第15話 歌わない音
第二層へ入るために、リゼルは三人分の泥靴を洗った。
クレムの靴は踵まで固まり、ほかの二人は底に硝子粉が入っていた。ブラシでは取れない。古い釘を曲げ、溝から一つずつ掻き出す。
「もう少し早く頼め」
班長が言った。
「点検の最中に火を出して、今度は第二層か。おまえの手紙が来ると、こっちは先に水を用意するようになったぞ」
「今日は火を使いません」
「当たり前だ」
クレムは靴を返してもらい、底を日に透かした。細かい硝子が二つ、まだ光っていた。リゼルは黙って取り直した。
アシェルは隣でモップを組み立てている。
木の柄を正しい向きに差せず、止め釘を先に入れた。クレムが見かねて受け取り、一度で組んで返した。
「槍の方が、まだ楽です」
アシェルが小さく言った。
「槍に布をつけて来ればよかったですね」
リゼルが答えると、彼は本当に少し考えた。
今日は短槍を宿へ置いて来た。
彼の階級章もない。斥候として入れば隊へ連絡が行く。清掃人の一人として、手を汚すしかなかった。
モクは宿に残った。
連れて来てほしいとは言わなかった。出る時、リゼルの前掛けへ鼻を寄せ、リラの入った布を一度だけ嗅いだ。
「あいつへ、取られるなよ」
何を、とは聞かなかった。
第二層へ下りる階段は、壁まで湿っていた。
リゼルは手すりを持たずに歩いた。手すりには透明な細い藻がつく。握ってから気づくと、手を洗うまで魚の匂いが取れない。
アシェルはすでに握っていた。
彼女は布を一枚渡した。
大きな水盤の向こうに、硝子の歌姫が立っていた。
髪の代わりに薄い羽根が重なり、足元から水面へ透明な裾が続いている。何もしていないのに、身体の中を小さな泡が上っていた。頭を傾けると、泡が首の曲線に沿って二つに分かれる。
リラが、リゼルの首元から出た。
魚の身体は、今日は少し白く見えた。
「近づく前に、一度、止まってください」
リゼルが言うと、リラは振り向かず、二号室の鍵を胸鰭で抱き直した。
クレムたちは水盤の反対側で作業を始めていた。
観客席は閉じている。昨日まで撒かれていた滑り止めの粉が、石の目地へ詰まっていた。水をかけると固まるので、先に乾いた布で集めなければならない。
アシェルが桶を置いた。
リゼルはモップを止めた。
「それ、まだ使いません」
彼は柄を持ち直した。
歌姫の顔が、こちらを向いた。
アシェルの右腕へ、視線が下りる。
彼はモップを構えかけ、自分で下ろした。布のついた先が床へ落ちる。前に来た時、彼が持っていた物とは違う。
歌姫が口を開いた。
リゼルの膝が、水を入れた器のように震えた。
音は高くない。大きくもない。ただ、耳より先に骨の中へ入ってくる。桶の縁へ薄い波が立ち、釘を曲げた道具が床の上で動いた。
リラが歌姫の前へ出た。
小さな尾を振る。
音が一つ、消えた。
歌姫の口は開いたままだった。流れていた旋律の途中に、誰かが息を吸えるだけの隙間ができた。
リゼルの膝の震えが止まった。
歌姫は小さな魚を見た。
長い指を、水盤へ下ろす。
リラがそこへ近づいた。
触れる直前、魚の尾が薄くなった。
透明な裾の中へ、銀の筋が一本入る。二つの身体が重なりかけた。リゼルは自分の胸へ手を当てた。そこに、もうリラの重さはない。
魚は歌姫の指へ頬を寄せた。
歌姫のまつげに似た縁が、ゆっくり下りた。
リゼルは動かなかった。
止めれば、魚を手の中へ戻せるかもしれない。そうすれば今夜も二号室の枕がへこむ。リラの消した朝の鐘で、また仕立屋が怒る。
アシェルの手が、彼女の袖へ触れた。
「あの形のままなら、鎧へ届きます。声の力が足りる」
彼は言い、それから顔を下げた。
「すみません。今、言うことでは」
リゼルは袖を引かなかった。
同じことを考えたからだ。
大きな歌姫が一緒に来てくれれば、ザイグの鎧を開けられるかもしれない。ガロを出せる。そのためにリラがどこまで残るのかは、まだ考えていなかった。
歌姫の喉に、光が集まった。
リラの小さな顔が、その方を向く。
長い歌が始まった。
水盤の縁に、細い皹がいくつも走った。今、できたものではない。古い傷へ水が入り、下に埋もれた金色の線を照らしている。
