表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

96/99

第6章 第9話:切れるもの、残るもの


 最深部へ向かう足音は、もうほとんど音にならなかった。


 祓殿の床下へ降りてから、三人とも余計な言葉を使っていない。手燭の火が揺れ、湿った土の匂いが肺へ入る。梁の低さも、膝へ伝う冷たさも、もう何度も知っているはずなのに、今日だけはすべてが初めてみたいに鋭かった。

 最終切断。

 ここで、流し路も、核も、冬真の中の道も、決着をつける。

 そのために来た。


「位置」

 綾人が低く言う。


 最深部の手前。

 崩れた封具の残骸と、白い核の残り、そのさらに奥にある白い輪郭。

 前回までで条件は揃えた。

 今日はもう、観測ではない。


 冬真が最も深く噛み合う位置へ立つ。

 千歳は少しずれた場所。

 真正面ではない。だが、もう“外から戻すだけの位置”でもない。

 綾人は核の手前へ札を扇のように並べ、最後の固定を組んでいく。


「今から切る」

 綾人が言う。

「流し路の終点」

「……」

「核の残滓」

「……」

「冬真の中の道」

「……」

「その三つを同時にずらし、噛み合いを終わらせる」

 短い説明。

 でも、必要なことは全部入っていた。


「千歳」

「うん」

「今日は途中で欲を出すな」

「……」

「残すべきものを残すために、切るべきところは切る」

 千歳は小さく頷く。

 わかっている。

 でも、わかっていることと耐えられることは違う。


「冬真」

 綾人が続ける。

「お前は落ちる方を選ぶな」

「……」

「庇うな」

「……」

「先に千歳を見ろ」

 冬真は少しだけ目を細めた。

「何回言う」

「必要なだけ」

「面倒」

「知っている」

 そのやり取りが、最深部の冷えの中で不思議なくらい人間らしく響く。


     ◆


 綾人が最初の札を切った瞬間、床下の空気が一気に変わった。


 白い核が脈打つ。

 流し路の溝を満たしていた冷えが、逆流するみたいにざわりと立ち上がる。

 その奥で、白い輪郭が今までで一番はっきりと形を持った。


 人の形に似ている。

 でも違う。

 目も口もないのに、こちらを見ているのがわかる。

 特に千歳の方を。

 名前でも顔でもなく、もっと奥にある“呼ばれる意味”へ、真っ直ぐ手を伸ばしてくる。


「来る」

 冬真が低く言う。


 次の瞬間、白い気配がふっと千歳の方へ滲んだ。

 足元が遠くなる。

 床が浅い霧みたいに揺れる。


「千歳!」

 冬真の声。

「今どこ!」

 千歳は息を吸おうとして、一瞬だけ白さを飲みそうになる。

 でも、その前に自分で言葉を掴んだ。


「……祓殿の床下」

 掠れた声。

「最深部」

「そう」

 冬真が続ける。

「昼」

「……昼」

「お前は」

 一瞬、言葉が引っかかる。

 名前は遠い。

 でも、その奥はまだある。


「秋月千歳」

 自分で言う。

 その音だけではまだ薄い。

 だから千歳は、さらに続けた。


「面倒で」

「……」

「しつこくて」

「……」

「今、ここで絶対に戻る気のやつ」

 その言葉が自分自身へ落ちた瞬間、白い気配がわずかに揺らぐ。

 自分の意味を、自分で先に掴む。

 そうしないと、向こうに真似られる。


「よし」

 綾人が低く言う。

「そのまま保て」

 次の札が切られる。

 白い線が核の残りと流し路の終点へ走る。

 ざり、と土の奥で長く何かが擦れた。


     ◆


 冬真の肩が大きく揺れた。


「っ……」

 喉元へ手が行く。

 視線が奥へ持っていかれる。


「冬真!」

 千歳が呼ぶ。

「今どこ!」

「……」

 返事がない。

 今までで一番深い沈黙。

 しかも今回は、ただ引かれているだけじゃない。

 向こうが冬真の中にある“千歳へ向かう意味”ごと、引き剥がそうとしているのがわかる。


「何見てる!」

 千歳が強く問う。


 数秒の沈黙。

 やがて、掠れた声。

「……切れる」

 胸が冷たくなる。

「何が」

「名前」

「……」

「記憶」

「……」

「でも」

 一拍置いて、

「意味は、まだ」

 そこで冬真の呼吸が乱れる。


「綾人さん!」

 千歳が叫ぶ。

 綾人はすでに次の札を構えていた。

「今だ」

 白い光が、冬真の左右と核の前を一気に繋ぐ。


 白い輪郭が大きく歪む。

 同時に、冬真の視線が千歳を捉えかけて、また遠のく。

 ぎりぎりだ。

 ここで切れば、名前や表の反応はさらに遠くなるかもしれない。

 でも、今止めれば全部持っていかれる。


「千歳!」

 綾人が言う。

「呼べ! 奥だ!」

 千歳は一瞬だけ目を閉じた。

 怖い。

 でももう、ためらっている時間はない。


「冬真」

 低く、はっきり呼ぶ。

「今どこ」

「……」

「祓殿の床下」

「……」

「最深部」

「……」

「わたし」

 一拍置いて、

「お前に守られて終わるつもりない」

 冬真の眉がぴくりと動く。


「……」

「もう一人で決めるなって言った」

「……」

「庇う前に見るって言った」

「……」

「今、見て」

 白い輪郭が揺れる。

 向こうが、千歳の形を維持できなくなっていく。


「わたし」

 千歳は続ける。

「お前が面倒って言って」

「……」

