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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第6章 第8話:名前の奥で呼ぶ


 祓殿へ向かう朝は、痛いほど澄んでいた。


 雪は薄く残っている。

 空は高いのに、色は白い。冬の終わりが近いはずなのに、冷たさだけはまだ容赦がなかった。

 千歳は外套の前を押さえながら、石畳を踏む音をひとつずつ数えるみたいに歩いた。

 今日、最終切断に入る。

 そうわかっているだけで、足元の感覚が少しずつ遠くなる。

 怖い。

 正直、逃げたい気持ちもある。

 でも、その気持ちより先に、もうここで終わらせたいという思いが来る。


 前を歩く冬真の背中は、いつもより少しだけ低く見えた。

 疲労が抜けていないのだろう。

 それでも立って、歩いて、ここへ向かっている。

 そのことが、千歳にはもう痛いほどわかる。


「冬真」

 呼ぶ。


 半歩だけ、歩幅が緩む。

「何だ」

「今どこ」

 少しの間。

 それから、掠れた声。

「祓殿に向かう途中」

「わたしは」

「秋月千歳」

「綾人さんは」

「月代綾人」

 そこまで返ってきて、千歳は小さく頷く。


「うん」

「朝から毎回だな」

「毎回やる」

「面倒」

「知ってる」

 返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動いた。

 その小さな反応ひとつに、まだここへ戻れる線があるのだと、千歳は何度でも確かめる。


 綾人が前を見たまま低く言う。

「今日、最深部で切る」

 千歳は息を浅くする。

「うん」

「だが、切るだけでは終わらん」

「……」

「向こうは必ず、意味の核へ食い込もうとする」

「……」

「だから千歳」

「何」

「名前の表を呼ぶな」

 千歳は少しだけ眉を寄せた。

「表」

「そうだ」

 綾人は答える。

「遠くなった名前だけを追うと、遅れる」

「……」

「もっと奥で呼べ」

 その一言は、短いのに重かった。

 名前の奥。

 つまり、ただ“秋月千歳”と呼ぶだけでは足りない。

 その名前に結びついた意味ごと、冬真へ届かせなければならない。


「できますかね」

 思わず零れると、綾人は即座に言った。

「やるしかない」

「雑」

 千歳が返すと、綾人は平然とした顔で言う。

「最終局面だ。綺麗な言い方をしている余裕はない」

 その通りだった。

 冬真が横で小さく息を吐く。

「最悪だな」

「知ってる」

 千歳が返すと、今度は冬真が少しだけ目を細めた。

「便利に使うな」

「そっちも」

 その短いやり取りが、今はやけに大事だった。


     ◆


 祓殿の戸を開くと、内側の冷気は以前よりも薄いようでいて、逆に深かった。


 表面の圧は落ちている。

 だが、そのぶん奥へ潜ったものがある。

 そんな感じだ。

 床板を外し、暗がりへ降りる。

 土の匂い。

 古い灰の匂い。

 湿った木の匂い。

 流し路の溝をなぞる手燭の明かり。

 もう見慣れたはずの景色なのに、今日だけは全部が“最後の前置き”に見える。


 三人はこれまで通りの順で進む。

 綾人、冬真、千歳。

 梁の低さにも、膝へ伝わる湿りにも、もう驚かない。

 でも慣れたわけではない。

 慣れたくないまま、ここまで来てしまっただけだ。


 固定の札を越える。

 白い核の残りが見える。

 崩れた封具の枠が、その先の暗がりをまだかろうじて囲っている。

 さらに奥。

 最深部の口。

 前回見た、こちらを真似ようとする白い気配が沈んでいた場所だ。


「止まるな」

 綾人が低く言う。

「ここから一気に入る」

 千歳は返事の代わりに息を整えた。


 最深部へ入った瞬間、空気が変わる。


 冷たい。

 でも冷気というより、輪郭を撫でられる感じだ。

 皮膚の外ではなく、名前の内側へ指を差し入れられるみたいな嫌な感覚。

 千歳の背筋がぞくりとした。

 冬真の肩も同時に強張る。


「来る」

 冬真が低く言う。


 次の瞬間、ざり、と土の奥で何かが擦れる音。

