第7話 泊まらない客
夕方には、終わり木亭の前に十一人並んでいた。
リゼルが桶の灰水を捨てに出ると、列の先頭にいた女が首を伸ばした。
「獅子はいますか」
「今、寝ています」
「何時に起きるの」
リゼルは、二階の暗い窓を見た。
モクは寝ていない。枠の焼けた部屋へ入らず、階段の踊り場で丸くなっている。濡れた布で鼻の煤を拭いても、動かなかった。
「今日は、お帰りください」
女の後ろで、少年がため息をついた。
「お母さん、もう少し早く来ればよかったのに」
「帰る前に水だけもらえない? 坂がきつくて」
「それなら、食堂へ」
水を汲む間に、十一人が入っていた。
茶を頼む人が三人いた。一杯一枚と告げると、高いと言った人も結局頼んだ。話すために席が欲しいのだ。
リゼルは大きな急須を温めた。茶葉をいつもの倍入れ、出し終えた湯を薄めて自分の分にした。
「獅子って、どこにいるんだ」
「あの部屋じゃない? 枠が黒い」
「宿の人が呼ぶと出るらしいぞ」
誰も頼まなかった卓へ、リゼルは水を置いた。
「お泊まりなら、一号室と三号室が空いています」
女が首を振った。隣の男も振った。
茶の代金を受け取ると、掌に熱が戻った。
三枚。日当より多い。
もう一人が茶を頼んだ。
リゼルは新しい湯を沸かした。
モクが階段へ顔を出したのは、食堂の声が大きくなった頃だった。手すりの陰へ座り、知らない顔を見渡す。誰も彼に気づかない。
「大きかったなあ」
煤で汚れた帽子の男が、両手を広げた。
「俺は最初、ザイグが呼んだのかと思った」
「でも、あの女の人が走ってただろ」
視線がリゼルへ集まった。
「いつから飼ってるんです」
「飼っていません。お泊まりで」
「宿代を払うのか?」
笑いが起きた。
モクの片耳が立った。彼は階段を一段下り、帳場の下へ入った。
しばらくして、小さな角片をくわえて戻る。
リゼルが手を出すと、その上へ置いた。
今日のものではない。最初の晩に受け取った欠片だ。
リゼルは男へそれを見せた。
「これをいただきました」
男が触ろうとする。彼女は手を少し引いた。
「温かいのか」
「お湯を冷まさずに置けます」
「売ってくれないか。妻が指を悪くしてるんだ」
リゼルは答えられなかった。
モクが足元から、彼女の前掛けを引いた。
「いくら」
「まだ、わかりません」
小声で答えると、男は金額を考えていると思ったらしい。銅貨を五枚並べた。
リゼルはモクを見た。
彼は五枚のうち、一枚を爪で弾いた。客たちには銅貨だけが跳ねたように見える。
「もう一枚」
リゼルは、笑わないように唇を結んだ。
「六枚なら」
男は一枚足した。
モクは角片を前脚で押した。リゼルは布に包み、男へ渡した。
六枚を数えて、三枚ずつ二つに分けた。
帳場の下へ片方を置くと、モクは鼻先で銅貨を寄せた。しばらく眺め、前脚で隠した。
男が角片をかざして見せている間にも、茶の注文が五杯増えた。リゼルは棚から残りの茶碗を下ろし、欠けた縁を指で確かめた。
その晩、モクは初めて、自分の金で夕食を頼んだ。
全員が帰ったあと、リゼルは茶の代金と、売った角片の取り分を足した。食堂の売上は十二枚だった。そこから茶葉と薪を引いても、昨日より多く残る。
「明日も来るか」
モクが尋ねた。
「来てほしいです」
「大きいのを見たいんだろ」
リゼルは六号室の木屑を集めた茶碗へ蓋をした。
「小さいままでも、お金を払ってくれました」
モクは少し考え、銅貨を口で一枚くわえた。
奥歯へ当てる音がした。
「食べないでください」
