第12話 拍手の向こう
客席に、テッサの新しい袖が見えた。
リゼルが渡した六枚で直した作業服だった。古い布より少し青く、肘のところだけ四角い。隣にはベルンがいる。二人とも、よそ行きの顔をして手を振った。
リゼルは舞台袖から小さく振り返した。
モクが、足元の隙間から客席を覗いた。
「多い」
「入った人を、数えています」
「いくつだ」
「途中で、同じ人を二度」
モクは彼女を見上げた。
「数えられないほどだな」
鼻が上がった。
リゼルは笑おうとして、唇の内側を噛んだ。まだ乾ききっていない靴底が、板の上で滑る。控室の壁際へ靴を脱ぎ、厚い靴下で舞台袖へ戻った。下で人が動くたび、足の裏へ振動が伝わってくる。
アシェルが床下から上がってきた。
「筒の下は空いていました。余分な留め具も外してある」
ミーナが床下から受け取った検査紙へ印を押した。左の壁にある大道具庫の戸には、彼女が渡した紙の帯が貼られている。中を見たあと、物を出し入れしない約束だった。
白い計測筒を、舞台の端へ置いた。管の一方は油炉へ、もう一方はモクの首の鍵へつながっている。鍵の歯を柔らかい輪で挟むだけで、引けば抜ける。リゼルは自分の手で三度確かめた。
膨らんだり縮んだりした時に絡まないよう、管には十分な長さがある。
「下に誰か残っていますか」
「舞台係が二人。右の昇降口は僕が見ます」
「左は」
「ガロが」
小さな騎士が、左端に立っていた。ミーナは客席へ回り、通路に置かれた荷袋を持ち主の膝へ戻させた。それから出口に近い席へ腰を下ろした。
四号室の鍵は肩の包帯の上へ下げている。盾に隠れる位置だった。リラはリゼルの首元の布に潜り、自分の鍵を薄い鰭で抱えていた。
サヴィルが舞台へ出た。
拍手が起きた。
彼は第一層の火の話から始めた。勇者が道を開き、黒い獅子が煙を吸った。誰が工具箱を倒したかは言わなかった。
リゼルは、モクの背へ手を置いた。
赤い布の下で、彼の肩が固くなっている。
「途中で戻っても、構いません」
「半分だろ。白いのが」
モクが筒を見た。
「そこまでで、戻る」
リゼルは頷いた。筒の真ん中にある線を、もう一度、爪でなぞった。
名前を呼ばれた。
彼女は舞台の中央へ出た。
客席が暗い。灯は頭の上にあり、前を向くと、人の顔より先に無数の襟が見えた。立ったままお辞儀をするタイミングを逃し、膝だけが半端に曲がった。
何人かが笑った。
リゼルは慌てて頭を下げた。
「終わり木亭の、リゼルです」
声が客席まで届いたのか、自分ではわからなかった。
足元から、赤い布が現れた。
布だけが床を走って来るので、前の席の子どもが声を上げた。モクはリゼルの隣へ座り、一度だけ鼻を彼女の手へ当てた。
鍵が温かくなった。
黒い身体が広がった。
影が舞台の床を満たし、金色の目が照明の高さまで上がる。折れた月のような二本角の間へ、赤い布が小さく浮いた。衣装係の作った大きい外套は、後ろの吊り具から背へ落ちた。
どよめきが来た。
モクの耳が揺れた。
リゼルは計測筒を見た。白い部分は、ゆっくり下がっている。まだ四分の一も減っていない。管に霜はない。
彼女の肩から力が抜けた。
モクが前脚を上げた。
練習した通り、床を叩かず、空中で一度止める。小さい兎のまま何度も繰り返した仕草だった。客席へ金色の爪が向くと、子どもたちが一斉に手を振った。
モクは一人ずつ見ようとした。
頭を左右へ振りすぎ、角が外套の留め具へかかった。
赤い布が片側へずれた。
客席が笑った。
リゼルはすぐ彼を見た。
モクは笑い声の方へ鼻を向けた。今度は、大きくなろうとしなかった。首を少し下げ、布を前脚で押さえようとした。爪が長すぎて、やはり掴めない。
リゼルが背の端へ手を伸ばす。
モクは自分から頭を低くした。
