↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/16

第13話 減らない一人分

 ガロの盾がなくなっただけで、台所の戸はひどく軽くなった。


 リゼルは塩を取りに入り、勢いを余らせて棚へ肩をぶつけた。壺の蓋が落ちた。拾いながら、いつもはここで一度止められるのだと思った。


 止めるものは、どこにもなかった。


 四号室の前へ、昨日のままの油瓶がある。


 瓶を拾い、机へ置いた。寝台は使われていない。ガロは床で眠る方が落ち着くらしく、敷いた布も隅へ寄せてあった。椅子の曲がった足の下だけが、平らな小石で直されている。


 リゼルはそこへ座った。


 椅子は傾かなかった。


 小さな騎士の手当てをした時には、盾がなければ傾いた。いつ石を入れたのか、見ていなかった。


 窓の下に、包帯の糸が落ちていた。


 取ろうとして、手を止めた。


 清掃を始めたら、残っているものが減る。


 リゼルは椅子を戻し、扉を閉めずに出た。


 暖炉の前にはモクがいた。


 昨夜から何も食べていない。用意した皿へ鼻を寄せ、すぐ離れる。焦げた部分も選ばず、足元へ置いた赤い外套を見ていた。


 リゼルは炉の横で石を一つ温めた。いつものように布へ包み、ガロの場所へ持っていった。


 置いてから、立ち止まった。


 モクが顔を上げた。


 リゼルは石を戻そうとした。


「冷めるまで、そこに置け」


 モクが言った。


 彼女は頷き、石を置いた。


 十時に、サヴィルの使いが来た。


 若い事務員だった。玄関から食堂を見回し、帽子を両手で握っている。リゼルが何の用か聞くと、残りの出演料についてと言った。


「支払は、保留になりました」


 書類を一枚出す。


 装置破損、幕の修理、観客への払い戻し。細かい数字が並び、その最後に、核一体分の評価額が書かれていた。


 ガロの名はなかった。


「これ、誰が書きました」


「会計が」


「会計の、誰ですか」


 事務員は困ったように帽子を回した。


 リゼルは書類を机へ広げ、四号室の鍵をその横へ置いた。


「この子は出演していません。モクだけ、と追加の紙へ書いたでしょう」


「私は、持って来るように言われただけなので」


 彼女は事務員の手を見た。


 人を呼びに戻ると言えばいい。支配人を連れて来いと怒鳴ればいい。目の前の若者が自分を嫌な客だと思っても構わない。


 そのはずなのに、喉が縮んだ。


 謝りそうになった。


 リゼルは机へ両手をついた。


「それでは、受け取れません。書いた人が来て、私に説明してください」


 事務員は書類を取ろうとした。


「写しを残して」


 リゼルが言うと、彼はようやく鞄からもう一枚出した。


 帰る時、宿泊客はいないのかと聞いた。声が小さかった。誰かがいたら、今の話を聞かれたと思ったのだろう。


「います」


 リゼルは答えた。


 事務員は、皿の前の空いた椅子へ目をやり、そのまま帰った。


 リゼルは残された写しをミーナへ送った。返事は昼前に届いた。大道具庫の戸の下から銀の擦れ跡が見つかり、装置を出し入れした者を調べているという。


 ガロを戻してほしいと書いた欄には、隊からの返答が添えられていた。鎧を開くには移し場が必要で、今は保管を続ける。


 リゼルはその下へ、いつ、どこで、と書き足した。


 昼になって、アシェルが下りてきた。


 右腕の包帯が、固い殻のようになっている。肩まで血が広がり、外套を着られなかった。昨夜は傷を見せる前に、リゼルが四号室へ入ってしまったのだった。


「洗います」


 彼女は湯を用意した。


 アシェルは上着の釦を外そうとして、二つ目で止まった。右腕を抜くと傷が開く。リゼルは鋏を出した。切られる上着を彼が惜しそうに見たので、縫い目だけをほどいた。


 袖の内側から、小さな革袋が落ちた。


 乾いた銅貨が七枚、桶の脇へ転がる。


 リゼルは拾わなかった。


 袋の口に、二つ折りの紙が入っていた。


 アシェルはそれを取った。隠そうとし、手の途中で止まった。


「見せてください」


 リゼルの声は、自分が思ったより普通だった。


 彼は紙を開いた。


 細い字が並んでいた。六号室、煤角兎型。小型時には会話可能。宿主への攻撃意思なし。外で大型化、熱源は館内銅管。二号室、硝子型、音の遮断。第四層型、右腕なし、盾で遮蔽物を支える。