「知ってるって返して」

「……」

「そういうどうでもいいのごと」

 一拍置いて、

「残したい」

 冬真の視線が、今度ははっきりとこちらへ寄る。


「……千歳」

 掠れた声。

 名前だ。

 遠くなったはずの名前。

 それが、意味の核から押し上げられるみたいに戻ってくる。


「うん」

「……お前」

「何」

「ずるい」

「知ってる」

 返した瞬間、白い輪郭が大きく崩れた。

 人の形を保てなくなる。

 意味の呼びに負けたのだと、感覚でわかる。


     ◆


「今だ!」

 綾人が最後の大きな札を核へ叩きつけた。


 白い光が、最深部全体を一気に走る。

 流し路の溝を満たしていた冷えが、逆流して、裂ける。

 ざり、ではない。

 もっと深い、長年積もった何かがとうとう断ち切られる音。


 白い核の残りがひび割れる。

 流し路の終点が沈み、土壁の奥にあった“口”が歪む。

 そして冬真の身体が大きく揺れた。


「っ、ぁ……!」

 膝が落ちかける。

 千歳は思わず一歩踏み出しかける。

 だが綾人が叫ぶ。

「まだだ! 触るな!」

 ぎりぎりで止まる。

 喉が痛い。

 でも、今は声しか使えない。


「冬真!」

「……」

「今どこ!」

 返事がない。

 視線が揺れる。

 今までで最大の喪失危機だと、感覚でわかった。

 名前も、表の記憶も、自己の輪郭も、全部が剥がれかけている。


「冬真!」

 もう一度。

「祓殿の床下!」

「……」

「最深部!」

「……」

「白瀬冬真!」

 その名前を呼んだ瞬間、冬真の喉がかすかに動く。

 けれど足りない。

 名前だけでは、足りない。


「わたし」

 千歳は絞り出す。

「お前に守られてきた」

「……」

「今、やっと全部知った」

「……」

「だから」

 一拍置いて、

「もう一人で終わるの、絶対だめ」

 白い輪郭が最後の形を失い、床下の奥で崩れていく。

 でも、その崩壊に巻かれるように、冬真の目もまた遠のく。


「綾人さん!」

 千歳が叫ぶ。

「持たない!」

「持たせろ!」

 綾人の声。

「今ここで切れたら、本当に落ちる!」

 無茶だ。

 でも、その無茶を通すしかない。


 千歳は息を吸う。

 怖い。

 泣きそうだ。

 でも、今は泣く方じゃない。


「冬真」

 低く、はっきり言う。

「戻って」

「……」

「わたし」

 一拍置いて、

「お前がいないの、嫌」

 冬真の眉が微かに寄る。


「名前だけ遠くなっても」

「……」

「記憶が少し擦れても」

「……」

「お前が、お前でいなくなるのは、嫌」

 その言葉の直後、冬真の視線がかすかに千歳へ合う。

 ほんの一瞬。

 でも、確かに。


「だから」

 千歳は続ける。

「残って」

「……」

「お前といる、お前の方」

 一拍置いて、

「そこごと」

 その言葉は、第6章ここまで積み上げてきた全部の答えだった。

 名前の先。

 意味の核。

 自己と関係が分けられなくなっている、その深部ごと呼ぶ。


「……千歳」

 冬真の唇が動く。

 声は掠れていた。

「うん」

「……わかった」

 その一言が落ちた瞬間、綾人が最後の封を閉じる。


 白い光。

 長い軋み。

 そして、最深部を満たしていた冷えが、一気に抜けた。


     ◆


 すぐには何も聞こえなかった。


 手燭の火が揺れる。

 土の匂いが戻る。

 湿った空気はまだある。

 でも、あの“輪郭を撫でる冷え”が消えている。


「……切れた」

 綾人の低い声。

 千歳は膝から力が抜けそうになる。

 でもまだ終わっていない。

 今はまず、冬真だ。


「冬真」

 千歳が低く呼ぶ。


 冬真は最深部の手前で片膝をついたまま、肩で息をしている。

 顔色は悪い。

 でも、目は閉じていない。


「今どこ」

 少し遅れて返事。

「……床下」

「うん」

「祓殿」

「うん」

「わたしは」

 ここが怖い。

 千歳は息を詰める。


 冬真の唇が、少しだけ動く。

「秋月、千歳」

 返ってきた。

 遠い。

 でも、ちゃんと届いた。


「うん」

「……しつこい」

 その一言に、千歳はようやく大きく息を吐いた。

 喉の奥が熱い。

 でも今は、まだ泣かない。


 綾人が低く言う。

「戻るぞ」

 今度は誰も反論しなかった。

 最深部は静かだった。

 もう、こちらを真似ようとする白い気配もない。


 三人はゆっくりと後退する。

 流し路の溝は、もう以前みたいな嫌な冷えを返してこなかった。

 砕けた祭具も、受け皿の窪みも、ただ古く汚れた残骸に見える。

 構造の心臓が、今たしかに止まったのだ。


 床下から這い出たとき、外の冬の空気が頬を打った。

 冷たい。

 でも、ただの冬だ。

 それだけで、千歳は少し泣きそうになる。


「……終わった?」

 小さく問う。


 綾人は祓殿を振り返り、静かに答えた。

「切れるものは、切れた」

 その言い方が、今はひどく正確だった。

 全部が元通りではない。

 でも、切るべきものは切った。


 千歳は冬真を見る。

 冬真もこちらを見ている。

 名前は少し遠いかもしれない。

 でも、その奥は残っている。

 そこまで、ようやく来た。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