彼女は留め具を外し、布を床へ引いた。
拍手が起きた。
テッサが両手を頭の上で叩いていた。袖の四角い青が、灯に照らされた。
リゼルは笑った。
モクのたてがみの一部が、風に吹かれたように浮いた。床の継ぎ目から細い銀糸が出て、黒い毛へ絡みついていた。
銀糸は左の大道具庫まで続いている。戸の紙帯は切れていなかった。その下の、重い舞台装置を滑らせる溝から、薄く畳まれた銀の板が押し出されていた。
客席の一人が指をさす。黒い毛が舞台の左端へ流れている。リゼルは筒を見た。白い部分は半分より上にある。
なのに、足元の管が冷たかった。首元のリラまで冷え、ガロの肩に下げた四号室の鍵も白く曇った。宿の共通炉から、全部の部屋へ行く熱が引かれている。
鍵の歯へ黒い滴がついた。
リゼルは管の輪へ手をかけた。
「モク、終わりです」
引いた。
輪は抜けた。
黒い滴は止まらなかった。
モクが彼女を見た。大きな目の奥で、金色が細く震えている。
「戻れない」
舞台の下で、金属が噛み合った。
計測筒の白い部分が、一気に底まで落ちた。
ガロが盾を床へ突いた。
左の壁から伸びた銀の板が、モクの足元で起き上がった。床へ伏せて運ばれた板が一枚ずつ立ち、前脚を囲む輪になる。ガロの見張っていた昇降口は、閉じたままだった。
アシェルが中央へ走った。
「下です! 筒じゃない」
リゼルは鍵の紐を切ろうとした。鋏が前掛けの奥で引っかかる。切ってしまえば、鍵はモクの身体から離れる。今の彼がどうなるのか、わからなかった。
銀の板が立った。
ガロがその間へ入った。
盾が板の噛み合わせを受けた。輪が止まり、モクの脚へ食い込む直前の隙間が残った。ガロが盾を捻ると、床へ張られた銀糸が一本ずつ切れた。黒いたてがみが、ようやくモクの方へ戻る。
「退け」
小さな声だった。
リゼルはモクの鍵を握り、彼の鼻先へ押しつけた。
「小さく。今です!」
黒い獅子がほどけた。
兎の身体が、彼女の胸へぶつかった。銀の輪は大きな脚のあった場所へ狭まった。その内側で、丸盾が歪む。
ガロの左腕が引かれた。
リゼルはモクを床へ下ろし、手を伸ばした。
「幕を下ろせ。客に見せるな!」
サヴィルの声がした。
舞台の中央へ、防火幕が下りてきた。
客席の方から悲鳴が起きた。重い鉄の幕が、銀の装置へ引っかかって斜めになっている。片側だけが床に着き、反対側には人の腰ほどの隙間が残った。
客席の照明が消えた。
リラが反射的に音を奪った。
悲鳴も、幕を止めろという舞台係の声も、同時に消えた。
リゼルは首元の魚を掴んだ。
「声を! 戻してください!」
声が戻った時には、後ろの客が前へ押されていた。
入口が開かなかった。逃げようとする客が内開きの扉の前まで詰まり、葉板を引く場所がない。ミーナが最前の男へ後ろへ下がれと叫んでいた。男の背後から、さらに人が来る。子どもを抱いた女が客席の端を横へ走り、別の男へぶつかった。
舞台の下から、テッサの声がした。
「灯を戻せ! 足が見えない!」
アシェルが短槍を斜めの幕の下へ差し込んだ。
手のひらを広げ、押し上げようとする。鉄の重さは動かない。右腕の包帯が赤くなった。
モクがその横へ走った。
首の鍵をくわえる。
リゼルは両手で彼を止めた。
鍵は冷えきっていた。六号室の上枠を越え、もう柱へ行く。
「まだ駄目です。ほかの物を」
何がある。
舞台の板。椅子。衣装を吊った棒。暖炉へ入れるために買った薪は宿だ。ここには、人が踏んで登れるものがある。
「客席の椅子、こっちへ!」
テッサが一脚を引いた。床に留めてある。ベルンが腰から工具を出し、留め金へ突っ込んだ。ネジを回している時間はなかった。二人が背もたれを引くと、古い脚の方が裂けた。
リゼルは舞台の縁へ腹ばいになり、差し上げられた座面を受け取った。
