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第3話 五号室の男

 五号室を借りたいと言った男は、料金表へ血を落とした。


 リゼルは赤くなった三の数字を見た。それから、男の袖を見た。右の肘から手首まで裂け、指の間に透明な欠片が光っていた。


「先に腕を洗いましょう」


「一泊、お願いします」


「泊まるつもりなら、なおさら」


 男は左手で銅貨を置いた。三枚。リゼルが拾うまで、帳場から手を離さなかった。


 若い男だった。顎の左に、一度髭を剃り損なった小さな傷がある。外套は上等なのに、右の靴紐だけが妙に短く結び直されていた。戸口をくぐる時には身体を傾け、背負った短槍の先を枠から遠ざけた。


 リゼルはその仕草を覚えていた。一昨日、煤角兎が跳ぶ寸前に床へ何かを滑らせた斥候だ。


「勇者隊の宿舎は、坂の上です」


「知っています」


「寝台もあるでしょう」


「空いてます」


 彼は続きを言わない。リゼルは、三枚の銅貨から目を上げた。


「階段を汚したら、布代をいただきますよ」


「上がる前に洗います」


 返事を待っていたように、彼の肩が下がった。


 五号室の鍵を渡した瞬間、男の目が帳場の下へ動いた。


 モクがいた。昨夜リゼルが巻き直した包帯を片方だけ取り、まだ巻かれた角を壁へこすりつけていた。


 男が口を開いた。


 モクが跳んだ。


 リゼルの胸の高さを黒いものが横切り、男の外套へ貼りついた。二本の角が襟の両側へ入り、前脚が銀色の隊章を掻く。男は壁へ背中をぶつけた。右腕を上げかけて、下ろした。


「モク!」


「こいつだ」


 歯が、隊章を留める紐へ食い込んだ。


「おまえが、床を動かした」


 男はモクを見た。驚いた目のまま、頷いた。


「そうです」


 モクの顎が固くなる。銀の輪がきしんだ。


 リゼルは男の背から槍を外し、手の届かない窓辺へ立てた。モクを引き剥がそうとして、指を噛まれた。


「痛っ」


 モクが口を離した。


 落ちかけた黒い身体を男が左腕で受けた。今度は腕を噛まれた。それでも離さず、床へゆっくり下ろした。


 モクは帳場の下へ走った。


 床へ、小さな銀の隊章が落ちた。


 しばらく、三人の息だけが聞こえた。


「……お名前」


 リゼルが尋ねると、男は彼女の指を見た。


「アシェル・レイヴ。消毒薬はありますか」


「あなたの分も含めて、あります」


「二回噛みましたね」


「私の指まで数えないでください」


 笑うつもりはなかったらしい。アシェルは目を伏せた。リゼルは洗面桶を運び、窓辺の椅子へ座らせた。


 水をかけると、右腕の血が薄まり、傷口へ刺さった硝子の形が見えた。細い羽根だった。何枚も重なって刺さっている。


「二階層へ入ったんですね」


「さっきまで」


「あそこの床は滑るでしょう。乾かす前に次の人たちが入るから」


「滑りました」


 アシェルは、自分の右足を見た。


「槍を杖にすればよかった。両手で受けたくて、持ち替えてしまった」


 リゼルは硝子片を抜いた。アシェルの左手の指が二本、椅子の座面を叩いた。三枚目を抜く時にも同じ音がしたので、彼女はわざと一拍遅らせた。


 音だけが、先に鳴った。


「数えてるんですか」


「抜かれる場所がわからないと、肘が動くので」


「動かしたらもっと痛いです」


「ええ。それが嫌で」


 リゼルは次から、抜く前に軽く皮膚を叩いた。


 椅子の音がしなくなった。


 帳場の下で、モクが丸くなっていた。耳だけがこちらを向いている。


「同じ所を、何度も?」


 リゼルは傷を見たまま聞いた。


「兎の右耳が下がると、跳びます。その時に、着地点へ楔を」


