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顔に水を掛けられた。どこだか分からない、窓の無い部屋に居る。刺された脇腹はまだ痛むが、血は止まっている。どうやら傷が縫われたようだ。まだそれほど時は経っていないはずだ。
手は後ろ手に縛られているが、足は自由だった。針金ではなく、紐で縛られているのはまだありがたかった。針金できつく縛られると、血が止まって酷く腫れる。
「お目覚めの様だな。河上」
「杉」
上体を起こした。杉を睨みつける。他に九人、切り抜けるのは無理そうだ。
「まずは俺の話を聞け」
「その前に、確認させてくれ。どこまでがお前の仕業だった?」
「どこまで、と言われると説明に困るな。
興信所をやっていた山縣元中尉は俺の仲間だった。だから、情報を売って抗争を止めさせたのは俺だ。まだこっちの準備が途中だったからな。
伊藤と言ったか、あいつの死は直接には関わっていないが、まあ俺の仕業と言えなくも無い。葛城さんの手足が減るのは、望むところだからな。
石原議員を潰すために証拠を揃えて暴露したのも俺だ。あれでも議員数十人と言う派閥の領袖だからな。潰せば混乱は大きい。これに関しては、お前が再び抗争に火を点けてくれて、仕事がやりやすくなったぜ。
ああ、お前が探していた秘書官をヴルムから分捕ったのも、もちろん俺だ。そして聞きたい事も聞きだした。これで葛城さんのお仲間は終わり、葛城さん自身もしばらく大人しくしているしかないだろう。
石原派と葛城派が潰れれば、政治に大きな空白ができる。事を起こすお膳立てが揃うという訳だ。
井上を消したのも、その前にお前を襲わせたのも俺の指図だ。お前は予想以上に鋭い動きをした。二度目の抗争が起きたのは完全に予想外だった。
それはそれで十二分に利用させてもらったが、あの時お前なら遠からず俺達の存在に気付くだろうと思った。だから、先手を打って消すしかなくなった。
お前がもっと前に、俺の話に興味を持ってくれていれば、最初から仲間に引き込んだんだがな。
まあ、大体こんな所だ」
「結局、全部テメエの掌の上だったって訳か」
「そうでもないさ。言っただろう? 二度目の抗争は完全に予想外だったって。お前はいつも俺を楽しませてくれていた。それは今も変わらないと知って、正直嬉しかったぜ。
改めて聞こう、河上。俺と一緒にもう一度、戦争を起こさないか?」
「なぜ、もう一度戦争を起こす必要がある」
「分からないか?」
「分からんな」
杉が鼻で笑う。
「世界が戦争をしていた頃、俺達は必要とされた、評価された、讃えられた。だが今は違う。
それぞれの動機はともかく、結果として、事実として、あれだけ国のために尽くして戦ったのに、戦争が終わって俺達が用済みになれば、ゴミの様に放り捨てる。それが今の現実だ。
悔しくねえのか? 俺達自身の事だけならまだいい、今も戦地の冷たい石の下に倒れる、仲間達は何のために死んだ?
戦って、生き抜いて、帰ってきてみれば邪魔者扱い。生きている俺達がこれなら、死んだ奴らはなんなんだ? みんな無駄死にだった。そう言われてるようなもんだ。
勝ったのか、負けたのか。うやむやのまま終わった戦争。残ったものは焦土と化した故郷と、お座なりの退職金だけ。何か報われたか? 失ったものの方が多くは無いか?
