5
眼が覚めた。
広々とした草原に、横たわっている。まだ夢の中か。目の焦点が合って来て、緑色の絨毯の上だと言う事が分かった。
体が動かない。頭で痛みが脈打っているのが、酷く不快だった。手は何とか動かせるようだ、脚はどうだろう。
「変に暴れやがったら、脚の筋をぶった切ってやるからな」
背広の声。もう少し上手くやってくれればいいものを、急所を知らないから一発で気絶させられず、痛めつけられる事になった。頭頂を一撃。それで綺麗に気絶させられる。
首だけ動かして、周囲の状況を窺った。ドアの近くに恵美が座っている。そう長い事気を失っていた訳では無い様だ。
もうちょっと首を動かすと、ごま塩頭が目に入った。恵美の親父だ。うずくまって、低く呻いているようだ。
「大した事ねえよ。そこら辺の布を巻いとけば、血は止まる」
「良く考えてみろよ親父さん。娘が稼いでくれるんだ、良い御身分じゃないか」
もう一人の背広と、岡田の声。少しずつ事態が呑み込めてきた。
「俺は、逃げようとしたんじゃねえ」
親父さんの声は、震えていた。
「靴抱えて、飛び出して行ったじぇねえか」
「だからそれは、外の空気を吸いに」
「余計な事考えんじゃねえ。早ければ半年もせずに、娘さんが借金返してくれるじゃねえか」
親父は左腕を抑えていた。逃げ出そうとして、やられたようだ。どのくらいの傷かは分からない。
「娘残して、てめえだけ逃げようったってそうはいかねえ」
顔を知っている方の背広。手に匕首を持っているのが見えた。
「ところであっちの兄ちゃんはどうするよ」
「小さな会社の社長さんだったな。ならもうちょっと小金くらいは取れるんじゃねえか」
「馬鹿な野郎だな。大人しく金を差し出しとけば、怪我せずに済んだのによ」
「そうだな。おい、親父が逃げない様に奥の方に転がしとけ」
岡田が小さく返事をする声が聞こえる。岡田はもう使えないと見限られても良いはずだが、少なくとも今の始末をつけるまでは必要な人手だろう。
蹴りつける気配があり、親父がごろりと河上の傍に転がった。ゆっくりと頭を上げる。
「お目覚めかい、兄ちゃん」
三人が見下ろしていた。立ち位置からして、親父を蹴ったのは岡田の様だ。記憶にある岡田は、人に手を出せる人間ではない。
強い者と一緒に居て、絶対に反撃を受ける恐れの無い相手だから強気になのだろう。自分がもう見限られているとも知らずに。
男達の背後に居る恵美と目が合った。ちょっとの間見つめると、恵美の方から伏せるように目を逸らした。今頃後悔してるのか。
「親父さん、放っておいていいのかい」
知っている方の背広が恵美に顔を寄せて言う。親父がえみ、とつぶやく様な声を立てる。恵美は親父の方を向かなかった。
「血が止まらねえんだ」
親父が泣くような声を上げる。
「これでも巻いておきな」
知らない方の背広が、ハンカチを放る。温情と言うより、泣き言を聞かされるのが嫌になったと言うところだろう。
足に力を入れて動かした。重りの付いた鎖でもつけられているような感じだが、立ち膝になり、何とか立ち上がる。
敵の前でいつまでも座り込んでいるのは性に合わない。どんなにボロボロでも、敵の前では立っていたい。理由は無く、ただそうありたいのだ。
「おう、この兄ちゃん立ったぜ」
「あんまり馬鹿な事は考えない方が良いぜ。こっちは三人で、兄ちゃんはボロボロじゃねえか。なあ」
自分の体を見た。蹴られたのだろう所があちこち痛む。服の上からでは分からないが、アザが出来ている事だろう。
服に少し赤黒い血が付いていた。傷は顔か頭だが、出血はもう止まっている様だ。後ろポケットの感触は無くなっている。
「おまえら、いくら欲しいんだ?」
部屋の反対側、テーブルの上に封筒が置いてあった。あの三百万はまだ俺の物だ。惜しいと思う金ではないが、ふんだくられるのは我慢ならない。
「話が早くて助かるじゃねえか。最初からそういう風に大人しくしていれば、痛い目見ずに済んだのによ」
「終わった事を言ってもしょうがねえだろう。いくらだ?」
「ま、二百万ってところで手を打とうじゃねえか」
「出せるか、人を見てものを言え」
「社長さんだろう?」
「社員四人の会社だぜ。それも俺を含めてだ。それに岡田さんは知っているはずだが、最近いろいろあって業績不振でね」
背広がちょっと岡田の方を見た。岡田はやや目を泳がせて、小さくうなずいた。
「なら百五十万だ。一人五十万。これ以上はまけらんねえな」
「無理だ」
河上は深く息を吸った。体の隅々まで酸素が行き渡り、少しは体が動く様になった気がする。首を傾けると、小気味いい音が鳴った。
こいつらは荒っぽいが、喧嘩のやり方は素人だ。ただ滅茶苦茶に攻撃してくるだけで、急所と言うものを知らない。岡田に至っては、ただくっついているだけだ。
素人が二人、万全なら片手で捻り潰せる相手だ。だが今はどうだろうか。この五年で予想以上に体が鈍った様だし、仕掛ける機会を上手く作りたい。
