第16話 なくなる右の靴
右の靴だけが、三足なくなった。
一足目はアシェル、二足目は昼寝に来たベルン、三足目はリゼルの靴だった。左はどれも残っている。ベルンは靴を見下ろし、工具袋の底を確かめた。
「この歳で、持って来る数を間違えたか」
「歩いて来ましたよね」
「たぶんな」
リゼルは玄関の棚を動かした。
埃と釘が一本出て来た。靴はない。寝台の下にも、暖炉の後ろにもない。モクが何度も嗅いでくれたが、煤の匂いしかしないと言った。
「おれじゃない」
「まだ何も聞いていません」
「先に言った」
モクは六号室から持って来た、自分の金袋へ前脚を置いた。
その横に、小さな箱があった。
リゼルは一度通り過ぎて、戻った。
「この箱、いつから」
箱の蓋が閉まった。
蓋の間に、見覚えのある靴紐が挟まっている。
リゼルはしゃがんだ。
「開けてください」
「満室でございます」
箱が言った。
モクが跳び上がった。リゼルも少し腰を浮かせた。階段でアシェルが足を止め、ベルンは首を伸ばす。彼だけは箱が見えていない。
「何だ。誰かいるのか」
「少し、お待ちください」
リゼルは箱の両側へ手を置いた。
木の模様がついた、両掌ほどの箱だった。側面に四本の短い脚がある。蓋の蝶番は真新しいが、その周りだけ傷だらけで、細い鉄片が噛み込まれていた。
箱は身体を縮めようとした。
できず、蓋だけを少し開けた。
「当方、拾得物の一時預かりを」
「私の靴は、足を入れる向きで置いてありました」
「右へ曲がる道が多いもので」
「返して」
蓋が大きく開いた。
靴が三つ、床へ吐き出された。
最後に、木の匙が一本落ちた。
ベルンが靴を拾い上げた。
「今、どこから」
リゼルは答える前に、箱の底が透けていることに気づいた。
脚の一つが消えかけている。
リゼルの膝へ、冷たい鉄片が落ちた。箱の蓋へ食い込んでいたものだ。銀の歯が、内側へ向いている。
回収器を内側から噛み抜いたのだ。鉄片の取れた所から、箱の木目が薄くほどけ始めた。閉じ込めていた器は、同時に身体が散るのも止めていたらしい。
「どこから来たんです」
「近くで、ちょいと」
「今、鍵を持って来ますから、ここで待っていてください」
箱が脚を引いた。
「鍵は、結構で」
「閉じません。靴も戻してもらいました」
リゼルは帳場を見た。
三号室の鍵が、前後へ揺れている。
モクが先に走った。帳場へ上がり、鍵をくわえて戻る。箱の前へ落とすと、金属が鳴った。
「噛むなよ」
箱の蓋が止まった。
「食べ物では、ない?」
「ない」
「木の味もしませんか」
「しない」
モクがじれたように鍵を押した。
箱の片脚が真鍮へ触れた。
食堂の床下で、大勢の椅子を引くような音がした。
ベルンが腰を浮かせた。
箱は脚を四本に戻し、蓋を開けた。中には何もない。三足も靴が入ったとは思えないほど浅かった。
「ポッケと申します。朝でも夜でも、呼べば開きます」
「呼ぶまで開かないでください。特に食料庫」
「なるほど」
ポッケは返事をし、さっそく食料庫の方を向いた。
モクが前へ回った。
「こっちは、おれの皿」
「お皿ごと、いただくのですか」
「食うな」
リゼルは三号室を用意した。
寝台へ乗せると、ポッケは枕を見て蓋を開いた。彼女が咳をすると閉じる。敷布を見てまた開き、もう一度咳をされて閉じた。
「何なら、よろしいので」
「先に言ってくれれば、用意します」
箱は考え、脚を二本ずつ動かした。
「干した果物を」
リゼルは台所へ取りに行った。
戻った時、部屋には金具が一つ残され、ポッケは寝台の下へ入っていた。
金具は銀の歯の、最後の輪だった。
内側に、第三層という小さな文字がある。
「これを、噛んだんですか」
「四日ほど」
寝台の下から声がした。
「騒がしい日に、荷から落ちました。それから、しばらく台車の下へ」
「劇場に?」
返事がなかった。
リゼルは干した林檎を床へ置き、隣へ座った。
ポッケの蓋が少しだけ見えた。
「あそこで、鎧の小さい子を見ませんでしたか。右の腕がなくて、盾を持っている」
箱は林檎を食べた。
