第13話 減らない一人分
ガロの盾がなくなっただけで、台所の戸はひどく軽くなった。
リゼルは塩を取りに入り、勢いを余らせて棚へ肩をぶつけた。壺の蓋が落ちた。拾いながら、いつもはここで一度止められるのだと思った。
止めるものは、どこにもなかった。
四号室の前へ、昨日のままの油瓶がある。
瓶を拾い、机へ置いた。寝台は使われていない。ガロは床で眠る方が落ち着くらしく、敷いた布も隅へ寄せてあった。椅子の曲がった足の下だけが、平らな小石で直されている。
リゼルはそこへ座った。
椅子は傾かなかった。
小さな騎士の手当てをした時には、盾がなければ傾いた。いつ石を入れたのか、見ていなかった。
窓の下に、包帯の糸が落ちていた。
取ろうとして、手を止めた。
清掃を始めたら、残っているものが減る。
リゼルは椅子を戻し、扉を閉めずに出た。
暖炉の前にはモクがいた。
昨夜から何も食べていない。用意した皿へ鼻を寄せ、すぐ離れる。焦げた部分も選ばず、足元へ置いた赤い外套を見ていた。
リゼルは炉の横で石を一つ温めた。いつものように布へ包み、ガロの場所へ持っていった。
置いてから、立ち止まった。
モクが顔を上げた。
リゼルは石を戻そうとした。
「冷めるまで、そこに置け」
モクが言った。
彼女は頷き、石を置いた。
十時に、サヴィルの使いが来た。
若い事務員だった。玄関から食堂を見回し、帽子を両手で握っている。リゼルが何の用か聞くと、残りの出演料についてと言った。
「支払は、保留になりました」
書類を一枚出す。
装置破損、幕の修理、観客への払い戻し。細かい数字が並び、その最後に、核一体分の評価額が書かれていた。
ガロの名はなかった。
「これ、誰が書きました」
「会計が」
「会計の、誰ですか」
事務員は困ったように帽子を回した。
リゼルは書類を机へ広げ、四号室の鍵をその横へ置いた。
「この子は出演していません。モクだけ、と追加の紙へ書いたでしょう」
「私は、持って来るように言われただけなので」
彼女は事務員の手を見た。
人を呼びに戻ると言えばいい。支配人を連れて来いと怒鳴ればいい。目の前の若者が自分を嫌な客だと思っても構わない。
そのはずなのに、喉が縮んだ。
謝りそうになった。
リゼルは机へ両手をついた。
「それでは、受け取れません。書いた人が来て、私に説明してください」
事務員は書類を取ろうとした。
「写しを残して」
リゼルが言うと、彼はようやく鞄からもう一枚出した。
帰る時、宿泊客はいないのかと聞いた。声が小さかった。誰かがいたら、今の話を聞かれたと思ったのだろう。
「います」
リゼルは答えた。
事務員は、皿の前の空いた椅子へ目をやり、そのまま帰った。
リゼルは残された写しをミーナへ送った。返事は昼前に届いた。大道具庫の戸の下から銀の擦れ跡が見つかり、装置を出し入れした者を調べているという。
ガロを戻してほしいと書いた欄には、隊からの返答が添えられていた。鎧を開くには移し場が必要で、今は保管を続ける。
リゼルはその下へ、いつ、どこで、と書き足した。
昼になって、アシェルが下りてきた。
右腕の包帯が、固い殻のようになっている。肩まで血が広がり、外套を着られなかった。昨夜は傷を見せる前に、リゼルが四号室へ入ってしまったのだった。
「洗います」
彼女は湯を用意した。
アシェルは上着の釦を外そうとして、二つ目で止まった。右腕を抜くと傷が開く。リゼルは鋏を出した。切られる上着を彼が惜しそうに見たので、縫い目だけをほどいた。
袖の内側から、小さな革袋が落ちた。
乾いた銅貨が七枚、桶の脇へ転がる。
リゼルは拾わなかった。
袋の口に、二つ折りの紙が入っていた。
アシェルはそれを取った。隠そうとし、手の途中で止まった。
「見せてください」
リゼルの声は、自分が思ったより普通だった。
彼は紙を開いた。
細い字が並んでいた。六号室、煤角兎型。小型時には会話可能。宿主への攻撃意思なし。外で大型化、熱源は館内銅管。二号室、硝子型、音の遮断。第四層型、右腕なし、盾で遮蔽物を支える。
宿主の債務、二百九。
最後の数字を見て、リゼルは湯桶を下ろした。
ザイグが知っていた理由は、修理屋から聞いたからではなかった。
「いつ、書きました」
「最後に足したのは、板が来た日の夜です」
「私がガロの寝場所を、温めていた時」
