誰も喧嘩売ってこん……
慶長五年。
本来であれば、この頃。
上杉景勝より、あの有名な”直江状”が届き、徳川家と上杉家の対立が決定的になる――。
……はずなのだが。
「殿。」
本多正信が一礼する。
「上杉より文は?」
家康は何気なく尋ねた。
「届いておりませぬ。」
「……そうか。」
家康は茶を一口啜る。
まだ時期が早いのだろう。そう思っていた。
◇◇◇
三日後。
「正信。」
「はい。」
「上杉は。」
「雪対策に追われております。」
「……うむ。」
「春までに山道を整えねばならぬそうで。」
「そうか。」
「伊達や最上、佐竹ら、東北勢も同じく。」
「……うむ。」
◇◇◇
さらに数日後。
「宇喜多は。」
「家臣同士が揉めております。」
「まだか。」
「まだです。」
「毛利は。」
「跡目で悩んでおります。」
「まだか。」
「まだです。」
「大友は。」
「復興です。」
「島津は。」
正信は一拍置いた。
「島津です。」
「……相変わらずか。」
「相変わらずです。」
家康はふと、ある男を思い出す。
「そういえば、大谷吉継はどうしておる?」
「大和にて療養中にございまする。」
「まだか?」
「まだです。近頃は家中の権限の殆どを、嫡男に譲られたとか。」
家康は湯呑みをそっと置く。
「……もう隠居しておるではないか。」
「さあ?」
以上である。
◇◇◇
その日の夕刻。
「内府殿!」
秀頼が嬉しそうに走って来た。
「今日は字を書きました!」
「ほう。」
「見てください!」
紙いっぱいに書かれた文字。
まだ少し歪ではあるが、『民』と、しっかり書けている。
「おお。」
家康は自然と笑みを浮かべた。
「上手になられましたな。」
「誠ですか!」
「はい。」
秀頼は満面の笑みだった。
その様子を見ていた茶々も嬉しそうに微笑む。
「徳川殿のお陰です。」
「某は何も。」
「そんな事ありまへん。」
家康は照れ臭そうに咳払いした。
◇◇◇
その夜、大坂城・西の丸の部屋にて寛いでいた家康は、湯呑みを持ったまま固まっていた。
「……正信。」
「はい。」
「儂。」
「はい。」
「会津討伐へ行く暇が無いんじゃが。」
「ございませぬな。」
「……。」
「……。」
正信は帳面を開く。
「明日は奉行衆との調整。」
「うむ。」
「午後より秀頼様の算術。」
「うむ。」
「夕刻、朝鮮との和睦交渉。」
「うむ。」
「翌日は南蛮との交易について、小西殿らと協議。」
「……。」
「その翌日は。」
「もうよい。」
家康は手を上げた。
「忙しいのは分かった。」
「左様で。」
静寂。
やがて家康はぽつりと呟く。
「……誰も喧嘩を売ってこんのぉ。」
「はい。」
「皆、自分の領地で忙しそうじゃ。」
「はい。」
「儂。」
「はい。」
「何か見落としておらぬよな?」
正信は真剣に考えたが、分からないものは分からない。
「殿。」
「何じゃ。」
「平和にございます。」
家康は天井を見上げた。
「……平和じゃのぉ。」
◇◇◇
その頃、佐和山城。
「こらぁぁぁ!!」
薬草畑を猪が駆け抜ける。
「待たんかぁぁぁ!!干し肉にしたるわぁぁぁ!!」
槍を持った三成が全力疾走、猪は必死に逃げる。
「父上ぇー!」
重家が叫ぶ。
「また薬草踏まれてるぅ!」
「今日こそ捕まえたるぅぅ!!」
そして更にその後ろから。
「佐吉ぃぃ!!待てぇぇ!!」
「市ぃぃ!!そっち回れぇぇ!!」
「任しとけぇ!」
薬草畑を駆け回る三人。
天下は、今日も平和だった。