よく噛んだ。靴は丸ごと入れたのに、小さな果物は何度も噛んだ。
「帰れない方ですか」
リゼルは頷いた。
ポッケの脚が床を擦った。
「荷役の人が、騎士の核が入ったと言っていました。あの人たちは、荷の中にも耳があることを忘れますので」
「どこへ運ぶか、聞きました?」
「お腹が減っていて」
リゼルはもう一片、林檎を置いた。箱はそれも食べ、また寝台の奥へ戻った。
ポッケは出てこなかった。
「もっとなら、思い出すかもしれません」
リゼルは籠を見た。
残りは三片だった。宿の食料は、昨夜買った分で七日持たせなければならない。劇場の残金は当てにできない。
彼女は三片を全部、床へ置いた。
箱が出てきた。
林檎の前で止まり、一片だけくわえた。
「昼の鐘のあと。大連戦の日です」
「その日に抜くんですね」
「鎧を着たまま、七つ下の台へ入るそうで。外の灯へ移す時に、ほかの荷もまとめて開く。朝は忙しいから、邪魔をするなと」
リゼルはすぐアシェルを呼びに立った。
戸の手前で、ポッケが言った。
「私は、そこまでしか」
彼女は振り返った。
「はい」
「もっといただいても、その先は出ません」
林檎の残りが、床に二片あった。
リゼルはそれを拾い、三号室の机へ置いた。
「あとで、食べてください」
階下では、ベルンがアシェルの靴紐を結び直していた。
結び方が緩いので、歩くたび踵が浮くという。アシェルは足を持ち上げたまま、年配の男が紐を通すのを見ていた。
「結び目を片側へ寄せる。こうすれば、指が一本でも引ける」
「右で、直そうとしていました」
「右を休ませに来たんじゃないのか」
アシェルは答えなかった。
リゼルは、食堂の机へ地下の地図を広げた。
ポッケから聞いた時刻を、空白の脇へ書く。昼の鐘のあと。大連戦まで、あと六日。
アシェルは、第一層と移し場の間へ指を置いた。
「客席が埋まれば、通路の兵は観客の方を向きます。ただし核の荷だけは、別の昇降機で下ります。そこへ入るには」
ベルンが地図を覗いた。
「この線、今は塞がってるぞ」
第二層と第三層の間を指した。
「冬の排水を通してる。人が入れば、膝まで持っていかれる」
アシェルは線を消した。
移し場までの道が、また途切れた。
リゼルは下唇を噛んだ。
ベルンは椅子へ座り直した。
「何をしに行く図だ」
「ガロを連れ戻します」
リゼルが言うと、彼は机の横に置いた平石を見た。
「あの、小さいのか。劇場で椅子を上げた時、丸いものが幕を押し上げた。あれが盾だったんだな」
リゼルは頷いた。
ベルンは地図の端を押さえた。
「テッサにも聞け。あいつなら、今使ってる灯路を知ってる」
「迷惑が」
「今、俺が書き足している」
彼は言い、ペンを受け取った。
夜、台所の匙がまた一本消えた。
リゼルは三号室へ行った。
ポッケは寝台の上で、口の端から匙の柄を出していた。叱る前に、返しますと言った。
床へ落ちた匙は、先だけが温かかった。
「なぜ、右ばかり取ったんですか」
リゼルは匙を拾い、尋ねた。
「靴ですよ」
「二つ取れば、遠くへ逃げた時に、すぐ気づくでしょう」
ポッケは蓋を下げた。
「一つなら、探している間に次をいただけるので」
リゼルは箱を見た。
「ここでも、逃げる用意を?」
蓋の蝶番が小さく鳴った。
ポッケは答えなかった。
リゼルは戸の留め具を外した。
あの朝、空き部屋にも増やしておいたものだった。一本ずつネジを抜き、掌へ集める。最後の金具が取れると、木に明るい四角が残った。
箱が彼女を見ていた。
リゼルは匙を持って立ち上がった。
「今夜、なくなるなら、この匙までです。明日の朝には、洗うものが足りません」
ポッケは蓋を開いた。
もう一本の匙が出てきた。
そのあと、塩壺の蓋も出てきた。
リゼルは目を閉じた。
「ほかには」
箱は、少しだけ開いたまま止まった。
「明日の分まで、今、叱られますか」
「出してください」
小さな石鹸が一つ、床へ落ちた。
リゼルがしゃがむと、暖炉の下で床が鳴った。
音は真下からではなかった。遠い廊下の奥で、誰かが椅子を引いたように聞こえた。
ポッケの三号室の鍵が、机の上で回った。




