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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第6章 第6話:隠していた全部


 その夜、仮殿の空気は、静かなまま張りつめていた。


 囲炉裏の火は細く燃えている。

 札も新しく打ち直してある。

 板戸の隙間から入る冷気はたしかに冬のものなのに、千歳にはその冷たささえ、何かが来る前触れに思えた。

 最深部まで見た。

 向こうは千歳へ直接触れ始めた。

 そして冬真は、反射みたいにそれを庇った。


 そこまで来てしまった以上、もう隠して進める段階ではない。

 千歳には、その予感がはっきりあった。


「……冬真」


 低く呼ぶ。


 壁際に座っていた冬真が、少し遅れて顔を上げる。

「何だ」

 声は掠れている。

 だが、意識はまだこちらにある。


「今どこ」

 冬真がわずかに眉を寄せる。

「仮殿」

「わたしは」

「秋月千歳」

「綾人さんは」

「月代綾人」

 そこまで返ってきて、千歳は小さく息を吐いた。


「うん」

「何回やる」

「何回でも」

「面倒」

「知ってる」

 そのやり取りは、今ではほとんど祈りに近かった。

 日常の雑音。

 でも、それが人の側へ戻るための綱になることを、もう三人とも知っている。


 綾人は囲炉裏の向こうで、珍しく何もしていなかった。

 札も切らず、灰にも触れず、ただ二人を見ている。

 それだけで、今夜は言葉の方が先だとわかった。


「千歳」

 綾人が低く呼ぶ。

「何」

「今日、お前が見たものは何だ」

 唐突な問いだった。

 だが、意味はわかる。

 最深部で、何が起きたのか。

 それを、まず千歳自身が言葉にしなければならない。


「白い手」

 千歳は静かに言った。

「……」

「手、って言っていいのかわからないけど」

 一拍置く。

「こっちに触ろうとしてた」

「何に」

 綾人が問う。

 千歳は少しだけ喉を鳴らす。


「わたし」

「……」

「名前とか、声とか」

「……」

「たぶん、それだけじゃなくて」

 一拍置いて、

「冬真の中に残ってる“わたし”ごと」

 その言葉で、仮殿の空気が静かに重くなる。

 冬真は目を逸らさなかった。

 だから余計に、千歳は続けた。


「それを見た瞬間」

「……」

「冬真、庇った」

「……」

「考えるより先に、引いた」

 冬真の喉が、小さく動く。

 否定しない。

 できないのだろう。


「綾人さん」

 千歳が低く言う。

「これ、いつからですか」

「何が」

「こういうふうに」

 一拍置いて、

「わたしに向かうものを、冬真が先に引いてたの」

 綾人はすぐには答えなかった。

 その沈黙が、逆に答えに近かった。


「……かなり前からだ」

 やがて、低い声。

 千歳の胸が強く鳴る。


「かなり前って、どのくらい」

「お前が自覚するより前」

「……」

「少なくとも、冬真が肩代わりを“習慣”にしていた頃には、もうそうなっていた」

 千歳は一瞬、言葉を失う。

 習慣。

 その言い方が、あまりにも痛かった。

 守ることが、もう特別な判断ではなく、生活に食い込んだ癖になっていたということだからだ。


     ◆


「何で」


 気づけば、そう言っていた。


 冬真が少しだけ目を細める。

「何が」

「何で、そんなの」

 喉の奥が熱い。

「何で今まで言わなかったの」

 冬真は目を伏せた。

「言ったら」

「……」

「お前が変わる」

「もう変わってる」

 千歳は即座に返す。

「知ってる」

 冬真の声は低かった。

「でも」

 一拍置いて、

「全部知ったら、もっと前へ出る」

 またそこだ。

 また、この人はそこへ戻る。


「じゃあ」

 千歳は言う。

「どこまで」

「……」

「どこまで隠してたの」

 冬真は黙る。

 綾人がその沈黙の横から、静かに口を開いた。


「全部だ」

 千歳が綾人を見る。

 綾人の顔は静かだった。

 静かだからこそ、その一言は重かった。


「肩代わりしていた量も」

「……」

「抜けていた夜の回数も」

「……」

「千歳へ向いたものを、途中で引き受けていたことも」

「……」

「そして」

 一拍置いて、

