第6章 第7話:もう一人で守らせない
翌朝の仮殿は、ひどく静かだった。
囲炉裏の火は細く残っている。
灰の下で赤く息をして、ときどき小さな音を立てる。その音だけが、今ここがまだ“普通の朝”の形をしていることを教えていた。
でも、千歳の中はもう普通ではなかった。
昨夜、全部聞いた。
肩代わりしてきた量。
抜けていた夜の多さ。
何度も自分を切るつもりでいたこと。
そして、最後までそれを気づかれないようにしていたこと。
知っていたつもりだった。
でも、全然足りなかった。
足りないまま隣にいた自分のことまで、今は少しだけ腹が立つ。
囲炉裏の向こうを見る。
冬真は壁際に座ったまま、浅く目を閉じていた。
眠っているわけではない。
呼吸は浅いし、顔色も良くない。けれど、昨夜すべてを吐き出したぶんだけ、どこか張りつめたものが削げているようにも見えた。
「……冬真」
低く呼ぶ。
少し遅れて、まぶたが上がる。
「何だ」
掠れた声。
でも、それはちゃんとここへ返ってきた声だった。
「今どこ」
冬真がほんの少しだけ眉を寄せる。
「朝からそれか」
「朝だから」
「……仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまで返ってきて、千歳は小さく頷く。
「うん」
「満足か」
「全然」
「だろうな」
その返しに、胸の奥が少しだけきしむ。
このやり取りを何度もしてきた。
でも今は、そのひとつひとつが、“この人を一人で守らせたままにしていた時間”ごと胸へ返ってくる気がした。
◆
綾人が戻ってきたのは、戸口の外の雪を踏む音がしてすぐだった。
仮殿へ入るなり、綾人は二人の顔を一度見て、囲炉裏の向こうへ座る。
「起きているな」
「雑」
千歳が言うと、綾人は平然と返した。
「確認事項だからな」
そして、少しだけ声を落とした。
「千歳」
「何」
「昨夜の続きだ」
千歳は小さく息を吸う。
やはりそうだ。
昨夜、知って終わりにはならない。
知ったなら、その先を選ばなければいけない。
「冬真」
綾人が低く呼ぶ。
「何だ」
「昨夜、全部出したな」
冬真は少しだけ目を伏せた。
「……たぶんな」
「曖昧にするな」
「細部まで覚えてない」
掠れた声。
「でも」
一拍置いて、
「だいたいは出た」
綾人は頷く。
「ならいい」
その一言は、優しさではなく確認だった。
「千歳」
今度は綾人がこちらを見る。
「お前は、何が変わった」
問いは短い。
でも、逃げ場がない。
昨夜、全部聞いたあとで、何を思ったのか。
どう立つのか。
そこを言えと言われている。
千歳はしばらく黙ってから、静かに言った。
「もう」
一拍置く。
「守られる側ではいられない」
仮殿の空気が、わずかに張る。
冬真の視線がこちらへ向く。
「それ、前から言ってたろ」
低い声。
「言ってた」
千歳は頷く。
「でも、昨夜までのは半分だった」
「……」
「知ってるつもりで言ってた」
「……」
「でも今は違う」
一拍置いて、
「どれだけ隠して、どれだけ一人で引いて、どれだけ勝手に終わる準備までしてたか」
喉が少し熱い。
「そこまで知った」
冬真は何も言わなかった。
その沈黙が、全部本当だったことを逆に強くする。
「だから」
千歳は続ける。
「もう一人で守らせない」
その言葉は、昨夜よりもはっきりと、自分の中で形を持っていた。
◆
「簡単に言うな」
冬真が低く言う。
千歳はすぐにそちらを見る。
「簡単に言ってない」
「そう聞こえる」
「そっちがずっと難しい方を一人でやってたからでしょ」
返すと、冬真は少しだけ言葉を失ったみたいに黙る。
でも今は、その沈黙を怖いとは思わなかった。
逃がしたくなかった。
「何回も」
千歳は言う。
「肩代わりして」
「……」
「何回も抜けて」
「……」
「何回も次は自分を切るしかないって思って」
「……」
「それでも黙ってた」
一拍置く。
「それ全部、一人で守ってたってことでしょ」
冬真は目を伏せたまま答えた。
「そうなる」
「そうなる、じゃない」
千歳の声が少しだけ強くなる。
「それを、もうなしって言ってる」
「無理だ」
冬真は即答した。
「何で」
「今さら、癖みたいなもんだ」
その返答があまりにも正直で、逆に千歳は息を呑む。
癖。
守ることが。
自分を先に削ることが。
そこまでこの人の中へ入り込んでいたのだ。
「じゃあ」
千歳は一歩だけ囲炉裏の向こうへ出る。
「その癖ごと壊す」
冬真が顔を上げる。
「何」
「聞こえたまま」
千歳は言った。
「怪異だけじゃなくて」
「……」
「そうやって一人で守るのも、終わらせる」
その言葉に、冬真の目がはっきりと揺れた。
たぶん今までで一番、真正面からそこを言われたのだろう。
「千歳」
低い声。
「何」
「それ」
一拍置いて、
「簡単じゃない」
「知ってる」
「……」
「でも、簡単じゃないからやらない、にはもう戻れない」
冬真はしばらく黙っていた。
囲炉裏の火が、ぱち、と鳴る。
「……お前」
やがて、掠れた声。
「ほんとに、そこまで来たんだな」