はっきり言おう。戦場に居た頃の方がマシな扱いだった。だからもう一度戦争を吹っかけようという訳さ」
「付き合いきれんな。第一、本当にそんな事が出来ると思っているのか?」
「政治的混乱の隙を突けば、一個中隊で国家の中枢を握るクーデターを成功させる事は可能だ」
確かに、上手く隙を突いて奇襲を掛ければ、二百人に満たない兵力で国家の中枢を抑える事は可能だろう。そして杉は、そう言う思い切った作戦を成功させるのに、抜群の才能を示していた。
「もう一度聞こう、河上。葛城さんの部下二人を殺したのは気に食わないだろうが、俺と一緒に来ないか。なあ、『紅夜叉』よ」
返事の代わりに、杉の頬に唾を吐いてやった。杉が後ろを向く。回し蹴りが飛んできた。うつ伏せに倒れる。背中に杉の足が乗るのを感じた。
「まあいいさ。時間はあるから、ゆっくり考えるんだな」
耳元でささやく様に言う。
「トイレに行けるように、足は自由にしておいてやる。じゃあな」
杉が部屋から出て行く。九人のうち六人が後に続き、三人が見張りに残った。扉の向こうに目を凝らし、ここがどこだか分からないかと思ったが、廊下の壁が見えるだけだった。
しばらくじっとして居た。脱出を図るにしても、相手が油断するまで待つしかない。部屋には時計が見当たらないので、時間も分からない。
数を数えて、六百になったところで態勢を変えた。横たわったまま壁を背にする。手を自由にするためには、何か部屋の中の物で切るか、自力で解くかだ。刃物の類は見当たらない。
結び目が少し緩んでいる事に気付いた。見張りに気付かれない様に、静かにもがく。結び目が、徐々に緩くなっていくのが分かった。
上体を起こし、壁にもたれかかった。不意を打つにしても、丸腰では厳しい。武器と言うほどでもないが、何か堅い物でも無いものかと探した。丸椅子。少しずつにじり寄った。
この場を切り抜けたとしても、外の様子が分からない。しかし、ここで待っていても分からないだろう。そのときはそのときで、自分の運を試すしかなさそうだ。
「おい、小便がしたいんだが」
見張り達が舌打ちをして立ち上がる。
「ついて来い。言っとくが、変な気を起こすんじゃねえぞ」
「安心しろよ、別にトイレまで行く必要も無いだろう」
見張りが怪訝な表情をする。
「俺がするのを、お前らが飲めばいい。杉に尻尾を振ってるだけの犬には、お似合いだ」
「テメェ!」
紐から手を抜き、激昂した見張りの顔めがけて丸椅子を投げつけた。壁を蹴るようにして立ち上がりながら飛び出し、一人のこめかみに肘を叩き込んだ。
三人目の腹を蹴って吹き飛ばし、扉に駆け寄った。鍵を掛けられた様子は無かった。ドアノブに手を掛けようとした瞬間、扉がひとりでに開いた。それも、かなりの勢いをつけて。
鼻っ柱をドアに打ちつけて、尻餅をついて倒れる。構わずに、姿勢を低くして部屋から飛び出そうとしたが、脚に抱き着かれて倒れる。
体を丸くして、腕で腹を守った。体中に蹴りが食い込んでくる。呻いた。無理に耐えるより、呻いた方が楽だ。首筋にも容赦無く蹴りが来る。
しばらく蹴られ続けてから、体を引き起こされた。膝立ちにされ、両腕を抑えられ、後ろ髪を引かれて顔を上げさせられる。目の前に、杉が立っていた。
「ほらな、お前はそう言う奴なんだよ。口ではどんなに言っても、体は、流れる血は、修羅場を求めている。
大人しくしていれば、少なくともしばらくは痛めつけられる事が無いと分かっていながら、逃げ出す方を選んだ。
それもただ逃げるんじゃない。大立ち回りをするかもしれないと分かって、あえてそっちに飛び込む。お前は戦場に居るべき人間だ。誰よりもお前自身が分かっているはずだろう?」
「わざと緩みやすい縛り方をしてやがったのか」