 宿主の債務、二百九。


 最後の数字を見て、リゼルは湯桶を下ろした。


 ザイグが知っていた理由は、修理屋から聞いたからではなかった。


「いつ、書きました」


「最後に足したのは、板が来た日の夜です」


「私がガロの寝場所を、温めていた時」


「はい」


 リゼルは、袖の縫い目をほどく指を止めた。


「干し台は、このお金ですか」


 アシェルは下を向いた。


「はい」


 台所の干し台は、今もシーツを四枚支えている。彼女は昨日、あってよかったと思った。血のついた布をほかの洗濯物と離して干せたから。


 リゼルは鋏を置いた。


「ずいぶん、よく乾きました」


 アシェルの指が動いた。


 二度、椅子を叩いた。


 リゼルは腕を触っていなかった。


「ザイグへ出しました。隊の記録に残すためだと言われて。劇場へ渡るとは」


「どこへ行くと思っていたんですか」


 彼は紙の折れ目を見つめた。


「消されないように。変化する前に倒しても、こういうものが残るとわかれば、戦い方が変わると思った」


「お金は、記録のお礼?」


「そうです」


「それを、私に言わずに買ったんですね。私が毎日使う物を」


 アシェルは答えなかった。


 モクが立ち上がった。


 皿をまたぎ、アシェルの靴の前へ来た。初めて会った時には、襟へ跳びかかった。今日は跳ばなかった。


「あいつの盾も、書いたのか」


 アシェルは頷いた。


「片手しか、ないのに」


 モクは紙を見た。


 前脚を伸ばし、端を引いた。紙は裂けなかった。アシェルが手を放すと、モクはそれを床へ置き、四号室へ向かって押した。


 階段の一段目で止まった。


 紙は階段を上がれなかった。


 リゼルは湯桶の布を絞った。


 傷を洗う。


 血の固まった包帯を一枚ずつ剥がす。アシェルは痛がる声を出さなかった。それが、ひどく腹立たしかった。


「痛いなら、動く前に言ってください」


 彼は頷いた。


 布を巻き終えると、リゼルは針と糸を机へ置いた。


「上着は、ご自分で」


「はい」


 アシェルは七枚の銅貨を拾い、帳場へ置いた。


「受け取ったのは全部で二十四枚です。残りは、あとで」


「ガロの代金みたいに置かないでください」


 銅貨を押し戻した。


 力が強すぎて、一枚が床へ落ちた。


 アシェルはそれを拾い、袋へ戻した。五号室の鍵を外し、今度は金と離れた場所へ置く。


「ここには、いられませんね」


 リゼルは彼の顔を見た。


 そう言って送り出せば、裏切った人間が一人いなくなる。宿の中で彼の顔を見ずに済む。自分が見ないふりをしてきた革袋も、台所からなくなる。


「出て行けば、どこへ戻るんですか」


「隊舎へ」


「また、私たちのことを書く?」


 アシェルは首を振った。


 リゼルは小さく息を吸った。


「ガロを、出せますか」


 彼はすぐには答えなかった。


 その沈黙の間に、リゼルは冷めた水を流しへ捨てた。戻ると、アシェルは紙を取り、裏返していた。


「鎧から核を抜くのは、地下の移し場です。外の留め具だけ開けると、熱が一度に逃げて中が砕ける。順番に外すには、内側の栓を」


 ペンが止まった。


「僕は、内側を見たことがありません」


 リゼルは椅子へ座った。


「見たところだけ、書いてください」


 アシェルは頷いた。


 第一層から下へ、七つの箱が並んだ。客席へ上がる階段とは別に、核を運ぶ狭い道がある。彼の線は第四層で一度途切れた。第五層から先は斥候の交代場所だと言い、見ていない区間を描かなかった。


 リゼルは、その空白を見ていた。


 ガロを助ける道は、そこから先にある。


 地図ができてから、リゼルは五号室の鍵を紙の端へ置いた。アシェルは受け取り、服の内側へ戻した。


 夕方、テッサが濡れた靴を持って来た。


 リゼルが昨日、劇場の控室で脱いだまま忘れた靴だった。土台の留め具を外すために、まだ舞台係が作業をしていたという。


「サヴィルの所へ行くなら、一緒に行く」


 テッサは靴を置き、縫い直した袖を捲った。


「あんたが引いた管を見た。あれで止まらなかったのは、あんたの手が遅かったからじゃない」


 リゼルは頷いた。


「でも、連れていったのは私です」


 テッサは何か言いかけ、やめた。


 椅子を一脚引いて座った。


 しばらく二人で、同じ靴を見た。靴の底には、劇場の赤い絨毯の糸が貼りついていた。


 リゼルはそれを一本、取った。


 夜、ノックがあった。


 テッサが帰ったあとの食堂には、まだ椅子が一脚余分に出ていた。リゼルは片づけずに玄関へ向かった。


 ザイグが立っていた。


 馬はいない。外套の右側だけが、妙に持ち上がっている。胸の鎧を押さえた手から、赤い錆が落ちた。


「寝台を、一つ」


 リゼルは敷居の前へ立ったまま、彼を見た。


 外套の下で、小さな盾の縁が動いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。