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第4話 雨の寝床

 雨は、終わり木亭の屋根だけを避けて降っていた。


 透明な翼が、古い瓦を覆っている。翼の下を雫が走り、玄関の前で天へ向かってこぼれた。リゼルは扉を開けたまま、空の洗面桶を持っていた。受け止めようと思ったものの、どこへ差し出していいのかわからない。


「二階層のです」


 アシェルが言った。


「さっき腕に刺さってた?」


「本体は人に似ていました。これは」


 彼は言い切らなかった。透明な目が彼を見たからだ。


 翼の根元から長い身体が伸びている。魚と鳥を一つの硝子で作ったら、こんな姿になるのかもしれない。通りを歩く男が、その胸を抜けて行った。傘の下で鼻を啜っただけで、振り返らなかった。


 アシェルの目が泳いだ。


 ついさっき彼の腕を裂いた硝子の羽根が、今は他人の身体を通り抜けていた。翼の縁に細い欠けがあり、そこからだけ、透明な雫がほどけている。


「鍵、どれが動いてます?」


 リゼルが聞くと、彼は帳場へ戻った。奥へ移した鍵掛けへ近づきかけ、手を止める。


「二号室です」


「取ってください。そっちに移したの、私なので」


 真鍮の鍵を受け取り、リゼルは外へ差し出した。手の上の雨だけが冷たくない。透明な鼻先が低くなる。


 大きな身体が、雨の筋を何本も引き連れて縮んだ。


 小指ほどの魚が、彼女の手首へ落ちた。


 リゼルは慌てて桶を下へ入れた。魚は桶の底へ触れる前に止まり、空中を一周した。長い尾が、手を拭く布へ触れる。


 布に、濡れた線ができた。


 リラ。


「名前、書けるんですか」


 魚は桶の縁をひとまわりし、やっと動きを緩めた。小さな鰓が、閉じたり開いたりしている。


 モクが帳場の下から出てきた。


「ずいぶん小さい」


「あなたも大きくありません」


「あれよりは大きい」


 モクは桶へ前脚をかけた。リラが尾を振った。


 兎の口が動いた。


 音がしなかった。


 モクは口を閉じ、もう一度開いた。二本角を振り、前脚を桶へ打ちつけた。桶の音はした。リゼルは唇を噛んだ。


 笑ったら、さっきより長く怒られる。


「声、返してあげてくれませんか」


 リラはリゼルを見た。尾を一度振る。


「――さいぞ!」


 モクの声が急に戻った。


「今の途中からですか」


「こいつが、取った」


「先に何を言いかけたんです」


 モクは桶から手を下ろした。言わなかった。


 二号室には西向きの小窓がある。夏は暑く、冬は他の部屋より冷えた。リゼルが燭台を置くと、乾いた机へ水の模様が広がった。床板の節が、一瞬だけ小さな波に沈む。


 リラを桶ごと置いた。


 魚は窓を見た。それから寝台を見た。やがて桶を出て、枕の上へ浮かんだ。


「そこがいいんですね」


 リゼルが布を掛けると、リラは枕のへこみへ身を伏せた。布を透かす背鰭だけが、薄い月明かりのように光った。


 音を取る魚が、物音一つ立てずに眠る。


 リゼルは扉を閉めかけた。部屋の奥から、ちゃぷん、と水の音がした。


 床に水はなかった。


 鍵穴の向こうに、白い石の縁が見えた。リゼルが顔を近づけると、深い水底のような冷たさが頬へ触れた。驚いて身を引いたら、ただの寝台しか見えなくなった。


 古い戸は、入った人で音を変える。


 祖母が大工へそう話していた気がした。リゼルは戸の縁へ指を当て、ささくれを一つ折った。蝶番の下に、普通の部屋番号とは違う小さな印がある。波線が二本。六号室には黒い丸が一つあった。


