
「その秘書官は杉の手に落ちた。必要な情報は吐かせたと言っていたな」
「そうか。ならば、生存はもう絶望的だな。生かしておく意味が無い」
「議員辞職と言えば、石原議員はどうなった?」
「逮捕起訴だ。クロノスとの闇取引の証拠がそろい過ぎている。政界復帰はどうあがいても無理だろうな」
「共倒れか。今回の件に無関係な政治家も、しばらくはとばっちりを受けないように、息を潜めると思うか?」
「多くの者はそうだろうな」
「杉にとっては動きやすい状況という訳か。くそっ、何もかもあいつの思い通りか」
「そうはさせん。杉の居場所は、すぐにでも突き止めて見せる」
「今、変な事をしたら、葛城さんまで政治生命を絶たれるんじゃないのか? そうなったら、誰が戦場上がりの面倒を見るんだ」
「杉を止められぬくらいなら、政治家なぞ今すぐ辞めて構わんさ」
「葛城さん。あんたも大概、戦場を引きずってるな。杉の居場所が分かったら、必ず俺にも教えろ」
「いいだろう。お前には養生していてほしいものだが、そのために黙っていたくはない」
「ありがたい事だな」
「戦友、だからな」
「いまさら、空疎な言葉だ」
「そうか。では行動と成果で示せるように頑張るとする」
受話器を置いた。息が上がっている。立っているのも辛いようだ。
ホテルにベッドに横たわり、葛城からの連絡を待ちながら、ひたすら養生に努めるしかなかった。
こうしている間に、今日にも杉はクーデターを始めるかもしれない。気ばかり逸るが、そういう時こそ腰を据えて、機を待たなければならない。
そういう意味では、無理に飛び出す事も出来ない現状は、むしろ良かったのかもしれない。
普通の飯でいいと言ったが、恵美は粥しか食わせなかった。食後に、医者が置いて行った抗生物質を飲む。
僅かでも杉の手掛かりが無いかと思い、眠っていた二日分を含めて新聞を読み、ラジオのニュースを聞く。
後藤組とヴルム―クロノスの抗争は集結していた。クロノスのボスが狙撃されて死亡し、クロノスは敗走と言う形での集結だった。
五分の戦いを続けていた後藤組に、いまさらクロノスのボスを狙う余裕があるとは思えないので、杉の手の者の仕業だろう。
石原議員を潰した、残党狩りと言うところだ。組織の混乱に乗じて、警察がクロノスの一斉捜査に踏み切れば、目をそちらに向けさせる事も出来る。
形の上では抗争に勝った後藤組だが、五分の抗争を長く続けたのだ、傷は深いだろう。
国際貿易港であり、麻薬や武器の密輸口でもあるこの湾来を狙う組織は多いはずだ。手負いの獅子となった後藤組は、鮫の様に群がってくる新勢力から、縄張りを守りきれるだろうか。
ヴルムはこの機に大きく伸びるだろうか、それとも波間の木の葉のように翻弄され、沈んでいくだろうか。
木島が生きていれば、間違いなく大きくなったという気がする。やくざらしい狂暴な顔も見せたが、それ以外ではむしろ筋を通す男で、何より組織のために命を張れる男だった。
いまさらどうでも良い事と言えば、その通りなのだが、自分の関わった事の結末だ。知っておかねばならない、という気がする。
鈴。薫の鈴が、ベッド脇の小机の上に置いてあった。鳴らしてみると、また音が低くなったような気がする。
「その鈴、ずっと握ってたわ」
恵美がベッドの縁に腰を下ろす。
「女の人の?」
「そうだ」
「どんな人?」
「俺の女だった。だがもう死んだ。だからもう、俺の女じゃない。それだけだ」
実際は、自分の方が薫の男と言った方が良い様な関係だったと思う。だがそれでも、あれは俺の女だと言いたかった。
「そっか」
恵美が遠くを見るような眼をした。
「そう言えばお前、医者に払う金はどうした?」
河上にはもう貯金も、手持ちの金もほとんど残っていない。恵美が、何も言わずに微笑んだ。
「馬鹿が。俺なんかのために金を使ったのか」
「いいの。使っちゃいたかったんだから」
「女の金で世話されるなんて、情けないだろうが」
「そんなになってもまだ格好をつけるのね」
「男だからな」
「そういう所が、好きになったのかもしれない」
「言ってろ。本当なら、どの面下げて会いに来たと言ってやるところだ。だが助けられた借りがあるから、ちょっとだけまた会ってやってるんだ」
「はいはい」
恵美がベッドから腰を上げる。
「でも、うれしい」
こちらに背を向けたままそう言うと、わざとらしく何か買ってくると言い、部屋を出て行った。
お前も大概馬鹿な女だよ、恵美。自分がそうしたいから、後先考えずにそうするなんて馬鹿な事は、男だけがしてればいいんだ。
やっぱりお前は女じゃねえな。まだ女以前の娘だ。女って奴は、もっと強かに生きなきゃ駄目だぜ。切れた男の事なんて、すぐに忘れて平然とするもんだ。
だからお前は俺の女にはなれねえよ。俺は娘っ子に手を出す趣味はねえんだ。後腐れが無い方が良いからな。
刀身に錆は浮いていない。曇りもほとんど見られない。目釘などにも緩みは無かった。
刃に指を当ててみる。当てただけで、皮膚が薄く切れていた。切れ味も申し分無い様だ。
むしろ問題は腕の方だろう。五年前に刀を置いて以来、人を斬った事は無い。使い方を誤れば、どんな名刀も棒きれと化す。
構えを取って見る。ホテルの室内では、素振りも出来ない。少しの間構えてみて、無意味だと悟った。敵と向かい合った時は、ただ構えているだけでもまるで別物だ。
鞘に納め、拳銃の方の手入れに取り掛かった。手入れと言っても、分解して埃を拭き取るくらいしかできない。
弾はオーバーロード六発を含めて、あと三十発だった。杉の部隊は少なくとも一個中隊、百五十人前後はいるだろう。
一発で一人殺しても。あと百二十人は切り伏せなければならない。向こうの武装がどの程度かは分からないが、それなりの備えはあると見るべきだろう。
正気の沙汰ではない。だが自分らしい戦場になりそうだ。