「やり方を聞いているんではありません」


 アシェルは黙った。桶の縁を、赤い水が一滴伝った。


「三回です」


 モクの角が、暗がりで動いた。


 包帯を巻き終えると、リゼルはアシェルの左腕に残った歯形にも薬を塗った。彼は、こちらには顔をしかめなかった。


「あれは初めて見るんですか」


「小さい姿は」


「大きいのは?」


「残った影なら。夜に探知灯を当てると、一瞬だけ形が見えます」


 彼は濡れた硝子片を布へ包んだ。捨てようとしたリゼルの手を、左手で止める。


「持ち帰ります。報告が要るので」


 その手の早さを見て、リゼルは桶を引いた。


「モクのことも?」


 アシェルは包んだ布を見た。


「宿のことを聞いて来ました」


「誰から」


「ザイグです」


 窓の外で、小さな荷車が通った。車輪が石の継ぎ目を越すたび、空いた食堂へ鈍い音が入る。


 リゼルは、今受け取った銅貨を三枚とも帳場へ出した。


「お帰りください」


「僕は、まだ」


「見たでしょう。噛まれましたし」


 アシェルは立ち上がった。傷口を押さえず、短槍を取りに行く。柄へ左手をかけたところで止まった。


「この傷、なかったことにできませんか」


 リゼルは聞き返した。


「右腕です。失敗した、と書かれるので」


 彼の視線が、窓から坂の上へ逃げた。


「自分で洗って巻けば、次の稽古までにわからなくなると思っていたんです。宿舎の手当係だと、すぐ隊へ伝わる」


 リゼルは、モクを見ないようにしたまま、桶の水を捨てた。


「この宿が怪我を隠す宿だと思われるのも困ります」


「はい」


「お湯を運ぶ時に手伝ってください。左手だけで」


 アシェルが振り返った。


「五号室の湯桶、底が抜けかけてるんです。ご自分で見つけたことにしましょう。まず湯桶で転んで、次に手当てを頼んだ」


 彼は返事をせず、胸の裂けた紐へ隊章を通した。結び目が二度滑った。


 リゼルは銅貨を取り戻した。


「傷が開くうちは、一泊ずつにしてください。長期料金にはしません」


 夕方、アシェルは本当に湯桶を直した。


 修理は下手だった。左手だけで鉄の箍をはめようとして、桶を三度転がした。モクが廊下へ顔を出し、四度目に転がってきた桶を角で止めた。


「おい」


「すみません」


「うるさい」


 モクは、緩んだ箍を片足で踏んだ。アシェルが木槌を使う間、そこへ座っていた。終わると、礼を言われる前に六号室へ戻った。


 リゼルは階段の途中で、そのやり取りを聞いていた。


 夕食のあと、帳場で宿帳をつけていると、アシェルが一枚の紙を折った。


「出かけるんですか」


「薬を」


「うちにもあります」


「自分の分を、買ってきます」


 引き止めれば、彼は別の理由を探すだろう。


 リゼルは宿帳を閉じた。窓越しに、アシェルが薬屋とは反対へ曲がるのを見た。彼の足は迷っていなかった。


 戻って来たのは、灯が一つ落ちたあとだった。


 雨が降り始めていた。外套の肩を濡らしたアシェルは、紙を持っていない。代わりに、左の袖口から小さな革袋が覗いていた。


 リゼルは何も尋ねず、鍵掛けを帳場の奥へ移した。


 釘を抜く音に、アシェルの視線が上がった。


「場所を変えるんですね」


「手が届きすぎるので」


 彼は返事をせず、五号室の鍵を握った。


 その時、玄関を外から何かが引っかいた。


 一度。しばらくして、二度。


 リゼルが扉へ近づくと、隙間から雫が入った。雫は床へ落ちず、戸の表面を上っていった。


 窓の向こうを、透明な大きな目が通った。


 アシェルの右腕で、巻いたばかりの包帯が赤くなった。

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