「お前に、昔の頃を思い出して欲しくてな。ちょっとお膳立てをしてやったのさ。
なあ、河上。お前は一度でも、安らかに眠る事が出来た夜があったか? 俺には無い。毎晩毎晩、死んだ連中の恨めし気な泣き声が聞こえてくるようで、眠れねえんだ。
それは他でも無い、俺の心が、魂が泣いているんだよ。俺達を要らねえとのたまったこの世界を叩き壊して、俺達の居場所は俺達で創ろうじゃないか」
「残念だがな、杉。俺はお前とは違う。誰の声も聞こえやしねえよ」
だが安らかな眠りを感じた事が無いのは確かだ。河上はすでに死んでいた。河上義介と言う人間は、戦争が終わった時に死んだのだ。
だがそれでも体は生きていた。生き残っていた。だからこの五年は、生きながら死んでいたのだ。それにようやく気が付いた。
河上義介はすでに死んでいる。ただ体だけがまだ死んでいないだけだ。だから、本当には何も望みはしない。ただ上辺の、いつでも捨てられる程度の望みしか持てない。
「残念だよ、河上。俺も忙しい。次に会う事が有ったら、それはお前が俺の下に来ると決めてくれたときだ。しばらく眠ってもらおうか」
いきなり視界が赤くなった。何か堅い物で頭を殴られたのだろう。腹に続けざまに蹴りが来た。為す術が無い。息が詰まる。
今度は横殴りに殴られたようだ。耳が熱い。聞こえてはいる。前を向くと、顔に向かって飛んでくる足と、杉の笑う顔がはっきりと見えた。蹴り倒された。
仰向けに倒れていたのが、また起こされる。腹に拳。少し間をおいて、顔を殴られた。そしてまた腹。吐いた。酸っぱい液体だけだった。そう言えば、晩飯を食べていない。
しばらくなすがままに殴り、蹴られ続けた。一発ずつ間を置くので、終わったかと思う頃にまた来る。
いつしか痛みも、苦しみも無くなっていた。ただ体が揺れているような感じだけがしていた。
初めての実戦。まだ十四だった頃の事だ。戦場は湾来だった。上陸して、橋頭保を築きつつある敵を、後続が来る前に海に叩き落とせ。そう杉は説明していた。
河上、杉、それに吉田も日下部も、葛城さんも居た。日下部の所属する砲兵隊がここの担当で、杉がコネを使って強引に配属させた初陣だった。
そんな大して期待されていない義勇兵の、お目付け役として葛城さんが来たのが、腐れ縁の始まりだった。
いいかお前ら、これは本物の殺し合いだ、ケンカとは違う。だがケンカと同じだ、びびって足を止めた方の負けだ。
しっかり目を開けていろ、目を瞑るとかえって怖くなる。どんなに強い敵でも、見たままの強さだ。見えている分の強さしかねえ。
そう杉が激励のような事を言っていた。吉田なんかは感心していたが、日下部は頭を抱えていた。葛城さんに至っては、見るに見かねて急遽訓辞を垂れた。
よいか。どんなに強い者でも、負けるときは負ける。逆にどんなに弱い者でも、勝てる時は勝てる。それはあたりまえの事だ。
勝つか負けるか分からないときは、必死で頭を巡らして、死力を尽くして勝とうとする。それも当たり前だし、だからと言って勝てるとは限らないのも当たり前だ。
大事なのは、負ける時に上手く負ける事だ。あ、これは勝てないなと思ったら、どう負けるのが一番いいか考える事だ。
上手く負ける者は、下手な勝ち方をする者よりも、最後には勝つぞ。勝とうという気ばかり先走って、下手な勝ち方をするよりも、諦めをよくして、上手に負けろ。
葛城さんがそう言ったら杉は、俺の兵にいきなり分別臭い事を吹き込むなと言っていた。気ばかり焦って実力の伴わない者から死んでいくのだと、葛城さんが返していた。
最初からあの二人は、そりが合わなかった。それでも、お互いに相手の事を認めている様だった。
不思議な事に、初陣の相手がどんな敵だったかは、ほとんど覚えていない。
ただ始めのうちは刀がやたら重く、ある所を過ぎると、消えた様に重さを感じなくなった事は、感触として覚えている。