「最終的に自分を切るつもりでいたことも」

 その最後の一言で、千歳の呼吸が止まる。


「……何」

 声が掠れる。

「何て」

 綾人は視線を逸らさなかった。

「最終局面で、千歳へ向かう線が止めきれないなら」

「……」

「冬真は、自分の方を落として終わらせるつもりだった」

 仮殿の中の音が、全部消えた気がした。

 囲炉裏の火が鳴っているはずなのに、それすら遠い。


「うそ」

 小さく零れる。

 でも、綾人は否定しない。

 冬真も、否定しない。


「……何それ」

 やっと出た声は、ほとんど掠れていた。

「それ、いつ決めてたの」

 冬真はしばらく黙っていた。

 やがて、低く答える。


「かなり前」

 千歳の胸の奥が、ずきりと痛む。

「かなり前って」

「通り道が深くなって」

 一拍置いて、

「戻れなくなる線を、だいたい自分で見た頃」

 その言い方に、千歳は息を失う。

 この人はそんな前から、最終的には自分を切るしかない可能性を見ていたのだ。

 見ていて。

 それでも黙って、隠して、平気そうな顔をして、ここまで来た。


「……ふざけないで」

 低い声が漏れる。


 冬真が顔を上げる。

 綾人も黙っている。


「何で」

 千歳は続ける。

「何でそんな大事なこと」

「……」

「最後まで黙って」

「……」

「しかも、一人で決めてるの」

 喉が熱い。

 怒っている。

 でも、怒りだけではない。

 苦しい。

 怖い。

 今さらみたいに、どれだけ守られてきたのかが、まとめて胸へ落ちてくる。


「何回」

 千歳は掠れた声で言う。

「何回、そうやって」

 一拍置いて、

「わたしに来るもの、先に引いたの」

 冬真は少しだけ目を伏せた。

「数えてない」

「数えて」

「無理だ」

「大体でいい」

 冬真は長く黙ってから、ひどく低く言った。

「……ほとんど」

 千歳は息を呑む。


「何が」

「社に残ってから」

 一拍置いて、

「お前に近づくものは、ほとんど先に見てた」

 その言葉が、鋭く胸を裂く。

 ほとんど。

 つまり、千歳が気づかないところで、ずっと前から、冬真は先回りしていたのだ。


     ◆


「……何でそんなことできるの」


 千歳は言った。

 怒鳴るでもなく、泣くでもなく、ただ言葉だけが零れる。

「何でそんなの」

「できたんじゃない」

 冬真が低く返す。

「そうなった」

「同じじゃない」

「違わない」

「違う!」

 今度は声が上がった。

 仮殿の空気がぴんと張る。


「そうなった、で済ませないで」

 千歳は囲炉裏の向こうへ一歩出る。

「肩代わりも」

「……」

「抜けてた夜も」

「……」

「記憶が削れた回数も」

「……」

「今、自分切るつもりだったことも」

 一拍置いて、

「全部、“そうなった”じゃなくて、やったことでしょ」

 冬真は何も言わなかった。

 否定できない。

 その沈黙が余計に苦しい。


「何で一人でやるの」

 千歳は言う。

「何で最後まで黙るの」

「言ったら」

 冬真が低く返す。

「お前が止まらない」

「止まらないよ」

 千歳は即答した。

「当たり前じゃん」

「……」

「ここまで聞いて、何もしない方が無理」

「だから言いたくなかった」

 冬真の声も、少しだけ強くなる。

「お前」

 一拍置いて、

「知ったら、自分も同じことする」

 図星だった。

 千歳は唇を噛む。

 たしかに自分は、知れば踏み込む。

 守るためなら危ない方へ寄る。

 それをこの人はずっと見ていたのだ。


「でも」

 千歳は絞り出す。

「だからって」

 一拍置いて、

「一人で全部やっていい理由にはならない」

 冬真は返さない。

 綾人が、そこで低く言った。


「その通りだ」

 二人がそちらを見る。


「冬真」

 綾人の声は静かだった。

「ここで全部出す」

「……」

「隠したまま最終決着へ入れば」

「……」

「また同じことをする」

 冬真は目を閉じる。

 その顔が、初めて少しだけ痛そうに歪んだ。


「……わかってる」

 掠れた声。

「なら言え」

 綾人は容赦しない。

「どこまで隠していた」

「……」

「何を諦めていた」

 沈黙。

 長い。

 でも、今度の沈黙は逃げではなかった。

