第6話 いちばん大きい兎
モクは、自分の入る袋を小さいと言って二度蹴った。
リゼルが大きな買い物籠を出すと、それは重いと言った。運ぶのは彼女なのに、である。最後には前掛けの内側へ潜り、胸の下から角だけを出した。
「それで気が済みましたか」
「苦しい」
「私もです」
六号室の鍵は、モクの首へ柔らかい紐で下げた。角へ掛けたがったが、片方へ傾くのでやめさせた。小さな身体のまま外へ出るなら、鍵が身体へ触れていればいい。昨日の夕方、勝手口を一歩出るところから試した。三歩先でも透けず、リゼルの胸の中でも熱を奪わなかった。
ただし、大きくなるのは駄目だった。
彼女は出発前、六号室の上枠へ白墨で一本の印をつけた。黒くなった所との境目だ。暖炉には太い薪を入れた。リラを残すことは少し心配だったが、魚は閉めた窓の内側で、朝の眠りへ入っている。
アシェルは短槍の留め具を左手で確かめていた。
「右腕は」
「巻き直しました」
「使えるかと聞いています」
「あまり」
包帯の上へ外套を下ろす。
リゼルは頷き、玄関を閉めた。
第一層では、すでに点検が始まっていた。
円形闘技場の脇を通る古い通風管を、テッサとベルンが外している。夏の間に溜まった粉塵を抜き、大連戦の前に新しい管へ替えるのだ。観客席は半分閉じられ、残った席には、安い点検見学券を持った人々が座っていた。
「遅いぞ、ノット」
班長が灰袋を二つ押しつけた。
「お詫びの手紙は」
「読んだ。字が小さい」
リゼルは素直に謝った。
闘技場の中央には、煤角兎がいた。
七日前に倒された時と同じ一本角だった。祭壇の前で前脚を舐め、観客が大声を出すたびに耳を動かした。
リゼルの前掛けの中が、固くなった。
「あいつ」
「見えました」
「小さい」
人の胸ほどもある兎を、モクはそう言った。
灰袋を運び終えたリゼルは、作業口の陰へしゃがんだ。モクを下ろす。黒い兎は前脚を一度伸ばし、首の鍵を胸へ押しつけた。
煤角兎が鼻を上げた。
モクも鼻を上げた。
二匹が、少しずつ近づいた。
「モク。線までです」
赤い安全線の手前で、モクは止まった。本体の方も止まる。一本角の先が、二本の小さな角へ下りた。
鼻が触れた。
煤角兎は、ぷいと横を向いた。
モクは動かなかった。
上の席で、子どもが笑った。本体の鼻に灰がついて、くしゃみをしたからだった。
モクには、自分が笑われたように聞こえたらしい。
首の鍵が、黒く光った。
「駄目です!」
リゼルは手を伸ばした。
角がその先を越えた。
巨大な前脚が、安全線の外へ突き出す。モクの背後に獅子の胸が立ち上がった。煤角兎が後ろへ跳び、テッサの置いた工具箱へぶつかった。
箱が倒れた。
油壺が床を転がり、外しかけの通風管へぶつかった。
テッサが脚立を降りるより早く、ベルンが慌てて足を出した。壺は跳ね返り、脚立の下の灯具を倒した。油が足元へ広がる。割れた灯具の芯が、その真ん中へ落ちた。
火が走った。
リゼルはモクの身体へ覆いかぶさろうとした。腕は大きなたてがみへ入っただけだった。
熱い風が顔を打つ。
黒い煙が天井へ上がった。外された管から吸われるはずの煙が、閉じた弁へぶつかり、観客席へ逆流する。
「見学者を出せ!」
ザイグの声がした。
いつ来たのか、金色の外套が挑戦者門を抜けていた。彼は剣を抜き、燃える油の向こうへ立つ。
モクは煤角兎から目を離せないまま、脚を大きくしようとしていた。
「戻って、戻ってください!」
リゼルの手首へ、熱い雫が落ちた。鍵の歯から滲み出た黒いものだった。
宿の銅管が冷えている。
ここからは見えないのに、二度と触れたくなかった白い霜の冷たさが、指に戻った。
モクがようやく彼女を見た。
「火」
「あなたの後ろです!」
獅子の胸が縮んだ。モクが地面へ落ちる。包帯を巻いた角が石を叩き、リゼルは小さな身体を抱えた。
