治部殿、何人おるん?
石田三成が佐和山へ戻ってから、早くも一カ月が経った。
大坂城・西の丸。
「……そろそろ、京都新城へ移るか。」
寧々がぽつりと呟くと、向かいに座る茶々が顔を上げる。
「もうですか?」
「ええ。」
寧々は庭へ目を向けた。
「西の丸も、そのうち徳川殿が使われるやろうしな。」
「そうですねぇ。」
茶々も静かに頷く。
豊臣家は秀頼を中心とした家である。
大老筆頭たる家康が入るのだから、自分たちがいつまでも西の丸を使う訳にもいかない。
「お茶々。」
「はい。」
「アンタは大丈夫か?」
茶々は少しだけ考え、笑った。
「耐えられんようになったら、寧々様んとこへ家出します。」
「……。」
「秀頼連れて。」
「はっはっは!」
寧々は声を上げて笑った。
「その時は部屋一つ空けとくわ。」
「お願いします。」
二人は笑い合った。
だが――
「その前に。」
寧々はふっと真顔になる。
「大老衆が騒ぎ始める頃やろうなぁ……。」
「ですねぇ。」
茶々も遠い目をした。
「『豊臣家が』『天下が』『徳川が』……。」
「始まるわねぇ。」
「始まりますねぇ。」
二人は同時に溜め息を吐いた。
「寧々様、やはり早めに移った方がよろしゅうございます。」
「うん、『豊臣の御為!』言うて、徳川殿と対抗する為に、私を神輿にしようとするやろ。」
「どこまで本心か、分かりませぬもの。」
二人は頷き合った。
その頃、奉行所では……。
「検地は!?」
「治部殿です!」
「今年の予算!」
「治部殿です!」
「朝鮮との和睦交渉!」
「治部殿です!」
「南蛮との交易!」
「治部殿!」
「大納言様の法事!」
「治部殿!」
「……。」
部屋中が静まり返る。
やがて、一人がぽつりと呟いた。
「……治部殿、何人おるんや?」
誰も否定できなかった。しばらく沈黙が続く。
「もう我慢ならん!」
一人が立ち上がる。
「治部殿を呼び戻そう!」
「「そうや!」」
その日、大坂城では大量の書状が書かれ始めた。
一方、小西行長は城内を全力疾走していた。
「あれ〜?」
廊下を走りながら帳簿を捲る。
「去年の検地帳簿……。」
一枚、二枚、三枚………。
「……無い。」
今度は文箱を漁る。
「朝鮮との和睦交渉……それから南蛮との交易……。」
無い。
「どこやろ〜?」
しばらく考えた。
「……聞いた方が早いな。」
さらさらさら、と流れるように文を書く。
『治部殿へ。
検地帳簿どこにありますか?』
書き終えると、小姓へ渡した。
「頼むわ〜。」
浅野長吉もまた、帳簿と睨めっこしていた。
「大納言様の法事……。大政所様の法事……。あれ?去年、どうした?」
沈黙。
「…………佐吉に聞くか。」
迷いが無かった。
長束正家も同じだった。
「予算書……。去年の収支……。」
しばらく考えた。
「治部殿なら知っとるやろ。聞いた方が早いわ、これ。」
そして、文を書いた。
その頃、片桐且元は机へ突っ伏していた。
「……胃が痛い。」
朝から、ずっと胃が痛い。
朝から晩まで、責任の押し付け合いしている家臣たちを仲裁し、浅野長吉らと手分けして奉行の仕事をこなす。
終わりが見えない……。いや、本当に……。
「儂も……。」
天井を見上げる。
「近江帰ろうかな……。」
本気でそう思った。
そして、大坂城・西の丸。
「次。」
家康が静かに言う。
「順番に話せ。」
「「はっ。」」
「一人ずつ。」
「「はっ。」」
「次。」
「「はっ。」」
気付けば、家康は朝から仲裁役を務めていた。
責任の押し付け合いに、予算、検地、和睦、儀礼。
山積みの案件を、一つずつ片付けていく。
ようやく静かになった頃、小姓が声を掛けた。
「内府様。」
「何じゃ。」
「秀頼様がお待ちでございます。」
「ああ、もうそんな時間か……。」
家康は立ち上がった。
奥御殿へ入ると、秀頼が嬉しそうに筆を持ち上げる。
「内府殿。」
「はい。」
「今日は何を教えてくださるのですか?」
家康は自然と笑みを浮かべた。
「今日は算術にございまする。」
「はい!」
秀頼は嬉しそうに頷いた。
その頃、佐和山城では――
「こらぁぁぁ!!」
石田三成が槍を構えていた。
「今日こそ鍋にしたるわぁぁぁぁ!!」
必死に逃げる猪、追い掛ける三成。
「父上ぇー!」
重家が後ろから叫ぶ。
「また薬草踏まれてるぅ!」
「待たんかぁぁぁーーー!!」
天下の政務など知ったことではない。
佐和山は、今日も平和だった。
一方その頃、大坂城では――
「内府様!また毛利様と宇喜多様がお見えです!」
家康はそっと天を仰いだ。