「固い」
「そういう使い方ではありません」
夜、約束どおりザイグが来た。
今度は玄関を閉めるわけにいかなかった。アシェルは食堂に残り、モクは階段の途中へ座った。リラは二号室から下りてこない。
ザイグは、三人分の椅子を見た。リゼルとアシェルしか見えていない。
「もう一人、誰だ」
「モクのです」
リゼルが椅子を引くと、座面が少しへこんだ。
ザイグはそこを見たまま、腰の剣を外して壁へ立てた。
「火はあれが起こした」
「はい」
「テッサの服が燃えた。管も一本使えなくなった」
「私が連れていきました。修理代は」
「修理屋から聞いた。いま銅管を払えていないんだろう」
リゼルは膝の上で手を組んだ。今日残った銅貨の重みが、小さくなる。
「宿の支払と、今日のことは別です」
「別にはできない。今度あれが大きくなれば、割れるのはここの戸だ」
ザイグは二階を見た。
「なぜ、知っているんですか」
「古い迷宮材だ。力を出すと、蓄えを食う。補修できないなら、次は柱へ行く」
彼は言い終える前に立ち上がった。階段へ向かう。
リゼルは椅子を鳴らして立った。
「見せると言っていません」
ザイグが振り返る。昔、雨樋を直す時も同じ顔をした。なぜ止められるのか、すぐにはわからない顔だった。
「危ない所だけ見る」
「明日、大工を呼びます」
「金は」
「今日、稼ぎました」
彼は、リゼルの手を見た。火傷へ巻いた布が、まだ新しい。
しばらくして食卓へ戻った。
「大連戦は十四日後だ。いまの第七灯は、それより長くは保たない。回収した核は、街の防風壁に使う。冬が来れば、必要な灯の数も増える」
ザイグは茶に口をつけなかった。
「宿一軒で抱えるな。俺へ渡せ。ここは直す」
モクのいる椅子が鳴った。
アシェルが口を開きかけた。ザイグは彼を見ず、リゼルの返事を待っていた。
「渡しません」
ザイグの眉が、わずかに寄った。
「なら、次に火を出さない方法を見せろ。見えない客がいると聞かされるだけでは、街の者は眠れない」
その言葉を残し、彼は帰った。
翌朝、中央劇場の支配人が来た。
サヴィルという男は、緑の手袋を片方だけ脱いで握手を求めた。握り返すと、火傷の布へ気づき、両手で包むように持ち直した。
「昨日は大変でしたね」
言い方が優しくて、リゼルは少し身構えた。
「手当て代の補助です」
男は銅貨の入った小袋を置いた。三十枚。彼女が昨夜見た数よりずっと多い。
「何の代金ですか」
「四日後、劇場の空いている午前中を使いませんか。戦うのでなく、あの煙を吸った獣を見せる。お客様は安心し、宿には宣伝になります」
サヴィルは帳場の赤い紙を見た。見なかったふりはしなかった。
「一回で、二百四十枚。半分は準備費に。残りは終了後。昨日の火の賠償は劇場側で処理しましょう」
リゼルは小袋へ触れなかった。
サヴィルは急かさず、修理に使う木材も出せると言った。舞台の解体で出る板なら余っている。古い部屋の負担を減らせる装置もある。見物客を宿に入れ続ければ寝台を壊されるが、劇場なら席がある。
どれも、リゼルが昨夜眠れずに考えていたことだった。
「大きくなるのは、少しだけです」
彼女が言うと、足元でモクが顔を上げた。
「もちろん。計測して、無理のない範囲で」
「火は使いません」
「ええ」
リゼルは二階を見た。モクの部屋に、新しい枕を買える。暖炉屋へ赤い紙を剥がしてもらえる。
サヴィルがペンを置いた。
モクは、銅貨の袋へ鼻を近づけた。
「そんなに人が来るのか」
リゼルは、ペンを取った。