煙の中から咳が聞こえた。
テッサが、通風管の裏へ残っていた。重い管を外した時に作業服の裾が挟まり、火を越えて来られない。ベルンが引こうとしたが、裾は銅の縁へ食い込んでいた。袖へ火が移り、テッサは壁へ肘を擦りつけた。
リゼルはモクを床へ下ろした。
「ここにいて」
自分の前掛けを外し、桶へ突っ込んだ。冷たい水を吸った布を口と鼻へ当てる。油の火へ水をかけてはいけない。清掃班に入った最初の朝、クレムに手首を掴まれて覚えた。
班長の持つ砂箱へ手を伸ばした。
「ノット、そこへ入るな」
「テッサさんが」
「俺が行く」
クレムは砂を床へ撒いた。リゼルは次の箱を渡した。火の端が鈍り、人が通れる幅ができた。
その上をアシェルが低く走った。
右腕を庇ったまま、短槍の石突きを管と床の間へ差し込む。片手では持ち上がらない。ベルンが柄へ両手を重ねた。
「裾を切って!」
リゼルは自分の裁縫鋏を投げた。
テッサが受け損なった。鋏は管の下へ滑った。
煙で姿が消える。
小さな黒いものが、リゼルの足の間を抜けた。
モクが火の手前で止まる。首の鍵を口へくわえ、鼻先を伏せた。
たてがみが広がった。
今度は、上へ伸びなかった。床の上を低い輪になって流れ、煙を包む。輪の中央に、小さな穴ができた。
モクが息を吸った。
煙が、黒いたてがみへ吸われた。
テッサの顔が見えた。涙で濡れ、頬へ灰が貼りついていた。彼女は床へ腹ばいになり、管の下へ腕を伸ばした。鋏を引き寄せ、上着の裾を切る。
ベルンが彼女を抱き起こした。
モクの前脚が震えた。
吸った煙をどこへやればいいのか、わからないのだ。
黒い胸がふくらみ、二本の角から煤がこぼれる。リゼルは息を止め、外された通風管の先を見た。新しい管はまだ繋がっていない。古い管の横には、清掃用の灰落としがある。
「こっちへ。下に灰溜めがあります!」
彼女は鉄蓋を持ち上げた。熱い取っ手が手のひらへ貼りつく。
モクは頭をそちらへ向けた。
咳に似た音がした。
たてがみの煙が灰落としへ吐き出され、古い粉塵が下で噴いた。蓋の縁へ黒い指の形が一瞬広がった。リゼルは熱さに手を離しそうになり、肘まで取っ手へ通した。
誰かの手が、彼女の手に重なった。
ザイグだった。
彼は剣を床へ置き、片手で蓋を支えた。
「手を抜け」
リゼルが腕を引く。
モクが最後の煙を吐いた。
黒い輪が消えたあとに、小さな兎が残った。鼻も耳も煤だらけで、毛の黒さと区別がつかない。ただ片角に残した包帯だけが、端から焦げていた。
テッサが、咳き込みながら床へ座った。
テッサの上着は裾が斜めに切れ、片袖に焦げ穴が開いていた。リゼルの鋏が、切り取られた布の上に置かれている。
モクはそこを見た。
「おれが」
続きが出なかった。
煤角兎が彼のそばへ来た。
小さな黒い頭へ鼻を押しつけ、ひと舐めした。煤が取れ、濡れた毛の下に金色の目が見えた。
モクは押し返さなかった。
上の観客席から拍手が降りてきた。
「黒いのが吸ったぞ!」
上から、同じ声が何度もした。テッサの焦げた袖は、ベルンの背中に隠れていた。
リゼルは拍手へ顔を上げられなかった。
ザイグはテッサとベルンの顔を確かめ、見学者の出口を数えた。それから、彼女の足元へ目をやった。小さく戻ったモクの姿は彼には見えず、濡れた煤の塊だけが動いていた。
「何も拾わなかった、と言ったな」
リゼルはモクを抱いた。
黒い足が彼女の腕へ触れる。震えが止まらない。
「すみません」
「今夜、話す」
ザイグは剣を拾った。
帰った宿で、リゼルは六号室へ上がった。
朝つけた白墨の線が、なくなっていた。そこまで炭になった枠が、床へ落ちていた。
寝台の足元には、焦げた木片が散っている。
モクは戸口へ座り、部屋へ入らなかった。