人間を相手にしているという思いも無かった。ただ襲い掛かってくる殺気を感じ取って、返り討ちにしていく。殺気と、太刀筋だけが記憶にある。
飛んでくる銃弾だけは厄介だったが、あの頃はまだ先込め銃が現役で、銃撃を掻い潜って肉薄し、弾込めの隙になで斬りにした。
後になって、そんな無茶な事をやってのけたのはお前一人だと、杉は笑い、葛城さんは呆れていた。
死ぬかもしれない、という思いはあった。だからどうした、という思いもあった。ただ全力で駆け抜けていた。それだけは確かな事だ。
目を開けた。同じ部屋だ。
見張りも、同じ様に三人いる。ただ交代したのか、さっきの三人とは別だ。どれだけ時間が経ったのか分からない。
見張りが交代している以上、すぐという事は無いだろう。数分か、数時間か、それとも何日も経ったのか。
頭が痛い。体を起こせばもっと痛むだろう。痛いという事は、生きているという事だ。死が近くなると、痛みも遠ざかっていく。何度か危ない目に遭った事がある。
見張りはまだ、河上が目を覚ました事に気付いていない。そのまま気を失ったふりをした。
手足は自由だ。見張りは、このまま上手くやれば不意を突ける。いや、そうやって考える事に意味は無い。いつだって実戦は、予想外の事が起きて、その時その時で対応するしかない。
考えるよりも先に動く。それは、相手に考える時間を与えないという事でもある。お互いに出たとこ勝負ならば、後は度胸と、運だけだ。さっきは運が無かった。しかし、まだ生きているという事は、運があるとも言える。
待った。脱出の機を、と言うよりも、何かをだ。何が来るのか、何を待っているのかは、自分でも分からない。ただここだと感じる時を待った。
杉よ、お前の言う通りだ。俺はお前の下に就いて戦争をするよりも、今この場でお前の手下相手に大立ち回りをする方を選んでいる。
暴れるならば同じ。いや、もう一度戦争をする方がよっぽど熱く、激しい修羅場に立てるというのに、今お前にケンカを吹っかける方を選んでいる。
お前の創る戦場は、まだどこにも無いが、俺の修羅場は、今ここに在るからだ。俺にとって大事なのは、明日満足できる事よりも、今自分で居られる事だ。
生き返ってやるぜ、杉。生きながら死んでいた俺が、お前の望む様に復活してやる。ただし、そうしたらもう誰にも飼えやしない。俺自身にも、止められなくなるんだ。
部屋の扉が開いた。見張りの三人が扉の方に向かい、別の三人が入ってくる。見張りの交代の時間らしい。
目を見開き、飛び出した。近い方に居る、見張りをしていた三人は、三人とも背を向けている。交代に来た三人が先に気付く。
見張りの三人が振り返る前に、肩から体当たりを喰らわせて突き飛ばした。全身が軋むようだ。六人が団子になって倒れた。踏みつけにして、扉の外に出る。
廊下に出る。まだ誰も居ないが、出口も分からない。後ろで叫ぶ声がした。分かったのはそれだけで、何と言っているかは頭に入ってこない。
窓。廊下には窓がある。外は夜だった。ガラスが室内の照明を反射して、外がどうなっているかは見えない。
自分の顔が映っている。アザだらけで、憔悴して、酷い顔だ。笑うと、映った自分がにやりと口元を歪めた。笑った顔には見えない。
数歩下がり、駆け出す。踏み切り、体をできるだけ丸めて、窓ガラスに飛び込んだ。砕け散る音がして、体が宙に浮いているのを感じた。
長い。落ちてなどいない様に、宙が長い。下を見た。黒々とした川が、視界一杯に広がっていた。息を吸い込んで、止める。
飛び込んだ衝撃は、意外と少なかった。水が生温いからかもしれない。あまりきれいな水でも無いだろう。目を閉じたまま潜り、息の続く限り、もがく様に泳ぎ続けた。