 帳場に戻り、宿帳の二号室の欄へ、短い名を書いた。


 モクが帳場の足元を占領していた。二号室の方を何度も見上げる。


「魚、金を出してない」


「今日はもう寝ています」


「おれは出した」


「角、いただきました」


「足りたんだろうな」


 リゼルは、角片を置いた小皿へ目をやった。台所で湯を保温するのに使っている。売れるかどうかは、まだ知らない。


「明日、石屋さんへ聞いてみます」


 モクは長椅子の下へ戻った。


 眠る時まで、片方の耳だけが二階を向いていた。


 明け方、リゼルは何かが足りなくて目を覚ました。


 寒くはない。雨も上がっている。屋根を打つ雫がなくなったせいかと思い、布団を引き上げたところで、鐘が鳴っていないことに気づいた。


 いつもなら、パン屋が店を開く鐘が聞こえる。


 起き上がった。足を床へ下ろした。床板が軋まない。


「リラ?」


 自分の声だけは聞こえた。


 二号室へ行くと、リラは昨夜の枕の上で眠っていた。窓の外の鐘楼では、小さな人影が綱を引いている。鐘が揺れるのに、音はしない。


 リゼルは窓を閉め、そっと魚のそばへ座った。


「外の音が、うるさかったですか」


 リラは頭を上げた。眠そうに尾を動かす。


 鐘の音が、一度に入ってきた。


 モクが廊下で跳ね上がった。アシェルも五号室から顔を出した。片方の頬だけに枕の縫い目がついていた。


「火事ですか」


「朝です」


「……それは早い」


 朝食が済むころ、隣の仕立屋が怒鳴り込んできた。鐘が聞こえず、注文の服を取りに来た客を二人待たせたという。


 リゼルは頭を下げた。仕立屋には魚も兎も見えていない。ただ、机の上の水模様を、雨漏りだと思って布で拭いていた。


 一昨日、樋を曲げた時には見えた。同じ身体が、今は靴の横にいても気づかれない。リゼルがアシェルを見ると、彼は五号室の鍵をそっと帳場へ置いた。途端にモクのいる場所を見失い、拾い直して頷いた。


「一昨日の犬と、関係あるのか」


「今日は魚です」


「何?」


「いえ。窓を閉めます。今夜から」


 アシェルが布を持ってきた。


 厚い布を二号室の窓へ掛けると、リラはしばらくそれを見ていた。光が入らなくなるのは嫌らしく、尾で布の端を押し上げる。


「光も要るんですね」


 リゼルは布を半分だけ畳んだ。


 次はモクが、廊下の隅でわざと咳をした。リラは動かない。もう一度咳をした。布が彼の顔へ飛んだ。


 昼までかかって、三人は布の高さを決めた。外の音を全部消すより、リラの寝床を窓から遠ざけた方が簡単だった。


 寝台を動かす間、モクは何度も足元へ入り、邪魔だと言われた。最後に、小さな肩で脚を押した。寝台は指の幅だけ動いた。


 リラは新しい枕へ落ち着き、モクの片耳を水模様で濡らした。耳そのものは濡れなかった。


 その夜、宿の前へ銀の音叉を持った男が来た。


 リゼルは窓越しに男を見た。もう一人が坂の下にいて、家々を順番に指している。濡れた石畳に、細い輪の光が広がった。


 二号室の銅管が、一度だけ鳴った。


 アシェルが暖炉のそばへ来た。


「灯の回収係です」


「魚を?」


 彼は頷いた。


「傷のない影も、三度目の朝には散ります。切られた所があると、そこからもっと早く。今までは、僕も音叉を運んでいました」


 リゼルは、胸を斜めに裂かれていたモクを思い出した。リラの翼にあった欠けは、縁の一か所だけだった。


 リゼルは彼の頬を見た。朝の枕の跡はもうない。


「今日は、呼びませんよね」


「呼んでいません」


 それが約束なのか、今日だけの事実なのか、聞けなかった。


 音叉が玄関の方を向いた。


 二階で、寝台から降りる小さな音がした。


 リラが廊下を泳いできた。机の上へ下り、窓の外を見る。それから、眠りを邪魔する蝿を追うように、尾を振った。


 男たちの持つ光の輪が、途中でほどけた。


 音叉を振り直す。男が耳を押さえ、もう一人へ何かを言う。互いの口を見て、首を振った。


 モクが、リラの横から窓を覗いた。


 声を出そうとして、リゼルに口を塞がれた。意味がないとわかっていても、手が動いた。


 男たちは音叉を袋へ戻し、坂を上っていった。


 鍋の蓋が、こつりと鳴った。


 リラはその音で食堂を一周し、二階へ戻っていった。リゼルは礼を言いそびれたまま、机に残る水模様を見た。


 モクがその上へ、前脚を置いた。


「あれ、少しなら泊めていい」


「もう泊まっています」


 モクは聞かなかったことにして、暖炉へ背中を寄せた。

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