リラは歌姫の指から離れた。
銀の筋が、裾から抜ける。
歌姫の指が追いかけた。
リラは戻らず、口を開けた。
音は出なかった。
歌姫の旋律から、今度は三つ続けて音が消えた。
水盤が静かになった。
長い指も止まった。
リラは水の表へ、小さな丸を四つ、同じ間隔で描いた。歌姫がその形を見る。しばらくして、丸に合わせて口を開いた。
一音ずつ、歌った。
今までより、短かった。
リラは三つ目だけを消した。
残った音が、階段の下へ渡った。
アシェルが顔を上げた。
「今の」
床の隅で、何かが開いた。
リゼルは水盤の脇へ回った。古い排水口だと思っていた丸い蓋が、指の幅だけ浮いている。下に銅色の爪が三つあった。そのうち一つだけが、半分開いたまま止まっていた。
一号室で見た鎧の内側と、形が似ていた。
リゼルは膝をついた。
水が袖へ入る。
蓋の横に擦れた文字があった。集音、第二。続きは石灰に覆われ、読めない。釘の曲がった先で白い層を削ると、その下から小さな三角の刻みが出た。
「灯の、古い集音器です」
アシェルが言った。
「今は外の設備を使うので、地下のは塞いだと」
彼はそれ以上説明せず、開いた爪へ指を入れようとした。
リゼルが手首を止めた。
爪が閉じた。
水が噴き、彼の指のあった場所を叩いた。
「知らない蓋は、棒からです」
アシェルは自分の手を見た。
「はい」
モップの柄を渡した。
リラがもう一度、三つ目の音を消した。爪が開く。アシェルは柄の先を入れ、押した。
蓋は上がらない。
リゼルが外側の溝へ釘を差し、少し回した。
中の爪と、外の溝が同時に動いた。
蓋が開いた。
下から、水ではなく、温かい風が上った。
リゼルの濡れた袖がふくらんだ。
ずっと下で、古い羽根車がゆっくり回っている。音が一つ抜ける間だけ、軸が同じ位置で止まった。もう一度歌が戻ると、羽根車も動いた。
アシェルはその間を数えた。指で二度、膝を叩く。三度目は叩かず、手を開く。
「鎧も、ここの形を使っている。外で回す人と、中で押すものがいれば」
「ガロは、中にいます」
リゼルが言った。
アシェルは彼女を見た。
「声が届けば」
今度は、できると先に言わなかった。
リラが戻って来た。
長い尾が短く折れ、魚の身体が疲れたように上下している。歌姫は水盤の向こうに立ったままだった。もう追って来ない。
リゼルは両手を出した。
リラはすぐには乗らなかった。
彼女の顔を見た。
それから前掛けへ、水の文字を一つずつ書いた。
わたし、あのこえ、いや。
リゼルは頷いた。
「持っていかなくて、いいです」
歌姫の声があればと考えたことを、魚は見ていたのかもしれない。リゼルは言い訳を探さなかった。手を広げたまま、待った。
リラが乗った。
濡れた鰭が、火傷の布へ触れた。
冷たくて、少しだけ痛みが引いた。
「おい、ノット!」
クレムの声がした。
リゼルは顔を上げた。
「水を流す前に、粉を全部取れと言っただろう。そっちが湿ったら余計に固まる!」
「すみません!」
立ち上がる時、足元の蓋から暖かい風がもう一度出た。
リゼルは開いた場所へ赤い布を結んだ。間違って踏まれないように。蓋を戻し、目地を拭いてから、曲げた釘を袋へ入れた。
清掃を終えるまで、二時間かかった。
アシェルのモップは途中で一度外れた。リゼルは自分の分を渡し、外れた方を組み直した。今度は留め釘を最後に入れるところを、彼が横で見ていた。
帰りに、班長は銅貨を二枚ずつ渡した。
アシェルは自分の分をリゼルへ渡しかけた。
「ご自分で使ってください」
彼女が言うと、彼は掌の二枚を見た。
「……袖を直す糸を、買います」
リゼルは頷いた。
地上へ出る階段で、リラが布の中へ潜った。
眠ってしまったのかと思ったが、小さな尾はまだ動いていた。歌姫の旋律から三つ目を抜き、残った短い形だけを、布の裏へ繰り返し描いている。
上で風が鳴った。
谷の灯のうち、七番目が一度消えた。
人々が足を止める。
しばらくして光は戻ったが、洗濯物へ当たる色が、さっきより青かった。