ガロが、すぐ横にいた。
銀の輪に左手を捕まれ、身体を引き上げられている。右肩の包帯がほどけ、小さな鍵が揺れていた。
彼女は椅子を置き、ガロへ手を伸ばした。
客席から、甲高い泣き声がした。
女の子が、幕の下へ這い込んでいた。前へ押され、舞台の方が空いていると思ったのだろう。頭は隙間を通ったが、冬の上着が鉄の縁へ引っかかった。
アシェルの槍が曲がった。
リゼルはガロを見た。
ガロが盾の角度を変えた。
銀の輪を止めていた最後の隙間が消える。代わりに、丸盾の端が防火幕の継ぎ目へ入った。
幕が一瞬、上がった。
リゼルは女の子の上着を掴み、引いた。
身体が抜けた。
銀の輪が閉じた。肩の紐が歯で切れ、鍵が輪の縁へ引っかかった。
錆を砕く音がした。
リゼルの目の前で、ガロの左肩が伸びた。小さな鎧が影になり、影の真ん中から、丸い暗色の塊が露わになる。
ガロの兜が一度だけ彼女を向いた。
声はなかった。
女の子が、リゼルの首へしがみついた。
彼女はその背中を押し上げ、舞台の奥へ抱えて行った。半歩戻りかけて、子どもがまた足を掴む。
客席の入口で、金色の線が走った。
ザイグの剣が、扉の上の横木を外から断った。蝶番の留め金まで切り離し、二枚の葉板を、客の重みを受けたまま外へ引き抜く。
ザイグが入ってきた。
金色の剣が、入口の上にある灯具を打った。割れた硝子の中から白い火が伸び、客席を照らした。彼は逃げる客へ片腕を上げ、階段の脇を指した。
「走るな。右を空けろ。子どもを先へ」
その声には、人の足を止める重さがあった。
リゼルは女の子をテッサへ渡し、銀の輪へ戻った。
ケルドが、その下にいた。
鉄具の左腕で支えた器へ、暗い塊が落ちる。右手が蓋を閉めた。蓋にはガロの盾の欠片が挟まっていた。
「開けて」
リゼルは舞台の穴へ膝をついた。
「その中にいるんです。ガロです!」
ケルドは蓋を叩いた。欠片が中へ入り、銀の歯が合わさった。
リゼルは器へ両手をかけた。
焼けるように冷たい。
ケルドが腕を引く。彼女は離さなかった。火傷の皮が蓋の縁に擦れ、指先へ血が流れた。
ザイグが舞台へ上がった。
アシェルの槍を押し上げ、幕の隙間へ椅子の座面を差し込む。二本目の棒を入れ、ようやくアシェルが手を放せた。
「ザイグさん、これを」
リゼルは器を示した。
ザイグは、蓋の間から滲む赤い錆を見た。
「手を離せ」
「この子を出してから」
彼はケルドへ手を差し出した。
器が彼の方へ渡った。
リゼルの指が滑る。
ザイグの胸の黒い鎧が、器へ向かって小さく開いた。
丸い金具が内側から回る。器の底と噛み合い、蓋が開いた。赤い錆が一筋、鎧の中へ入った。
装置が下へ沈み、縁に引っかかっていたガロの鍵が、床へ落ちた。
リゼルは拾おうとして、膝を滑らせた。床へ片手をつき、もう片方を伸ばす。指先が鍵の輪へ届き、掌の中へ引き寄せた。
「返して」
ザイグは鍵を見た。
「崩れかけている。ここでは出せない」
「宿なら」
「その宿の炉を、今、冷やし切っただろう」
リゼルは何も言えなかった。
ザイグは外套をかけ直した。鎧の右の縁から、盾に似た薄い鉄がせり出した。彼の腕ではないものが、観客の方を庇おうと動いた。
ザイグはそれを、肘で押さえた。
「地下へ運ぶ。おまえたちは帰れ」
彼は銀の器をケルドへ返した。
リゼルの手の中で、四号室の鍵が一度だけ鳴った。
劇場を出ると、昼の灯が明るかった。
テッサが階段の下にいた。助けた女の子の母親を見つけたという。女の子は母の首へ抱きつき、片足から靴を落としていた。
リゼルは靴を拾った。
渡すと、女の子が小さく頭を下げた。
「ありがとう」
リゼルは返事をしようとした。
四号室の鍵を握った手が、口の前まで上がった。
そのまま、何も言えなくなった。