「はい」
リゼルは、袖の縫い目をほどく指を止めた。
「干し台は、このお金ですか」
アシェルは下を向いた。
「はい」
台所の干し台は、今もシーツを四枚支えている。彼女は昨日、あってよかったと思った。血のついた布をほかの洗濯物と離して干せたから。
リゼルは鋏を置いた。
「ずいぶん、よく乾きました」
アシェルの指が動いた。
二度、椅子を叩いた。
リゼルは腕を触っていなかった。
「ザイグへ出しました。隊の記録に残すためだと言われて。劇場へ渡るとは」
「どこへ行くと思っていたんですか」
彼は紙の折れ目を見つめた。
「消されないように。変化する前に倒しても、こういうものが残るとわかれば、戦い方が変わると思った」
「お金は、記録のお礼?」
「そうです」
「それを、私に言わずに買ったんですね。私が毎日使う物を」
アシェルは答えなかった。
モクが立ち上がった。
皿をまたぎ、アシェルの靴の前へ来た。初めて会った時には、襟へ跳びかかった。今日は跳ばなかった。
「あいつの盾も、書いたのか」
アシェルは頷いた。
「片手しか、ないのに」
モクは紙を見た。
前脚を伸ばし、端を引いた。紙は裂けなかった。アシェルが手を放すと、モクはそれを床へ置き、四号室へ向かって押した。
階段の一段目で止まった。
紙は階段を上がれなかった。
リゼルは湯桶の布を絞った。
傷を洗う。
血の固まった包帯を一枚ずつ剥がす。アシェルは痛がる声を出さなかった。それが、ひどく腹立たしかった。
「痛いなら、動く前に言ってください」
彼は頷いた。
布を巻き終えると、リゼルは針と糸を机へ置いた。
「上着は、ご自分で」
「はい」
アシェルは七枚の銅貨を拾い、帳場へ置いた。
「受け取ったのは全部で二十四枚です。残りは、あとで」
「ガロの代金みたいに置かないでください」
銅貨を押し戻した。
力が強すぎて、一枚が床へ落ちた。
アシェルはそれを拾い、袋へ戻した。五号室の鍵を外し、今度は金と離れた場所へ置く。
「ここには、いられませんね」
リゼルは彼の顔を見た。
そう言って送り出せば、裏切った人間が一人いなくなる。宿の中で彼の顔を見ずに済む。自分が見ないふりをしてきた革袋も、台所からなくなる。
「出て行けば、どこへ戻るんですか」
「隊舎へ」
「また、私たちのことを書く?」
アシェルは首を振った。
リゼルは小さく息を吸った。
「ガロを、出せますか」
彼はすぐには答えなかった。
その沈黙の間に、リゼルは冷めた水を流しへ捨てた。戻ると、アシェルは紙を取り、裏返していた。
「鎧から核を抜くのは、地下の移し場です。外の留め具だけ開けると、熱が一度に逃げて中が砕ける。順番に外すには、内側の栓を」
ペンが止まった。
「僕は、内側を見たことがありません」
リゼルは椅子へ座った。
「見たところだけ、書いてください」
アシェルは頷いた。
第一層から下へ、七つの箱が並んだ。客席へ上がる階段とは別に、核を運ぶ狭い道がある。彼の線は第四層で一度途切れた。第五層から先は斥候の交代場所だと言い、見ていない区間を描かなかった。
リゼルは、その空白を見ていた。
ガロを助ける道は、そこから先にある。
地図ができてから、リゼルは五号室の鍵を紙の端へ置いた。アシェルは受け取り、服の内側へ戻した。
夕方、テッサが濡れた靴を持って来た。
リゼルが昨日、劇場の控室で脱いだまま忘れた靴だった。土台の留め具を外すために、まだ舞台係が作業をしていたという。
「サヴィルの所へ行くなら、一緒に行く」
テッサは靴を置き、縫い直した袖を捲った。
「あんたが引いた管を見た。あれで止まらなかったのは、あんたの手が遅かったからじゃない」
リゼルは頷いた。
「でも、連れていったのは私です」
テッサは何か言いかけ、やめた。
椅子を一脚引いて座った。
しばらく二人で、同じ靴を見た。靴の底には、劇場の赤い絨毯の糸が貼りついていた。
リゼルはそれを一本、取った。
夜、ノックがあった。
テッサが帰ったあとの食堂には、まだ椅子が一脚余分に出ていた。リゼルは片づけずに玄関へ向かった。
ザイグが立っていた。
馬はいない。外套の右側だけが、妙に持ち上がっている。胸の鎧を押さえた手から、赤い錆が落ちた。
「寝台を、一つ」
リゼルは敷居の前へ立ったまま、彼を見た。
外套の下で、小さな盾の縁が動いた。