その言い方が少しだけ寂しそうで、少しだけ安堵しているようにも聞こえて、千歳の胸が痛む。
「来たよ」
千歳は答える。
「だって、ここまでバレたのに」
一拍置く。
「今さら知らない顔なんてできない」
◆
綾人が低く口を開いた。
「それでいい」
二人がそちらを見る。
「冬真」
「何だ」
「聞いただろ」
「……」
「もう“気づかれないようにしていた”は終わった」
静かな断定。
でも、その一言がこの章の線引きのように重かった。
「千歳」
綾人が続ける。
「お前が今言ったことを、最終局面でも保て」
「……」
「感情だけで走るな」
「うん」
「だが、引くな」
「うん」
「冬真」
「何だ」
「お前も同じだ」
「……」
「もう庇うだけの位置へ戻るな」
冬真は少しだけ眉を寄せた。
「簡単に言う」
「簡単ではない」
綾人は答える。
「だが、そこを壊さなければ終わらん」
それは怪異との決着の話であり、同時に、この三人がここまで積み上げてきた関係の歪みをどう終わらせるかの話でもあった。
「千歳」
綾人が低く呼ぶ。
「何」
「言葉だけではなく、立ち位置で示せ」
「……」
「次に入った時、お前は“戻すだけの人”ではない」
「うん」
「冬真と並んで決める」
「うん」
「その位置を、一度も譲るな」
千歳は強く頷いた。
「わかった」
それはたぶん、第1章の自分では到底言えなかった返事だった。
◆
昼前、仮殿の中で最後の確認が始まった。
綾人は灰の上へ線を引く。
祓殿。
床下。
流し路。
最深部。
冬真の中の道。
千歳への線。
その全部を、今日は今までより近い距離で繋ぐ。
「最終局面では」
綾人が言う。
「向こうは千歳へ触れる」
「うん」
「冬真は反射で庇う」
「……」
「そこが一番危ない」
千歳は灰の線を見ながら、静かに息を吸う。
もうわかる。
怪異だけが敵ではない。
冬真の反射もまた、最後の障害のひとつなのだ。
「じゃあ」
千歳が問う。
「その瞬間、わたしはどうする」
綾人は答えた。
「止める」
「……」
「言葉で」
「……」
「位置で」
「……」
「そして、お前自身も引かれながら、それでも冬真へ“庇わせない”」
無茶だ。
そう思った。
でも、今はそれを無茶と呼んでいる場合ではない。
「できる?」
綾人が問う。
千歳はしばらく黙った。
怖い。
たぶん今までで一番。
でも、昨夜全部聞いたあとで、それでも冬真に一人で引かせる方がもっと嫌だった。
「やる」
はっきり言う。
「できる、じゃなくて?」
「やる」
千歳は視線を上げる。
「できるかどうかより先に、やらないと終わらない」
綾人は数秒見て、それから小さく頷いた。
「いい」
その一言で、少しだけ仮殿の空気が変わる。
「冬真」
今度は千歳が呼ぶ。
「何だ」
「次」
一拍置く。
「庇ったら怒る」
冬真の口元がほんの少しだけ動く。
「最終局面でそれ言うのか」
「言う」
「面倒」
「知ってる」
「……」
「でも、怒る」
「何で」
「約束破るから」
冬真はそこで、少しだけ目を伏せた。
「約束って」
「一人で決めないってやつ」
その言葉に、冬真は小さく息を吐いた。
「……覚えてたのか」
「当然」
「そういうとこ」
一拍置いて、
「ほんとに厄介だな」
「知ってる」
返すと、冬真の口元がわずかに緩んだ。
その表情のまま、ひどく小さく言う。
「……わかった」
千歳は目を瞬く。
「何が」
「次」
一拍置いて、
「庇う前に、お前を見る」
その一言が、思った以上に重かった。
それはただの譲歩じゃない。
反射より先に、千歳を同じ決定の位置へ置くという宣言だったからだ。
千歳の胸が熱くなる。
「うん」
「それでいいか」
「いい」
一拍置いて、
「いや、よくはないけど」
「どっちだよ」
「今までよりはいい」
冬真は少しだけ呆れたみたいに息を吐く。
「面倒」
「知ってる」
そのやり取りを聞きながら、綾人が低く言った。
「今のを忘れるな」
「うん」
「日常の雑音として残せ」
もう何度も聞いた言葉だ。
でも今は、その意味がこれまでで一番深くわかる。
こういうどうでもいい押し問答の方が、綺麗な誓いよりずっと人を現実へ留める。
◆
夕方近く、千歳は一人で戸口のそばに立っていた。
外は白い。
冬はまだ終わらない。
でも、ここで終わらせなければ春へ行けないことも、もうわかっている。
「……千歳」
背後から冬真の声。
振り向く。
「何」
「今、何考えてる」
少し迷ってから、正直に答えた。
「次、怖いなって」
「……」
「でも、怖いより」
一拍置く。
「もう一人で守らせる方が嫌だなって」
冬真は少しだけ黙った。
それから、小さく息を吐く。
「重い」
「知ってる」
「でも」
一拍置いて、
「助かる」
その一言が、ひどく静かに胸へ落ちる。
いつもならこの人は、もっと遠回しにしか言わない。
でも今は、ちゃんとそのまま言った。
「……うん」
千歳はそれだけ返した。
他にうまい言葉が見つからなかった。
囲炉裏の火が、仮殿の中で小さく鳴る。
もうすぐ最後が来る。
でも今は、その前に初めて、二人がちゃんと同じ位置へ立ちかけている気がした。