 白い核の残りが淡く揺れ、その先の暗がりで白い輪郭が立ち上がる。

 人の形に似ている。

 でも完全には似ていない。

 “こちら側を理解しきれないまま真似ているもの”の形だった。


「見るな」

 綾人が言う。

「線だけ見ろ」

 線。

 千歳は意識を集中する。


 見える。

 完全には視覚じゃない。

 でも感じる。

 冬真の中へ続く細い道。

 そこから、千歳へ向かって伸びてくる意味の線。

 名前の音でも、声でもない。

 もっと奥の、“お前が誰か”を知っている感触そのもの。


「千歳」

 綾人が低く呼ぶ。

「はい」

「今どこ」

「祓殿の床下」

「うん」

「最深部」

「そうだ」

「わたしは秋月千歳」

「そうだ」

「戻す」

 自分に言い聞かせるように言うと、綾人が短く答えた。

「そのまま」


     ◆


 冬真の視線が、白い輪郭の奥へ滑る。


「冬真」

 千歳がすぐに呼ぶ。

「今どこ」

「……最深部」

 返ってくる。

 まだ浅い。

「うん」

「祓殿の床下」

「うん」

「お前」

 一拍置いて、

「震えてる」

 その返答に、千歳は少しだけ息を呑む。

 まだそこが見えている。

 まだこちらの細かい現実が見えている。


「怖いよ」

 千歳は正直に言った。

「でも、ここまで来た」

 冬真の目が少しだけ揺れる。

「知ってる」

「なら」

 千歳は続ける。

「戻る準備して」

 その言葉の直後、白い気配がふっと揺れた。

 千歳の視界の端に、今度は冬真ではなく、自分へ似たものが立つ。

 呼ばれる前の自分。

 振り向く前の自分。

 そういう“意味の形”だけを抜き出したような白さだった。


「っ……」

 息が止まりかける。


「千歳!」

 冬真の声が飛ぶ。

「今どこ!」

 その声が、今度は千歳を引き戻す。

 そうだ。

 今は互いに互いを戻す。


「……最深部」

 千歳は絞り出す。

「祓殿の床下」

「そう」

 冬真が低く続ける。

「夜じゃない」

「昼」

「そうだ」

「わたしは」

 一瞬、言葉が引っかかる。

 名前は言える。

 でも、その前に白い輪郭が差し込んでくる。


「秋月千歳」

 自分で言う。

 その瞬間、冷気が少しだけ引く。

 けれど、それだけでは足りないと千歳はもう知っていた。


「千歳」

 綾人が低く言う。

「名前の奥だ」

 その一言で、千歳は息を吸った。


 名前の奥。

 ここで呼ぶべきなのは、ただの音じゃない。

 冬真が、最後に残したがっていたもの。

 自分が自分であるために必要だと、この人が言ったもの。

 その意味ごと呼ばなければならない。


「冬真」

 千歳は、今までより低く、はっきり呼んだ。

「今どこ」

「……」

「祓殿の床下」

「……」

「最深部」

「……」

「白瀬冬真」

 そこで、冬真の喉が少し動く。


「……何だ」

 返ってきた。

 薄い。

 でも届いた。


「わたし」

 千歳は続ける。

「お前って呼ばれて」

「……」

「面倒って言われて」

「……」

「知ってるって返して」

「……」

「そうやってここまで来た」

 白い輪郭が揺れる。

 でも、今はそちらを見ない。


「今、戻って」

「……」

「名前だけじゃなくて」

「……」

「そこごと」

 一拍置いて、

「戻って」

 その言葉の瞬間、冬真の眉がはっきり寄った。

 視線が、少しだけこちらへ合う。


「……千歳」

 掠れた声。

 千歳の胸が強く鳴る。

 今のは、名前だけを拾った返答ではない。

 意味の方から返ってきた声だと、感覚でわかった。


     ◆


「そこだ」

 綾人が低く言う。

「切らすな」

 綾人の手の中で、札が三枚重なる。

 まだ切らない。

 今はまだ、呼びの形を保たせている。


「冬真」

 千歳は続ける。

「今どこ」

「……最深部」

「うん」

「祓殿の床下」

「うん」

「わたしは」

 少し間。

 でも、今度は前より浅い。


「秋月千歳」

「うん」

「……しつこい」

 その返答に、千歳は息を吐く。

 そこだ。

 そのどうでもいい雑音の先に、今の二人の意味がある。