 削れて、ようやく出てくる前の沈黙だった。


     ◆


「最初は」

 冬真が低く言う。

「戻せると思ってた」

 千歳は黙って聞く。


「肩代わりしても」

「……」

「抜けても」

「……」

「お前には気づかれないまま、何とかなるって」

 その言葉は、第1章からずっとあったこの人の形そのものだった。

 黙って抱える。

 知られないまま守る。

 傷の総量を見せない。


「でも」

 冬真は続ける。

「途中から、無理だってわかった」

「……」

「自分の方が先に削れる」

「……」

「それでも」

 一拍置いて、

「お前に戻るより、ましだと思った」

 千歳の胸が痛い。

 何度聞いても、その一点だけはぶれない。

 だからこそ、余計に苦しい。


「最終的に」

 冬真は囲炉裏の火を見たまま言う。

「止めきれなくなったら」

「……」

「自分の方を切るしかないって」

「……」

「何回も思ってた」

 千歳は目を見開く。

「何回も」

「一回じゃない」

 冬真は答える。

「夜、抜けたあととか」

「……」

「朝、戻ったときとか」

「……」

「名前が遠くなったときとか」

「……」

「そのたびに、次はもう無理かもしれないって」

 その一言一言が、記録の紙よりもずっと重く落ちる。

 量。

 期間。

 諦めかけていた回数。

 それが今、本人の口から出てくるからだ。


「……何で」

 千歳は掠れた声で言う。

「何で、そんなこと」

「お前が無事ならよかった」

 冬真は言った。

 あまりにもまっすぐで、あまりにもずるい本音だった。


「またそれ」

 千歳の喉が痛くなる。

「またそれで済ませようとしないで」

「済ませようとしてない」

「してる」

「……」

「だって、それ言えばわたしが言い返しにくいの知ってるでしょ」

 冬真は少しだけ目を伏せた。

 その沈黙が、否定できない答えだった。


「……最悪」

 千歳は言う。

「ほんとに」

 涙はまだ落ちない。

 でも、目の奥が熱い。

「最後まで、そうやって一人で」

 一拍置いて、

「気づかれないようにしてたんだ」

 それが、追加要件の核心だった。

 守っていたことを、気づかれないようにしていた。

 その全部が、今ようやく本人へ返ってきている。


     ◆


「千歳」


 綾人が低く呼ぶ。

 顔を上げる。


「今、何が一番きつい」

 その問いに、千歳は少しだけ目を瞬く。

 怒り。

 悲しさ。

 怖さ。

 全部ある。

 でも、一番きついのは、たぶんそこじゃない。


「……知ってたつもりだったのに」

 やっと声を出す。

「全然足りなかったこと」

「……」

「守られてたの、わかってた」

「……」

「肩代わりしてたのも、知ってた」

「……」

「でも」

 一拍置いて、

「ここまで一人で、ここまで先に諦める準備してたの」

 喉が震える。

「そこまで知らなかった」

 綾人は小さく頷いた。

「そうだな」

「……」

「だから今、ようやく本当に露見した」

 露見。

 その冷たい言葉が、むしろしっくり来た。

 隠されていた守りの総量が、最後の最後でようやく開いたのだ。


「冬真」

 千歳が低く呼ぶ。


 冬真が顔を上げる。

「何だ」

「もう一回言う」

 一拍置く。

「それ、なし」

「……」

「自分切って終わらせるの」

「……」

「もうなし」

 冬真は少しだけ目を細めた。

「簡単に言うな」

「簡単じゃない」

「……」

「簡単じゃないけど、なし」

 千歳は言い切る。

「だって今、全部聞いた」

「……」

「聞いた上で、まだ一人でやらせると思う?」

 冬真は返せなかった。

 返せない顔だった。


「わたし」

 千歳は続ける。

「ここまでバレたのに」

 一拍置いて、

「今さら黙って守られるだけに戻れない」

 その言葉は、自分でも驚くほどはっきりしていた。

 怒っている。

 でも、それ以上にもう、立つ位置が変わってしまったのだ。


 冬真は長く黙ったあと、ひどく小さく息を吐く。

「……知ってる」

 その返しは、いつものようでいて、今夜は少しだけ違って聞こえた。

 諦めではなく、受け入れに近い響きだった。


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