「いくらなら出せるんだ」
「まあ百ってところか」
「百万か。本当にそれ以上出せねえのなら、まあぎりぎり妥協してやらんでも無いかな」
「俺は万をつけた覚えはねえぞ」
背広の顔から表情が消えた。
「冗談を言って良い時と、悪い時ってものがあるぜ」
「俺は冗談なんて言わないさ。お前らみたいなゴミにゃ、びた一文だって高すぎるくらいだ」
河上は体は動かさず、筋肉に力を入れて構えた。
背広は腰に差していた匕首を、鞘のまま取り出した。
「こいつはなるべく使いたくはねえんだがよ、こうなったら何が何でも二百万出してもらうぜ」
芝居がかった動作で、ゆっくりと匕首を引き抜いた。刃がギラリと光り、その向こうで背広が歪んだ笑みを浮かべている。
河上は一歩下がった。背広が一歩踏み込んでくる。それに合わせる様に、もう一人と岡田も前に出る。
河上は内心、鼻で笑った。三対一、こっちはボロボロ、圧倒的に有利な方がわざわざ武器を持ちだした。ただの脅しだ、本気で使うつもりは無いだろう。使う気があるならば、交渉などせずに最初から武器を突き付ければいい。
もう一歩下がる。背広は自分の優位を確信したように、間合いを詰めてくる。三歩目を下がり、背広が前に出て来るのに合わせて飛び込んだ。
背広が動かなければ胸に匕首が突き立つ。とっさに避けるだろうという方に賭けた。背広が驚いた顔で腕を引く。
こめかみに思い切り肘を叩きつけた。倒れた。間髪入れずにもう一人の背広の腹に蹴りを入れる。吹き飛んだ。
落ちた匕首を拾い上げ、横に払った。岡田の太ももを浅く切る。岡田が甲高い悲鳴を上げて転げまわった。
蹴り飛ばされた背広が立ち上がろうとするところを背後に回り、首筋に匕首を突き付けた。息をのむ小さな音が聞こえる。
「動くな。脅しじゃなく、本当に喉を掻っ切るぜ。やった事もある」
「あ、兄貴は」
「そこで倒れている奴か? 生きてりゃそのうち起き上がるさ」
死んでいるだろうと思った。こめかみの急所は殺す急所だ。脳の深刻な部分に衝撃を届かせる。仕損じても気絶はなかなかしない。起き上がらないという事は、死んでいるだろう。
「恵美」
ドアの所に座り込んだままの恵美に声を掛けた。
「親父さんの怪我を見てやれ。娘を売り飛ばそうとする親父には、十分すぎる程の親孝行だろう」
背広が膝を折りそうになった。刃が首筋に当たり、玉の様な血が浮かび上がる。それで背広はまたしっかりと立った。
「座り込めば、首が胴とオサラバするぜ。しばらくそのまましっかり立ってる事だ」
恵美はまだ呆然と座っていた。もう一度名前を呼ぶ。思い出したように立ち上がって、部屋の片隅でうずくまっている親父の下に駆け寄った。
「親父さんの怪我は大した事は無い。血が止まってりゃあ、気にしなくていい」
恵美は傍に落ちたままになっていたハンカチを、丁寧に父親の傷口に巻いてやった。
「座らせてくれ、頼む」
背広が悲鳴に近い声を上げた。膝が震えている。
「膝がいう事を聞かねえんだ」
「じゃあ、死ね」
「頼む。何でもあんたの言う通りにするから」
「親父から、借金の証文は取ってあるのか?」
「いや。借金は無しで良い、だから座らせてくれ」
「別に俺の借金じゃねえからな、チャラにする必要はねえ。そこのテーブルにあるのは、俺の金だな?」
「返す、それも返すから」
「当然だ」
背広を解放し、テーブルの上の封筒を検める。確かに三百万入っていた。
「おい」
へたり込んでいた背広が、びくりと肩をすくめる。うかがうような視線をこちらに向けてきた。
「あの親父の借金は三百万。他に利子なんかは無いんだな?」
「ああ、利子も含めて三百万の少し下だ」
「ならこれで完済だ。釣りはくれてやる」
三百万の封筒を、背広の前に放った。
「いいのか?」
「俺が払うと決めて渡したんだ。ふんだくられた金を取り返して、どう使おうと俺の勝手だ」
部屋の隅を見た。恵美と親父が、何が起きたか分からないという顔をしている。
「聞いただろう、恵美。親父さんの借金は俺が払ってやった。もうあんたらは自由だ、好きな所で好きに暮らせ」
「本当に、いいの?」
「その親父に見つからない所で暮らす事だな。もう一生分の親孝行にはなっただろう。お前が一緒に暮らしたいなら別に止めんが」
「でも私、あなたを裏切ったわ。それも、私の事を好きになってくれなかったって理由で。そのせいでこんな事に」
「そうだ。だからもう二度と俺の前には顔を出すな。これで絶縁だ」
恵美が父親に手を伸ばした。肩に触れられた父親が、のろのろと立ち上がる。河上の方も、背広の方も見ない。俯いたまま、大事な物でも抱える様に右手でしっかりと左手を胸に抱えている。怪我は手の甲だった。大した事は無い。
「ごめんなさい。ありがとう」
ドアを開け、父親を先に出した恵美が、背中を向けたまま涙をにじませた声でそう言った。
「さっさと行っちまえ」
楽しかったぜ、達者で暮らせよ。そのセリフは、胸の中だけに止めた。