「知ってる」

 返す。

「面倒?」

「……面倒」

「知ってる」

 冬真の口元が、ほんの少しだけ動いた。

 それは笑いではない。

 でも、向こうに落ちたままでは絶対に出ない動きだった。


 白い輪郭が、今度はあからさまに形を崩した。

 千歳の真似をしきれなくなったのだろう。

 意味の核へ届いた呼び方は、向こうにとっても単純には模倣できない。


「今だ」

 綾人が札を切る。


 白い光が、最深部の入口から核の残り、流し路の終点を一気に走る。

 ざり、と土の奥で長く何かが擦れた。

 白い輪郭が波打つ。


 だが同時に、冬真の身体も大きく揺れた。


「っ……」

 喉元へ手が行く。

 視線がまた奥へ滑る。


「冬真!」

 千歳が強く呼ぶ。

「今どこ!」

 返事がない。

 今までで一番深い沈黙。

 ここで止まると持っていかれる。

 でも焦って名前だけ重ねてもだめだ。


「冬真」

 千歳は低く言う。

「わたし、ここ」

「……」

「戻ってきたら」

「……」

「怒る」

 冬真の眉が少しだけ寄る。

 そこへ畳みかける。


「一人で決めるなって言った」

「……」

「庇う前に見るって言った」

「……」

「まだ終わってない」

 一拍置いて、

「だから戻って」

 その言葉のあと、冬真の唇が動く。


「……見る」

 ひどく小さな声。

 千歳は息を呑む。

 約束を、今ここで拾った。


「そう」

「……」

「こっち見て」

 冬真の視線が、ゆっくりこちらへ寄る。

 完全ではない。

 でも、今度はちゃんと“見る”意志がある。


「今どこ」

「……最深部」

「うん」

「祓殿の床下」

「うん」

「わたしは」

「秋月千歳」

「うん」

「……面倒」

「知ってる」

 そこまで返ってきた瞬間、白い輪郭がさらに大きく崩れる。

 意味の方から呼ばれ続けることで、こちらの形を真似られなくなっているのだ。


     ◆


 最深部の空気が、わずかに軽くなる。


 綾人が息を吐く。

「核の表面が剥がれた」

「……」

「次で本命だ」

 千歳はその言葉を聞きながらも、まだ冬真から目を離せなかった。

 今は戻っている。

 でも、その戻り方がこれまでとは違う。

 名前より深いところから、意味の方から戻ってきている。

 それがわかったからこそ、余計に怖い。

 そこまで使って、ようやく引き留めているのだ。


「戻るぞ」

 綾人が言う。

 今度は千歳も反論しなかった。

 ここで欲を出せば、さっき綾人に言われたことを自分で裏切る。


 三人はじりじりと後退する。

 千歳は言葉を切らさない。

 今どこ。

 最深部。

 祓殿の床下。

 秋月千歳。

 しつこい。

 面倒。

 知ってる。

 そして、その雑音の奥にある意味を、あえて薄くしないまま持ち帰る。


 床下から這い出した瞬間、外の空気が肺へ刺さった。

 冷たい。

 でも、ただの冬の冷たさだ。

 最深部の奥にあった、人の輪郭を撫でる冷えとは違う。


 冬真は祓殿の戸口へ手をつき、少しだけ俯いていた。

 千歳はすぐそばへ行きたいのをこらえ、少しずれた位置で呼ぶ。


「冬真」

 少し遅れて顔が上がる。

「……何だ」

「今どこ」

「祓殿の前」

「わたしは」

「秋月千歳」

「うん」

「しつこい」

「知ってる」

 そこまで返ってきて、千歳はようやく強く張っていた息を吐いた。


「今の」

 小さく言う。

「届いたね」

 冬真は少しだけ目を細める。

「何が」

「名前の奥」

 一拍置いて、

「そこ」

 冬真はしばらく黙っていた。

 やがて、ひどく小さく言う。

「……だろうな」

 その返答だけで十分だった。

 今の呼び方が、ただの確認じゃなく、二人の関係そのものへ届いていたことがわかったからだ。


 綾人が祓殿を振り返りながら低く言う。

「条件は揃った」

「……」

「次で切る」

 冬の空気はまだ冷たい。

 でも、もう終わりの場所は見えている。

 今度こそ、本当に。


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